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緊急意見書

被災者に役立つ支援立法を

被災者の実情をふまえた国会審議を求める

1998年4月  自由法曹団

T はじめに 緊急意見書の発表にあたって
U 被災者の現状と求められる公的支援
    〜被災者への聞き取り調査結果から

V 被災地域の実情と求められる公的支援
W 真に生活再建を保障する公的支援立法を


T はじめに 緊急意見書の発表にあたって

 被災者に対する公的支援をめぐる動きが、重大な局面を迎えている。
 開会中の通常国会において、超党派議員が提出した支援法案(住居全壊世帯に上限500万円の支援金など)、旧新進・民主・太陽三党が提出した支援法案(住居全壊世帯に上限300万円の特別見舞金・特別支援金など)の審議が開始され、自民党は住居全壊世帯に上限100万円の支援金を支給する提案を行なって、協議・調整が続けられている。
 阪神・淡路大震災の発生から3年余、インフラ偏重の復興政策のもとで、巨額の公費が投じられた鉄道・港湾・道路などの復旧や産業基盤の復興・整備は着々と進行して、被災地は一見すると復興を遂げたかのような外観を呈してはいる。しかし、その一方で、戻る住居やまちを失った被災者は依然悲惨な状況に置かれ、仮設住宅では「孤独死」が相次ぐという痛ましい状態が続いている。生活再建より都市の復興を優先した復興・再建政策の矛盾は、もはやだれの目にも明らかになっている。この間、自由法曹団は、法律家団体として、震災直後から現地調査を繰り返し、95年8月にはアメリカの災害救助を調査する訪米調査を行なって被害や災害救助の実情をつぶさに見聞してきた。こうした調査を踏まえて、生活再建の基盤を再建するための公的支援の必要性を繰り返し提言してきた。

  1. 日本国憲法の保障する生存権の理念に照らして、被災者の生活再建に公的支援を行なうことは国と自治体の重大な責任であること、
  2. 同じく「自助努力」を旨とするアメリカにおいて公的支援は当然のように行なわれており、生活基盤再建のための公的支援は「自助努力」と矛盾せず、相補完するものであること
  3. 積極的な公的支援によってこそ地域経済・地域社会は復興できるのであり、公的支援には大きな公益性があること

などは、自由法曹団が『訪米調査報告書』『災害への保障は政府の責任』などの意見書において繰り返し指摘してきたところである。
 被災者への公的支援は、生活再建を求めるすべての被災者の要求であったばかりか、すでに国民的世論ともなった課題であった。被災自治体や全国知事会などから公的支援の要望・提言が次々と表明され、世論調査において公的支援賛成が圧倒的多数を占めていることなどはこのことを物語っている。とき折しも、金融機関への巨額の公的資金の投入が強行され、不況に苦しむ国民の強い批判を受けている。こうしたなかで、もし被災者への公的支援が実現されないなら、被災者のみならず国民の政治不信をいやましに拡大するに違いない。
 こうしたもとで今日、すべての政党・議員から公的支援の必要性が主張され、公的支援立法が論議されようとしていることは、大きな意味を持っている。「自助努力の国だから災害に直接助成はない」としてきたこの国の政治が、ようやく災害保障の実現に向かおうとしていることは、被災者・国民の声が政治を動かした歴史的な実例としても積極的に評価されるべきだろう。
 それだけに、被災者の切実な願いと国民的世論を託された公的支援立法は、真に生活再建を保障できるものでなければならず、国民の期待に応えるものでなければならない。
 では、いま被災者と被災地はどのような状況に置かれており、求められている公的支援はどのようなものでなければならないか。論議されようとしている公的支援法案は、生活再建を保障するに十分なものであるか。
 このことを事実から検証するために、自由法曹団はあらためて現地調査を行なって被災者からの聞き取り調査を行なうとともに、関係資料からの検討を行なった。
 自由法曹団がこの間提起し続けてきた災害保障・公的支援の理念やあり方は、すでに政党・議員において十分理解されていると確信する。本意見書は、そのことを前提に、事実調査やデータから「求められる公的支援」を検討するものである。

U 被災者の現状と求められる公的支援
    〜被災者への聞き取り調査結果から

 自由法曹団は、国会において、被災者の生活再建に役立つ公的支援立法が制定されることを願っている。そのためにも、震災後3年余にわたって被災現地で生活し、営業してきた被災者の実態を国会審議に反映させることが必要であると考える。
 そこで、本年3月29日、神戸市の灘区と長田区において、約20名の弁護士が参加して、震災による被害と震災後の生活や営業の実情について被災者の方から直接聞き取り調査を行った。そして、その中の14の事例について、聞き取り調査を行った弁護士の責任でその内容を文書にまとめ発表することにした。
 それぞれの文書を読んでいただければ、被災者に対する公的支援がなされなかったために、被災者がそれぞれ限られた条件のもとで、生活と営業の再建のために苦闘を重ねている事実が明らかになるであろう。そして、この調査結果は、@被災者が今なお十分な再建策を取り得ていないこと、A再建のために要した費用が大きな重荷になっていること、B被災者が将来に対する希望を持てない状況にあることなどをも浮き彫りにしている。
 以下、聞き取り調査によって明らかになった被災者がかかえる問題点を指摘する。

1 建物の十分な復旧さえなされていない

 まず、重要なことは、資金の調達ができないために、「全壊」認定を受けた建物について、建て替えや完全な修繕といった本来必要な復旧が未だにできない事実である。
 高齢のために金融機関からの借入ができない、あるいは借入をしても返済のメドがないという理由で、多くの被災者が自らの蓄えの範囲でとりあえず居住できる程度の措置しか取っていないケースが目立っている。その結果、その住環境は震災前と比べて劣悪なままである。また、被災前の居住スペースが確保できないために、家族がバラバラに居住せざるをえなくなったり、地域のコミュニティが破壊されている例も見られる。
 とくに、区分所有のマンションの居住者の問題は深刻である。建て替えにせよ、修繕にせよ、その資金のメドがたたないことから、区分所有者間で意見がまとまらず、結局、建て替えも修繕もされないまま居住を続けざるをえないという例も見られるのである。

2 再建のための費用が大きな負担となっている

 次に、自営業者については、建て替えや修繕の費用が調達できた場合でも、震災後地元住民が戻ってこないために売上が激減したり、長引く不況の影響で業績が悪化している。そのため、借入金の返済が大きな負担となっており、生活するのがやっとというケースが目立っている。
 震災後の借入については、一定期間の返済猶予がなされていることが多いが、今年から来年にかけてこの猶予期間が切れるケースが多い。ところが、自営業者はもちろん、給与や年金で生活している被災者にとっても、現在でさえ生活するのがやっとという生活状況の中から返済資金を生み出すことは至難のわざである。被災者に対して適切な支援がなされなければ、猶予期間後の借入金の返済はきわめて深刻な問題を生じさせることは明らかである。

3 将来の希望がみえない

 被災者の中には、住居や営業の再建のためにそれまでの蓄えを使い果たしているケースが多い。このため、被災者の多くは、病気など不測の事態が生じれば直ちに生活が破綻しかねないという状況のもとで生活している。
 とくに、高齢者にとって、蓄えを使い果たしてしまったことは、老後の不安を一層大きなものにしている。先に指摘した今後の借入金の返済の問題とあわせて、被災者は将来に対する希望を奪われた状況に追い込まれているのである。
 被災者に対する公的支援は、被災者の生活再建に役立ち、将来の希望を与えるものでなければならない。今回の調査によって、われわれがかねてから主張してきた、収入のいかんを問わず「全壊世帯に上限500万円、半壊世帯に上限250万円」という公的支援は、被災者の生活再建にとって必要最小限の水準であることを客観的に裏づけるものである。

聞き取り調査の結果

【事例1】 灘区在住のHさん(女性・52歳)

  1. Hさんの家族及び震災前の生活について
    Hさんは、震災当時、夫(現在56歳)、夫の母(震災当時81歳)、長男(現在29歳)、長女(現在27歳)の5人家族であった。自宅は借家であり、夫は運送業を営み、建物をJRより借り入れ、運送車両33台、従業員37名という堅実な営業を行ってきた。

  2. 被災の際の状況
    震災により、Hさんの住居・事業所は全壊し、Hさん夫婦とおばあさんは建物の下敷きになった。夫婦は1時間後に救出されたが、おばあさんは6時間後にやっと救出された。幸いにして大きなけがはなかったものの、6時間もの間、生き埋め状態におかれたおばあさんの精神的ショックは大きく、そのことも一因となったのか、同年7月9日亡くなられた。震災後、子どもたちと、おばあさんは夫の弟の家に預け、夫婦は車の中で生活するようになった。

  3. 住居・事業所の復旧
     住居については、震災の1週間後、アパート(6畳・4畳半、2畳の台所)で家族5人で生活をするようになった。これは、5人の大人が生活をするのにはきわめて手狭であり、Hさんとしては安心しておばあさんに生活をしてもらおうと思い、結局1戸建ての住居を購入した。購入代金は、約6000万円、そのほかに、家財道具をそろえたりで大きな出費を余儀なくされた。住宅購入資金は全額借り入れをし、銀行より4000万円神戸市信用保証協会の保証を得て1000万円、神戸市の生活資金借り入れとして350万円である。その余の資金は親族より借り入れている。現在銀行への支払いが月15万円あるが、その他の2口の返済が来年から開始され、それを含めると月34万円の返済となる。
     事業所に関しては、JRが復旧をするまでは、他に場所を求め、95年12月にやっと元の事業所に戻ることができた。

  4. 震災後の営業状況
    震災のあった、95年の1年間の夫の運送業の売り上げは従来の半分となった。その後、長引く不況とのダブルパンチで、得意先が倒産して手形の不渡りを食らうとともに、他に取引相手を求めざるを得ず、過当競争の結果、運送料を買いたたかれる状況にある。
     そのため、現在では、経費を賄うのがやっとであり、利益を上げることはとても期待できない。

  5. 公的資金に期待する点
    以上の次第で、Hさんの公的資金援助に期待する点は大きい。特に、来年からは、返済額が毎月19万円も増える現状の中で、500万円の援助が得られる事はHさんの夫が事業を継続し、生活を維持する上で欠かせない。この援助によりHさんとしては大きな借金の1部を返済し、月々の返済を5〜6万円程度削ることができる。これは来年からの返済額の大幅な増加を多少なりとも緩和し、何とか営業を継続する意味において決定的である。早急な救済が求められるゆえんである。

【事例2】 灘区在住のSさん(女性・72歳)

  1. 私は、夫(72歳)と2人暮らしです。夫は依然は自営業を営んでいましたが、7〜8年前に身体を悪くして仕事ができなくなりました。私たち夫婦には、長女(41歳)、長男(38歳)、二男(32歳)がいますが、いずれも結婚して家庭を持っています。
     震災時には、住所地に土地を所有し、木造2階建ての建物を所有し、1階を自宅として使い、2階の4部屋を賃貸していました。当時は、夫の年金が毎月約7万円で、家賃収入が約10万円あり、私もパートに出ていました。

  2. 自宅は、震災で全壊し、家財道具も全てダメになってしまい、近くの小学校でその年の7月頃まで避難生活をしていました。その後、1995年7月から2年間、仮事務所のために2年間土地を借してほしいという話があり、仮事務所の一部を住居として使わせてもらうことを条件にして貸すことにしました。その後、1995年12月に自宅を建て直しましたが、その間は仮設住宅に住んでいました。
     自宅を建て直すときに、建築会社から、自宅兼アパートを建て替えるなら6000万円くらい借りられるという話があったのですが、銀行に行ったところ、私たち夫婦は年齢が高いので、息子の名義でなければ貸せないと言われました。しかし、長男は妻と2人の子どもがおり、とても自宅を建て直す資金を借りられるような状態ではありませんでした。また、長女は灘区に住んでいましたが、マンションが全壊して修繕費だけで500万の出費がありました。
     そこで、私たち夫婦は、夫婦が住めるだけの家を建て直すことにして、貯金を全部使って600万円でプレハブに毛が生えた程度の10坪の家を建て直したのです。このとき、子どもたちは自分も大変な中、100万円の資金を出してくれました。被災時には、8畳、6畳、6畳、5畳の部屋と台所等があったのですが、現在の建物は6畳2間と台所・浴室だけしかありません。そのため、子どもたちが来ても泊まるところもなく、狭い場所での生活なのでストレスがたまってしょうがありません。
     自宅の建て直しで手持ちの資金は全部使ってしまいましたので、家財道具をそろえる資金もなく、近所の人や知人の好意でなんとか最低限の家具だけそろえました。

  3. 私の住んでいる地域は、表通りはきれいになりましたが、少し裏に入るとまだ建て直しもできなくて、草ぼうぼうになっている土地があります。また、私の近所には、自宅を建て直すことができず、結局、土地を処分して引っ越してしまった人もいます。
  4. 現在の収入は、私にもやっと年金が出るようになりましたので、2人で月約16万円です。しかし、夫は腰と骨盤を骨折しており2週間に1回は病院に通わなければなりませんし、家賃収入もなくなりましたので、毎月ぎりぎりの生活をしています。
     何よりも、自宅の建て替えで蓄えを全部使ってしまいましたので、冠婚葬祭などのときは、本当に大変です。葬儀費用もままなりませんので、夫にはよく「死んだら困る」ということを言っています。
     公的支援がされれば、もう少しゆったりした家に住みたいと思います。また、少しは蓄えもできるのではないかと考えています。ぜひとも、被災者に対する公的支援を実現してもらいたいと思います。

【事例3】 灘区在住のNさん(男性・62歳)

  1. N(62才)さんは、神戸市灘区内で父祖の代から居住し、震災前は約90坪の所有地に、賃貸用の5階建マンションと4階建の食堂(兼旅館)、それに4階建の住居をもち、食堂経営も順調で家賃収入もあるため、老後にも心配のない生活であった。
     家族は妻(55才)と実姉(72才)の3人で、それに生計は別であるが同じ建物に息子(会社員)夫婦も住み、住居部分は震災前年に約2800万円をかけて大改造したので、自分の一代は家の心配もいらない計画であった。
     ところが、たった20秒余の地震のために、3棟の鉄骨造りの建物が役所の認定でも全壊となる被害を受けた。そればかりかNさんは建物の下敷きとなり、救出されたのは実に5時間後のことだった。奇跡的に大きな外傷は無かったが、両下肢が長時間の圧迫で腫れ上がり、また眼底出血も出て治療に5ケ月を要した。  以来、健康にも自信をなくした毎日である。

  2. 震災直後、何はともあれ商売の再開だと考え、住居部分は痛みも激しいので取り壊し撤去したが、全壊と言われた店舗棟とマンションの復旧工事に努めた。
     しかしマンションは約50センチも床が傾斜し、店舗も屋上の主要な付帯構造物(屋上の給油タンクや給水タンク等)が壊れ、付帯設備もすべて使用不能となり、これらの復旧と改修工事に約4000万円を要した。
     震災後の復旧工事は大変割高で、それまでの蓄積(預金、保険、株)のほとんどを使い果たし、さらに合計2350万円を神戸市や県などから借り受けて、震災の年の5月には何とか商売も再開できた。平成7年の地震の年の年末までは、震災特需で食堂客に恵まれたから、他の多くのもっと悲惨な被災者から見ると自分などまだまだ恵まれた方とNさんは思う。
     しかし、震災の影響で近所の会社や工場が閉鎖され、また住民も中々元の住所地に復帰してこないから、周辺人口が依然として半減した状態で、平成8年から今日まで食堂の客が大幅に減ったままである。食堂の売り上げは、震災前は年間約2000万円あったが、現在では年間800万円程度に落ち込み、所得にすると現在は年間250万程度と思われる。賃貸マンションも元は7戸に貸していたが、修繕後はその一部に家族や息子夫婦らが住み、現在は、空部屋もあるため賃貸は2戸にとどまり、家賃所得が震災前は年間約500万円あったのが120万円程になってしまった。

  3. 現在2350万円の返済が元利金とも猶予されているから、何とかやりくりしているが、来年の5月から2000万円口が10年間で、再来年には350万円口も10年間でそれぞれ返済が始まると、たちまち行きづまることが予測される。
     商売人は国民年金も65才からの月額65000円に限られているから、老齢でいつまでも商売を続けられないと思うと、この2350万円の返済に対する不安は大きい。
     Nさんの場合、健康であるかぎり働いて行くつもりであるが、肝心の食堂経営に不安が大きいだけに心配の種は尽きない。Nさんは、万一の場合は土地を売って引退すれば何とかなると慰めつつ不安を忘れようとする毎日であるが、一瞬の中にすべてを失い、さらに大きな借財を残した震災被害に対して、できるだけ大きな公的支援の手が伸べられることを期待している。

【事例4】 灘区在住のSさん(男性・47歳)

  1. まず、阪神・淡路大震災による被害を申し上げます。
     当時の同居家族構成は妻(47歳、看護婦)、長女(24歳、事務員)、次男(20歳、身体障害者・障害等級2級)、そして私の両親(いずれも年金生活者)の6名で、一戸建木造2階建居宅(3DK)を1ヶ月12万円で賃借して居住していました。
     震災によりこの借家は倒壊はしませんでしたが、傾いており神戸市の判定では「全壊」でした。

  2. 家族全員直接生命身体に被害はなかったのですが、長女は精神的ショックが原因で自律神経障害によるアトピーが出て6ヶ月入院し現在も完治しないまま仕事は休職中です。また次男は障害者施設に入っていましたが、やはり精神的ショックで恐怖感を終始抱いて大声をあげたり暴れたりするために施設に預けることが不可能となって妻が退職して介護しています。さらに父も精神的ショックで急速にボケが生じています。

  3. 住居は全壊の判定でしたが、1995年5月傾いたまま補修をしてそのまま居住しています。補修といっても応急修理にすぎず家屋全体が傾いたままですから、隙間風が入って冬場は寒くてたまりませんし、トイレも下水装置も壊れたままです。
     それでも補修費は360万円もかかりまして、そのうちの120万円を私が負担しました。家主も被災していて240万円以上は出せないというからでして、結局は先に述べたような応急修理に止まっている状態です。そのくせ家賃は5千円値上げされました。
     しかも、前述のとおり次男を施設に預けられなくなりましたので住居が手狭となり、両親は別にアパートを借り別所帯として年金だけで最低限度の生活をしています。
     家財道具も震災により殆ど全部が損傷を受けましたが、損傷はあっても使えるものはそのまま使っています。しかしながら、両親が別所帯となったこともあり、60万円ほどで家財道具(中古品も含め)を補填しています。

  4. これらの損害補填のために借金をしました。
     震災直後に生活費と生活用品費用に当てるために神戸市からに20万円を借入れ、また勤務先からも30万円を借入れましたが、これは一応妻の退職金で返済しました。
     家屋修理費、家財道具購入費、両親の住居移転費などはサラ金からの借入金でつないできて、1996年8月になってやっと兵庫県から300万円を震災復旧貸付金融資を受けて当てました。その返済は3年間猶予されているものの返済の見通しはたっていません。

  5. 被災当時、私、妻、長女の3人が働き年収1200万円ほどありましたが、現在は私の収入しかなく月収手取り30万円です。生活費はどう切りつめても月33万円は必要ですし、特に医療費の負担が大きく困っています。収入との差額は妻の退職金で補填していますが、これももう限度にきています。

  6. 差し当たり住居の隙間風をなくすために壁や柱に加工をするだけで33万円、トイレ・下水装置補修で30万円と見積もられていますし、電気冷蔵庫の買い換えが迫っていますし、300万円の借入金返済も来年からしなければなりません。家主はしてくれませんので家屋の傾きを私どもが直そうとすれば数百万円が必要です。

  7. このままでは一体どうなるのか生活再建の目処は全くたっていません。 国がその責任を果たして生活再建ができる公的助成を1日も早くしてもらいたいと望みます。そうすれば生活再建のきっかけはできると期待しています。

【事例5】 灘区在住のTさん(男性・61歳)

  1. 昭和45年から私は被災地で電気製品小売業を営んできました。零細業者ですので妻が専従者として手伝ってくれるだけで他に従業員はいません。
    昭和63年に鉄骨コンクリート造4階建店舗住宅を新築しました。敷地はもともとありましたので建築のための借入金は約2000万円でした。
    震災当時まだ1500万円が残っていました。
    1階は店舗で、2〜4階は住居部分で震災直前は妻(55歳)、長女(30歳、銀行員)、母(88歳)の4人暮らしでした。

  2. 阪神・淡路大震災に遭いましたが、建物は新築でもありましたからビクともしませんでしたが、類焼して全焼です。生命身体の被害はありませんでしたが、家財道具を運びだすこともできず着の身着のままの被災でした。

  3. 震災直後にこの地域が都市区画整理の対象となりましたので、もとの建物を再建することができず、仮設の2階建店舗住宅しか建てられませんでした。無理をすれば4人暮らしはできますが、手狭ですから母は今なお神戸市の仮設住宅で暮らしています。

  4. 仮設の店舗住宅でも建設費は1700万円かかりました。そのうち700万円は蓄えがありましたが、1000万円は神戸市からの借入金です。3年据え置きの10年払いです。
    幸運にも、家財道具や身の回り品は中古で15万円で買い入れることができたのと身内や知人の提供を受けて揃えることができました。

  5. 震災前は年間売上は約1800万円でしたが、昨年は1500万円しか売上がなく赤字でしたから神戸市から運転資金として200万円借りました。これは6年の分割返済です。

  6. 今年6月から1000万円の返済がはじまりますし、また震災前のローンの残り1500万円も支払い続けなければなりません。売上が昨年並みならどうしようかと心配です。
     区画整理が終われば店舗住宅を再建しなければなりませんが、震災前のような4階建は無理で、せいぜい2階建でもと思っています。しかし、それでも2000万円は必要であると言われており、区画整理の補償金(面積が狭いので多くは望めませんが)と被災者に対する公的支援金を多くいただき、しかも売上を増やさないと2階建でも無理です。現状ではこれまでの借金の返済も困難ですので、これ以上の借金は無理です。

  7. 新聞などで公的支援は上限100万円などと言われていますけれども、正直言ってとても生活や営業の建て直しには役に立ちません。何のためにこれまで税金を納めてきたのかと恨めしく思います。

【事例6】 灘区在住のSさん(男性・55歳)

  1. 震災当時の状況
     私はクリーニング業界に35年ほど身をおいています。震災時には、灘区内で土地25坪を借り、10坪程度の木造2階建ての1階でクリーニング業を営んでいました。また、その土地の一部に10坪程度の木造2階建の建物を建てて住んでいました。クリーニングの仕事は、70代の母と40代の妻に手伝ってもらっていました。震災時には、自宅・店舗の両方の建物がいずれも全壊してしまい途方に暮れました。幸いにして、家族も含めて医者に行くほどの怪我はありませんでしたが、避難場所に一時期家族で移らざるを得ませんでした。
     私は友人から「待ってたらあかんで。誰も助けてくれへん。」という言葉を聞き、それがきっかけとなり自分自身で行動を起こすしかないと思いました。そして、出来るだけ早く再開しようと努力し、元の店舗の場所にプレハブ10坪の仮設店舗を設けて、平成7年5月1日から営業を再開することができました。この周辺では1番か2番目に早かったと思います。また、いつまでも避難場所で不自由な生活を続けるわけにもいかないので、団地に入居しました。
     仮設店舗の再開には、自動車の購入代金も含めて約800万円、引っ越しと家財道具購入等を含めて約300万円かかりました。これらは手持ちの資金やお見舞金300万円で何とかしました。

  2. 底地の購入と新店舗の建設
     私の店舗・住居のあった土地は、そこを含めて10軒ほどの方々が同じ地主さんから借地していました。ところが、震災後に地主さんがこの10軒分の土地をある建設会社に売却してしまったことを知りました。10軒の方々と一緒にこの建設会社と統一交渉を持ち、それぞれの底地分を購入して解決しました。ここを立ち退かされたら当時は行くところの当ても全くなかったので安心しました。この土地の購入代金は坪35万円なので900万円ほどでしたが、その他の経費も含めて1000万円を土地を担保にして借り入れました。
     震災当時、長男(現在26歳)は神戸製鋼に勤務していましたが、地震後に退職して私の仕事を手伝い、さらに結婚して長男の妻も仕事を手伝ってくれています。私の仕事は、あるチェーンレストランのユニフォームの洗濯という大口の固定客があることもあって、仮設店舗での営業も軌道に乗り始めました。また、恒久的な店舗の建設とこれに隣接した自宅がやはり必要だと考え、仕事が安定したものであったことから、金融機関からの信用を何とか得て融資の見通しも立ちました。その結果、仮設店舗の建て直しよりは別の場所に新設した方がよいと判断し、平成9年4月に旧店舗から約500メートル離れた現住所地に土地35坪を購入しました。そして、平成9年10月に店舗兼自宅を建設し、以後そこで営業し、母、妻、長男夫婦と孫の6人で同居して生活しています。
     この土地の購入代金に5000万円、建物の建築に4000万円かかりましたが、すべて金融機関からの借り入れでまかないました。もちろん、実際に借り入れをするまでの道のりはとても大変でした。

  3. 3 借入金の状況
     震災前にはバイクの購入等で約400万円の借り入れがあるだけでしたが、その後、底地の購入に1000万円、新規の土地建物に9000万円を借りましたので、現在は1億円以上の負債を抱えています。他方、震災時には年の売上げが約2000万円で収入はその4割程度だったのですが、昨年の売上げはがんばって約1500万円でその約4割が収入ということですから、今は家族6人が生活するだけで大変です。借り入れについては、金融機関との協議により3年間は利息の支払だけとなっていますが、来年から元本の返済も始まります。旧店舗の所在地の土地を売却したいとも考えていますが簡単に売れそうにもありません。今後の支払は極めて大変になることは火を見るよりも明らかです。
     震災後、私は営業努力をし、大阪方面にも顧客を開拓してきましたが、今は仕事量を倍加するために新しい洗濯設備を導入したいのですが、新たな借り入れができず、大変困っています。

  4. 公的支援について
     たしかに、私は他の被災者の方に比べれば恵まれているかも知れません。しかし、私や私の家族が公的資金を受けられないとしたら、それはおかしいと思います。家も店も全壊して、私たちはそれでもまたここまで頑張ってきたのです。震災後今日まで、私は合計しても1週間も休みをとっていません。
     公的支援については、自分たちだけのためにやっていると誤解されていることは大変残念ですし悔しいことです。自分たちと同じような被害が出たときに速やかに公的支援がなされれば、苦労することが多少は減ることは明らかだからです。最後になりますが、税金の無駄遣いは本当にやめてほしいと最近感じています。

【事例7】 灘区在住のKさん(女性・70歳)

  1. Kさんは、神戸市灘区内の分譲マンションに居住している。
     既に看護婦を定年退職して、現在は在宅ヘルパーをアルバイトでしているが、月20万円程度の年金で生活している。1人暮らしである。  震災で居住していたマンションが全壊した。但し、居住は可能であり、現在も同マンションで居住している。
  2. 現在同マンションでは、建物を建て替えるか、補修のみで済ませるかで管理組合は2分されている。
     補修であれば、1世帯当たりの負担額は500万円程度であるが、建て替えとなると最低2000万円は必要となる。
     同マンションには全体で178世帯が居住しているが、建て替え費用が捻出できないため補修で充分という立場の人と、建て替えを進めようとする立場の人で管理組合内の意見が分かれており、現在建て替えをするとの管理組合決議の効力を巡って裁判所で係争中である。他の居住者に聞いても、建て替え費用が捻出できない人や既にローンを組んでいて抵当権を設定しているため取り壊しには抵当権の抹消が必要となるがそれができない人等経済的に建て替えが困難な人が多数いる。

  3. Kさんは高齢のため新たに借入をして資金を捻出することはできない。補修の場合には老後の生活のために貯めた貯金全額を補修費に充てなければならないのでその後の生活に不安が残る。
     仮に建て替えとなった場合は、資金のめどは全く立たないので、マンションから立ち退いて他の住居を探さねばならない。他の住居を探す場合も公営住宅は入居できない。
     そこで民間の住宅を確保することになるが、老人同士の交流の場となるような住宅を考えているが、確保には資金が必要である。
     このような状況なので、公的支援がされれば補修費あるいは建て替えの際の住宅の確保の資金に充てられるので、是非実現して欲しい。
     また、他のマンションの住人の中でも建て替え費用、補修費用の捻出に困難な人がいるので公的支援がなされれば助かるはずである。

【事例8】 灘区在住のMさん(男性・57歳)

  1. 職業、家族など
     私は私立高校の教師をしています。57才です。妻も教師で、他の同居家族は社会人の娘(25才)です。
     私の住んでいるマンションは築7年目の分譲で、12階建て、178世帯あります。
     私の区分所有は、4DKで74・34平方メートルです。震災直前で4000万円くらいの価格だときいたことがあります。

  2. 被災状況
     現在のマンションで震災にあいました。
     マンションの一角が比較的大きな被害にあったため、マンション全体としては「全壊」という認定を受けています。
     私のところは怪我もなく、家財道具に損害を受けましたが、躯体には影響を受けておらず、引き続き生活を続けてきています。他にも9世帯がこのマンションでの生活を続けています。
     家財道具の買い替えのために200万円くらい借入をしました。

  3. 建替えか修繕か
     マンションの管理組合は平成9年1月の総会で「建替え」の決議をしました。これに対し、私をはじめとした22世帯は「建替」でなく「修繕」で対応できると主張して、現在管理組合を相手として裁判をしております。
     建替えとなると1世帯あたり新たにおよそ2000万円の資金がかかる見込みです。
     私のことろは共稼ぎ、まだ定年退職まで7年残しておりますが、新たに2000万円の準備となると大変です。住人のなかには年金生活でローン支払いをしている方がいます。この方の場合には、新たに2000万円を借入れて二重ローンの支払いをしていくことは不可能だと思います。私たちが主張している「修繕」の場合は、費用の見込みはおよそ500万円くらいだとの試算ができております。この500万円でも準備がたいへんな住民がいます。
     私がおかしいと思うのは「建替え」には行政から補助金が支給されるのに、「修繕」には補助金がまったくつかないことです。このことに不満をもっている被災者がいっぱいいます。「修繕」で済むのに、補助金がでるということで「修繕」ではなく「建替」を選択する傾向があるのではないでしょうか。「修繕」にも行政から支援の金が出ればもっと「修繕」が進むと思います。これを公的支援で補償していただけないものでしょうか。

  4. 授業料が支払えない家庭がある。
     私の勤務している高校では、学力や出席日数には問題がないのに授業料の支払いができないために進級や卒業認定ができない被災者の子どもたちがまだいます。被災により打撃を受けた商売の再建ができないのです。こどもたちがかわいそうです。生活と商売の再建のために公的支援をぜひ実現してほしいと切望します。

【事例9】 長田区在住のNさん(男性・58歳)

 私は神戸市長田区若松町に居住し、その近くでうどんそば等を主とした飲食業を営んでいた者です。今回の大震災により、私も他の被災者の皆さん同様多大な被害を受け、今後生活の再建、継続はより困難になることが目に見えてきていますので、その実情を陳述いたします。

  1. 私は現在58歳です。住所地に妻(57歳)と2人で暮しています。子供は3人いましたがいずれも既に独立し、現在被災地外で暮しています。
    私共夫婦は震災まで住所地近くに店舗を構え、大衆食堂を経営していました。周辺はケミカル産業のオフィス街でもあり、年収は2800万円位ありました。従業員も2人雇って、純益でも年間500〜600万円をあげることができていました。私共としては他人様に迷惑をかけることもなく、行政の世話になることもなく、自分達の足でしっかりと立って生活していたと自負しています。

  2. しかし、今回の震災によって、私達夫婦の自負はもちろんのこと、何もかも破壊され尽くされてしまいました。
     震災直後、私の住居も店舗も、近所から出た火によって全焼してしまいました。私は「焼けた」というより「焼かれた」と思っています。水源地の水は飲水用だ、といって消火用に使用させなかった行政、消防車は、シャッターをこわさなければ出庫できないが、シャッターを壊すわけにはいかない、として出動しませんでした。全く、一片の消火活動もなく、丸焼けにされてしまったのです。
    私達夫婦は命からがら避難所に入り、そこでの生活がはじまりましたが、避難所での生活の悲惨さと、非人間的な設備状況等により、口にするのもはばかる事態がいくつも起りましたが、この点についてはいずれ明らかにする時が来るでしょう。避難所の提供は、生活者にとって雨露の一時しのぎの場所ではあっても、人たる生活を営むための援助にはおよそなりえなかったのです。

  3. 私は被災時、住宅ローン800万円と店舗改装ローン400万円の借入金があり、全焼した家屋と店舗を再建するにはこうしたローンをどうするか、が大問題でした。
     結局、私共の仕事を仮に再開したとしても従前のような売上げは見込めず、当然返済資金もつくれないと考え預金等をかき集めるとともに、子供達からも金を用立ててもらって被災時のローンを一括返済して、再建に取り組むことにしたのです。
    私達の住所地は、震災後新長田駅前再開発地区に指定されたこともあり、従前のような建物を建てることもできない状況になっていました。
    又、家財道具も全焼で箸ひとつ、チリトリひとつなくなりましたので、プレハブの建築と家財道具の取りそろえのため、平成7年5月、金融公庫から1300万円の借入れをし、プレハブの住居と店舗、家財等を購入し、6月頃仕事を再開したのです。

  4. それから3年経ちましたが、私の店の周辺は、元あったケミカル産業のオフィスの再開はなされず、住民の皆さんも帰ってきていません。
    この3年、ようやく売上げが年1000万円程度に戻りましたが、震災前と比較すると3分の1になり、夫婦で生きていくのが精一杯の状況です。
    震災後の借入金の返済は現在のところ4年間据置にしてくれていますので何とか生活できますが、来年の5月からは元利合計の返済がはじまります。返済期間が借入れから10年となっていますので、試算すると月額約22万円の返済が必要となります。これでは営業しても返済金を捻出するのがギリギリで、生活を維持することができません。
     返済の据置は、問題の後送りでしかなかったのではないかと思うのです。やはり、据置期間に住民が戻り、元のような地域の活動が戻らないと、互いに生活再建ができないと痛感しているのです。
    政府は生活再建は自助努力でせよ、と私達被災者にハッパをかけています。私はまだ借入れしてでも自分の住居というものを再建しましたけど、生活の基盤である住居の再建を、一人一人の努力と力量にのみまかせていて、震災で破壊された街、社会、地域経済は復活するのでしょうか。こんな事態のためにこそ国があるのじゃないか、と皆で話しているような次第です。

【事例10】 長田区在住のTさん(男性・62歳)

 私は、平成8年6月、関西電力(株)を定年退職しました。震災後暫定復旧した自宅で、現在妻(61歳)と二人で、年金生活をしています。
震災当時は、私たち夫婦のほかに、母(81歳)、長男(32歳)の4人で暮らしていました。母ふく子は、倒れてきたタンスの下敷となり、腰の骨折、全身打撲のため姫路中央病院に50日ほど入院し、退院後は私たちの仮住居のあった生駒市でリハビリを受けていましたが、平成9年12月、地震の恐怖の醒めやらぬまま逝去いたしました。長男は震災後結婚して別居しましたが、誰もが精神的ショックを受け、家具の横では眠れない日々を送っています。
 私の家は、昭和27年頃に新築した古い建物でしたが、8年前に増築し、2年前には屋根瓦を補修していましたので、私たちは定年後の老後を安心して生活していけると思っていました。今回の震災で建物の基礎が沈下し中央部が浮きあがる状況となり、全壊と認定されました。
 専門家の意見では、建てかえるしかないということでしたが、見積書では最低でも2500万円はかかることがわかりましたので、とても経済的に負担することはできませんでした。そのため、暫定的に補修をするだけにとどめました。暫定的な補修といっても1100万円もかかり、子供たちの援助も得て集められるだけ集めたのですが、それでも足りなくて、銀行から660万円を借り入れました。補修したはずの建物は、床が傾斜しており、ドアもひとりでに閉まるなど、地震の後遺症をともなったままです。
 私の場合、建築資金の借入金は、私の退職金で返済いたしましたが、補修した家屋が傾いていていつどんなことになってしまうか不安がともなっていますし、退職金の大部分を銀行返済にあてたため老後の生活に不安を抱く毎日を送らざるを得なくなっています。
 私たち震災被災者には、平成7年2月に義援金14万円、8年9月に生活支援金10万円、9年3月に持家修繕助成30万円が支払われたほか、所得税減免措置がとられただけです。これでは、とても社会的に自立することは困難です。
 せめて、500万円の公的支援があれば、被災家族が、震災後片時も脳裡から消えない不安をのりこえて、社会的に自立を図るバネにすることができます。是非とも実現していただきたいと訴えるものです。

【事例11】 大阪府高槻市在住のKさん(女性・59歳)

  1. 私は現在59才で、大阪府高槻市に、元電鉄社員で現在無職の夫(63才)と、無職の夫の母親(88才)と居住しておりますが、私は専業主婦で、収入は夫と母親の年金のみです。子供はおりません。

  2. 震災当時は、神戸市長田区で借家住まいをしており、近所の借家に住む夫の母親と同居するため須磨区に中古住宅を購入し、これを改装中でした。1週間後には引っ越す予定でしたが、この改装中の家も借家も共に全壊してしまったのです。中古住宅の購入費に3750万円と内装工事代金に約700万円を要しましたが、震災により取り壊しとなり、現在では土地は更地になっております。震災直後は、この土地の北側の崖が崩れる可能性があったのですが、これは公費で補修されました。

  3. 震災の直後に、大阪府に逃げるように転居し、その後アパートから一戸建借家、また現在の一戸建借家へと3回転居しました。家財道具はほとんど持ち出すことができず、引っ越し費用や敷金、当座の家財の調達などに約260万円を必要としましたが、これらは全部貯えから出費したものです。現在の借家は、月額賃料が13万円と高額ですので、更地になっている須磨区の土地に住宅を新築するか、大阪方面で住宅を建築するか迷っているところです。須磨区の土地を売却するにしても、土地の価格が下がっているので建築資金の調達に苦労しているところです。
     といいますのも、夫はすでに定年退職しており、現在の収入は夫の年金と夫の母親の年金で合計年収にして420万円程度です。
     母親の年金額が結構高いので、かなりの年収がありますが、私が年金を受給するようになっても高額なものは望めませんので、今後収入が増加することは考えられません。現在の生活費は月額22万円程度ですが、慶弔費や交際費はこれには含まれておりませんので、特別の出費分が別に必要です。老後のことを考えると、現在ある貯えを全部建物新築費用に使ってしまうことに不安があるのです。それに1995年12月に、神戸市から住宅新築資金として350万円を借り入れたのですが、5年間の据え置き期間が間もなくやってきますので、この元利返済にも心配があります。
     年金で返済する以外には方法はなく、年3パーセントの利息も負担となっています。

  4. 公的な援助があれば、住宅の新築資金として使おうと思っていますが、被災地内に新築しないで、大阪府内で新築した場合でも適用になるかどうかも心配しているところです。ですから、公的支援は被災時の住所でその適用を考えて下さい。公的支援について、夫は1000万円は欲しいと考えているようですが、私は500万円でも、住宅新築費用の負担がかなり軽減され、今後の老後の不安が軽減されると思います。
     現在の低金利政策や医療費の高負担からしますと、今後の生活不安は多くの被災していない高齢者にも共通しているものがあります。震災によって精神的にはダメージを受け、特に夫は一時参っていたのですが、私はまだ恵まれている方だと思っているのです。県外居住被災者や仮設住宅に居住している人たちのことを考えると、生活の援助のための公的支援がどうしても必要であると考えています。

【事例12】 長田区在住のSさん(女性・52歳)

 私(52歳)は、百貨店の下請で自宅で和裁の仕事をしており、寿司屋に職人として勤める夫(57歳)と、2人の男子(13歳、11歳)の4人家族です。
 幸い震災による人身被害はありませんでしたが、自宅(仕事場でもある)が大きく損壊し、被災証明では全壊の判定を受けました。
 しかし、もとの建物が基準不適格であったことから、建て替えをすると大幅に建坪が減少し、4人家族が生活することが困難となるため、やむなく大修繕という方法で家を再建することにしました。
 その間、近隣の小学校に避難し、夫婦双方の親戚を頼って住まわせてもらっていたのですが、「いつまでいるつもりなのか」という言葉を聞くのが大変辛かったです。  家の修繕には、約1200万円かかり、それまでの蓄えは全て使い果たしてしまいました。本当は、いくらか預金を残しておきたかったのですが、「ローンが組めず、借りても返済ができない」と思ってやむなく貯金を全部はたきました。
 震災前の年収は、夫が約420万円、私が約200万円ありましたが、夫の勤める寿司屋は震災と不況の影響で客足が遠のき経営は苦しく、いつ失業するか不安です。  和裁の仕事は、震災前は百貨店に赴けば必ずありましたが、今は、行っても仕事があるとは限りません。仕事があるか電話で問い合わせるのですが、たいてい「注文が来たらこちらから電話をするから」と言われます。
 百貨店から電話がない日が続くと不安でたまらない。同じように和裁の下請をしている人たちの間では「担当者に袖の下を渡さないと仕事がもらえない。自動車を贈った人もいる」等という話がまことしやかに話されます。
 借金はせずにすんだが、まだ年少の子供達を抱えて、失業と減収の恐れに先行きが不安です。少しでも節約をするため、この冬もエアコンをつけませんでした。私が、子供達にもやかましく言うため、子供達が「ケチとしまつ(節約)とは違う」という私の口癖をまねて外でも申します。
借金はしませんでしたが、これはローンが組めないし返せるめどが付かないからで、今後の生活が不安です。
 空になった預金通帳を並べて、「あと何ヶ月生きられるやろうか」と思う毎日です。

【事例13】 長田区在住のKさん(男性・65歳)

 私(65歳)は、妻(64歳)と2人暮らしです。年金暮らしであり、震災前は、妻が自宅の1階を使ってたこ焼き屋をしていました。
 幸い震災による人身被害はありませんでしたが、自宅が損壊し、とりわけ基礎に亀裂が入っているので被災証明では全壊の判定を受けています。
 しかし、建て替える資金がなく、約90万円をかけて屋根をトタンに葺きかえて凌いでいます。基礎が壊れているので、風が吹いたり、階段を上り下りすると家が揺れます。妻とは「今度、大きな地震が来たら終わりやなあ。」と話しています。
 妻がやっていたたこ焼き屋は、近所に子供がいなくなって商売にならず休業したままです。そのためこれまで入っていた数千円の日銭が入らなくなりました。月収が10万円ほど減少しました。子供の声がたまに聞こえるととても懐かしい気持ちになります。
 これから年をとってゆくので、外に出ている子供と同居したいが経済的にその目処が立ちません。
 公的支援を求めて、自分も取り組んできましたが、周りの住民から「一生懸命やってくれるけど、実らんやないの。」と言われるのが大変辛いです。
 私の回りにもストレスで頭髪が抜け落ちる人が多く、「仮設住宅で死にたくない」という声をよく聞きます。
 被災者はこれまで経済大国を支えてきた人々であり何にも悪いことをしていない。これを国が何故放置しているのか憤りを覚えます。

【事例14】 長田区在住のMさん(男性・56歳)

  1. 家族構成
     本人(56歳・公衆浴場経営)、父(86・無職)、母(79・主婦)

  2. 僕は長田区神楽町5丁目で「波止場」という公衆浴場を経営してました。この公衆浴場は昭和36年から経営しています。土地は約90坪(295平方メートル)の借地(地代月6万7000円)で、そこに木造2階建ての建物を建て、1階を公衆浴場、2階を自宅にして両親と住んでいました。しかし地震で全壊してしまいました。他に長田区松野通りに16坪の土地を持っていて木造2階建ての住居があったんですが、ここも全壊しました。
     震災前には長田区で公衆浴場が50店舗あったんですが、震災後すぐ復旧したのは5店舗だけだったんです。それで神戸市があわてたわけです。公衆衛生上良くないということで。長田保健所から要請がありまして「お宅は若いからできるはず」と言うんです。
     国で補助金とかバックアップしてもらうとも言ってましたね。自衛隊の風呂は8月までだからそれまでに何とかなりませんかというわけです。こちらは廃業のつもりだったんですが、保健所の人があまり熱心に言いますし、僕も地域の人たちのためにできるだけのことはしたいと思ってましたので、それならやりましょうということで平成7年7月に再建したんです。そこに現在86才の父と79才の母と3人で暮らしています。
     もう1件の松野通りの方は現在も更地のままです。
    《補助金は出たんですか。》
     いや、出ませんでした。長田区で震災後5店だったのが神戸市などの働きかけで現在は24店になったんですけれども、どこも補助金はゼロです。
    《すると再建の資金はどうされたんですか。》
     全部で2億5千万くらいかかったんですが、5千万は環境衛生金融公庫から借り入れ、1億は銀行から借り入れ、1億は自己資金です。
     実は平成元年に建物の大改修をしましたので、そのときの借金が震災の時点で500万くらい残っていました。それを一括返済して借り入れしたんです。火事にはならなかったので火災保険は出ませんでしたし、地震保険はかけてなかったから震災で受け取った保険金などはありません。
    《返済条件はどうなっているんですか。》
     公庫の返済は10年で元本均等分割プラス利息です。2ヶ月で50万くらい払っています。この公庫の利子については3.5パーセントのうちの1.5パーセントを県と市が利子補給してくれてます。
     銀行の1億の返済もたしか10年くらいで設定しているはずです。母が会計をやっているので月々の返済額まではいま覚えていませんが、いまのところは返済計画は何とかクリアしています。しかしこれから返しつづけられるかどうかはわかりません。
     震災直後はうちの商圏の中に避難所がありましたから開店当初は良かったんです。そう震災前と同じくらいでした。ところが平成8年以降ガクーッと落ちています。避難所から人がいなくなってしまったからです。
     うちの地区は42.5ヘクタールに区画整理の網がかけられています。建築制限で2階建以上建てられないし、プレハブしか建てられない。そのうえ住民には恒久的な建物を建てる資金力がありません。これじゃ再建などできません。そもそも区画整理法は住宅再建はうたってないですからね。更地の人は移転補償もありませんし、売ろうにも規制がかかってるので思うように売れないんです。
     いま仮換地指定までいったのは地区全体の18パーセントくらいです。あとの82パーセントは規制だけかけられてどうにもならない。
     この区画整理地区内でみると、被災前に7600人いたのが平成7年の被災直後で3800人に減っています。この数字も国勢調査の数字なので実際はもっと少ないですし、被災直後からもどんどん減ってます。長田区全体の人口も毎年3000人くらいのペースで減っているんです。区画整理は5年間基盤整備にかかりますから、人口増は5年間は期待できません。減るばかりで絶対にふえないでしょう。
    《被災前の収入はどのくらいでしたか。》
     1日に15〜6万の収入でしたね。年間所得で1500〜1600万くらいだったと思います。
    《いまの生活はどうですか。》
     親子3人で生活費を月15万くらいに切りつめて生活しています。たぶん借金の返済で月に100万以上払っているはずです。
     公衆浴場はいまでも物価統制令が適用されてるんですよ。神戸はおとな320円です。
     僕のところは日に300から350人くらいお客さんが来ますが、これはまだいい方で100人切ってるところもあるんです。これはたいへんですよ。休みは毎週日曜です。
     われわれの業界では震災前から廃業の動きはじわじわとあったし、それはいまも続いてます。
     僕は人に頼るのは嫌いなんですわ。避難所にも行ってないし救援物資ももらってない。
     自力再建でやってきたんです。神楽町の自宅兼店舗と松野通りの建物は全壊しましたが、もう1件大谷町1丁目に物件がありこちらは助かったので震災直後はそこに住んでいたんです。しかし住民のためにはできるだけのことをやろうということでやってきました。
     僕は公的支援が出たってうれしくないし、申請するつもりはないですが、しかし困っている人にはできるだけ出してほしいんです。だから店に署名用紙を置いて運動しているんです。たとえば災害復興住宅募集用紙がでれば役所から持ってきて置く。倍率表がでたらすぐ取りに行って置いています。コミュニティセンターとして役に立ちたいと思ってやっいるんです。
     だいじなのはコミュニティですわ。地域外の仮設に仕方なく入りますでしょ。でも病気になれば地域のお医者さんにくるんです。僕の店は番台方式ではなくロビーにして地域の人が寄り合えるようにしたんです。平成元年に大改修したときにそうしたんです。だからいろんな情報が入ってきます。
    《家財などはどうされたんですか。》
     家財道具などは浴場の2階にあったんですが、生活用品は持ち出したもんで何とかやっています。建物の解体は公費解体でやりました。見舞金として24万くらい受け取ってるんじゃないですか。受け取ったのはそれくらいですわ。
    《コミュニティを再建するにはどうすべきでしょうか。》
     僕は都市計画に非常に不満を持っています。神戸市は一方的に都市計画をかけた。しかしこれは住民にとってはまちがいでした。特措法で2年間の規制でいって住民参加でやるきでした。都市計画の網をかけたから再建できない、住民がもどってこれないんです。
     新長田駅の南側は再開発で30くらい高層のビルを建てるということですが、それより中低層の建物を一気に建てて住民を戻した方がよかったんです。もうひとつ資金の問題がネックです。住民に資金がなくては自力再建はできません。だから公的支援はぜひやってほしいんです。

V 被災地の実情と求められる公的支援

1 被災者のおかれた状況

 あの震災から3年が経過したが、現在でも仮設住宅での生活を強いられている被災者が2万3132世帯、4万5000人(1997年12月1日現在)も残り、公営住宅の不足や、住宅を再建する資金がなく、また民間賃貸住宅を賃借するのに必要な資金や、その家賃を支払い続けるだけの収入がないなどのため、仮設住宅から脱出することができないでいる。
 また、13万人をこえる被災者が県外に出たまま(住民基本台帳人口1997年12月段階)で、兵庫県の1997年4月の調査でもその8割が戻りたいと希望しているが、かなえられない。
 また、神戸市長田区では、震災後約4万1000人の人口が減り、営業のなりたたない業者が多くなっている。
 このように被災者の生活はきわめて厳しい状況におかれている。朝日新聞1988年1月16日仮設居住者と復興公営住宅居住者1000人アンケート調査の結果によると、回答者のうち仮設居住者の平均年齢は62.9才、公営住宅居住者の平均年齢は56.7才と高齢世帯が多く、生計は年金のみというものが仮設居住者は56%、公営住宅居住者は48%となっている。生活程度が年々苦しくなっていいるという者が80%近くもあり、生活費、医療費などの最低生活費すら不足している。そして、仮設住宅での生活は限界に達していると訴える者が、44%に上っている。
 さらに、せっかく復興公営住宅に当選しても、その家賃を支払う収入すらないために辞退せざるを得ないという被災者も出ている。読売新聞98年1月11日報道によると、復興公営住宅でも、当座は減免措置があるものの、いずれは、家賃4万9000円と、これに共益費・水道・光熱費2〜3万円の負担が必要となるが、年金ぐらしだけではとうてい負担できないというのである。また、公営住宅で新生活をするための家財を準備できないという被災者もある。
 仮設住宅で孤独死した被災者の数は、とうとう200人をこえてしまった。被災後3年を経過したにもかかわらず、震災関連精神障害の患者が新たに発生しているという報告もされている(神戸市長田区・宮崎クリニック通信1998.2)。被災者は将来の展望を失い、生きる張り合いを失って、精神疾患に陥っているというのである。このような厳しい状況におかれている被災者に対し、行政は何をなすべきか、答えは容易に導かれるはずである。

2 住宅の不足

 1997年3月の民間住宅再建着工戸数は7万6000戸(兵庫県の推定)という。
 災害復興公営住宅は過去4回の募集で約3万4000戸が供給されてはいる。
 しかし、民間の新築分譲・賃貸マンションの2〜3割は空き部屋状態だという。また中間所得層を対象とした特別優良賃貸住宅、公団住宅などにも空き家が目立つ。このように空部屋が生じている原因は、立地条件の問題もあるが、被災者に、購入資金はもとより賃借資金も不足しているということが大きい。
1997年12月の被災者対象公営住宅4次募集では、申し込み者約3万世帯のうち6割以上が落選した。仮設住宅居住者優先といいながらも、仮設住宅からの申し込み者のうち約7000世帯が落選している。
 仮設住宅居住者以外からも、約1万3000世帯が申し込んだが、当選は1900世帯約14%のみで、その他の大半の応募者は、放置されている。
 兵庫県も、昨年12月には、仮設以外からの応募も増加していること、数千戸の公営住宅が足りないことを認めている。
 自宅を再建しようにも資金はなく、借り入れをするにも返済のめどがたたないため、借り入れができず、家賃の安い公営住宅は数が限られているというのが今被災者がおかれた状況である。
 読売新聞(大阪本社版)1月11日付アンケート調査結果発表によると、被災により自宅に住めなくなった被災者のうち、再建した者が60.2%、再建見通しがないという者が26.0%であるという。再建できたのは約60%にすぎず、頭打ちの状態だというのである。

3 自宅を再建したものの

 自宅を再建した者も、その再建資金融資の返済のために厳しい生活を強いられている。
 特に、被災にあった住宅を取得したときのローンが残っていたため、さらに融資を受けて再建した二重ローンをかかえる被災者も相当数存在する。
 住宅金融公庫大阪支店98年11月被災者の住宅再建等意識調査報告書によると、公庫融資を利用して自宅を再建した被災者のうち、住宅ローンの毎月の返済額が生活費の25%以上をしめる者が約3割にも上るという。建て替えをした者の世帯収入は、その約30%が600万円以下の年収である。建て替えをした者でローン返済が非常に負担であると回答した者も約33%となっている。
 しんぶん赤旗98年1月特集「4度目の冬」によると、ある被災者は、マンション再建で新たに1800万円のローンをくみ、従来のローンとの合計が4400万円となったため、月額14万円とさらにボーナス払いという返済をしなければならず、これに管理費も加わるため、返済を続けられるかどうかわからないという不安を訴える例が報告されている。
 ようやく自宅を再建したものの、毎月のローン返済は生活を圧迫し、ぎりぎりで生活していても、ローン返済を続けることができるかどうかわからないという不安をかかえて生活している被災者の姿が浮かび上がってくる。

4 事業者は

 借金を重ねてようやく営業を再開しても、住民がまちに戻ってこないため、売り上げは半減、あるいは20%におちたという例すら報告されている(しんぶん赤旗98年3月11日)。須磨区千歳町のクリーニング業者は以前1日30人いた客が数人に激減し、神戸市中央区のある食堂では売り上げが半減したというのである。
 神戸商工会議所98年3月発表の調査結果によると、会員1749社のうち、62.3%が震災に関連する借り入れをしており、規模が50人未満の事業体では、この割合は75.1%になるという。しかも予定通りの返済はかなり困難と回答した者が全体の16.9%もあり、50人未満の事業体ではその割合は18.5%にも上っている。また、売上高が震災以前に比べて80%未満しかないという会員が23.3%となっているといい、売り上げ・生産高が回復しない原因として、住民の流出をあげる者が25.5%となっている。商工会議所会員になっていない零細業者はさらに厳しい状況にあることが推測される。
 それを裏付けるように、兵庫県信用保証協会調査では、1998年1月の倒産、不渡等の事故件数は月単位では戦後最悪の457件、42億1900万円となったことが報告された。また年末、神戸三宮で廃業した業者は数百にのぼるともいわれている。
 神戸市長田区の代表的地場産業であるケミカルシューズ業界をみてみると、県内業者400社のうち80%が営業を再開したが、売り上げは震災前の50%にとどまっているという(1998.1.12朝日新聞社等主催シンポ日本ケミカルシューズ工業組合理事長談)。
 このように、事業者の経営も相当に厳しい状況におかれているが、その大きな原因には住民がまちに戻れないことがある。住民のいないところでは、あるいは住民の生活が安定していないところでは、商売がなりたたないのは当然のことであろう。被災者の生活を安定させること、住宅の再建、住居の確保の施策を講ずることがこの面からも何としても必要になっているのである。

W 真に生活再建を保障する公的支援立法を

 震災3年余を経て行なった現地調査や被災地のさまざまな指標は、いまなお住居や営業の再建の見通しが立たないままに置かれている被災者が膨大な数に上り、地域社会や地域経済の再生・復興が大きく立ち遅れているという否定し難い事実を物語っている。
 聞き取り調査を行なった被災者は、震災前には自営業者・会社員・公務員などの社会的に自立した生活を営んでいた人たちであり、震災に屈せずに生活を再建しようという意欲を持ち続けている人たちである。震災が生活・事業の基盤を破壊しなかったなら、この人たちは立派に自立した社会生活を送っていたに違いないし、もし破壊された生活・事業の基盤を回復することができたなら再び自立自助の生活に復帰していくに違いない。こうした被災者は無数に存在する・・・被災地についてとりまとめられた指標は例外なくこのことを示している。
 こうした被災者の生活・事業が再建の途について、はじめて地域社会・地域経済も復興するし、仮設住宅での「孤独死」を繰り返させない力が地域社会に再生するだろう。それを保障するものこそ、国家が失われた生活の土台の回復を保障する公的支援立法なのである。
 こうした公的支援立法は、少なくとも以下の条件を満たしたものでなければならない。

1 公的支援は、「これからの災害被災者」のみでなく、阪神・淡路大震災の被災者にも適用されるものでなければならない。

 被災者が依然として深刻な状況のもとにおかれていることは周知のところであり、その現実こそが公的支援の必要性を国民的世論にまで高めたものである。そもそも被災者をさておいて「これからの災害被災者」への救援を論じられるものではなく、もしそのようなことになれば、支援立法には「被災者の犠牲を実験台にした」との汚名がつきまとうことになるだろう。
 さすがに現在ではいかなる政党・議員からも「阪神大震災の除外」を主張する意見はないが、自民党案では「法律に明記せず行政措置で同水準を」とされている。阪神・淡路大震災の「発生」そのものは過去のものであっても、「被害」がなお現在のものであることは異論のないところのはずであり、そうである以上法律上の権利として法文に明記すべく最大限の努力が払われるべきである。

2 公的支援の対象は震災によって社会的自立を妨げられているすべての被災者に及ぶものでなければならならず、いわゆる「低所得者層」や「要援護世帯」に限定してはならない。

 すでに「孤独死」が200名を超えるなど、仮設住宅居住者の置かれている悲惨な状況は繰り返すまでもない。しかし、生活基盤を奪われたままの被災者が仮設住宅居住者やいわゆる「要援護世帯」だけではないことは、聞き取り調査の事例からも明らかである。

*灘区・Tさん・電気製品小売業(事例5)
 自宅兼店舗が全焼し、仮設の自宅兼店舗を再建した。借入は震災前の1500万から再建資金のため2700万に増えた。売上は1800万から1500万にさがっていて、建物の本格的な再建は資金の見通しが立たない。
*長田区・Nさん・食堂経営(事例9)
 住居、店舗が全焼。プレハブで再建し、そのために1300万円借入れた。売上は2800万から1000万円にまで落ち込み、夫婦で生きていくのがやっと。
* 長田区・Mさん・公衆浴場経営(事例14)
 自宅、公衆浴場ともに全壊。神戸市の要請で浴場を再建。そのために2億5千万余を借入れたが補助金はゼロ。震災前には収入が1500万あったが、現在では月100万以上を返済にまわして親子3人月15万で生活している。

 これらの被災者は、震災前にはそれぞれに相当程度の売上・収入を得ており、いわゆる「低所得者層」ではない。また、それぞれに無理な借入れをして事業を再開し、その結果売上の減少と借金返済の圧迫で生活は極度に逼迫している。もし、こうした被災者が公的支援から除外されるなら、「震災にあったら無理な借金などせずに浮浪者生活にでも入った方がましだ」ということにもなりかねない。地域社会・地域経済を再生・復興させるには、「すでに完全に基盤再建ができた」と言える一部の被災者を除くずべての被災者に公的保障が行なわれねばならないのである。

3 公的支援の水準は、生活基盤の再建、社会的自立を保障するに足るものでなければならない。

 3年余を経て生活基盤の再建が実現できない被災地の現実は、これまで実施されてきた支援策が社会的自立を促すにはあまりにも貧弱だったことを如実に物語っている。巷間に聞こえる「阪神・淡路大震災ではやれることはやったのだから、その水準に合わせて支援立法を作ればいい」などの主張は、この現実を見誤ったものというほかない。

*公的支援は、「二重ローンの負担を軽くできる」「新たな営業の出発点にするに足りる」など、それぞれの被災者の「立ち上がり」を現実に促せるものでなければならない。
*生活助成ではなく「立ち上がり」支援なのだから、支援は一時にまとめて交付されるものでなければならない。
*それぞれの被災者の生活破壊はさまざまであり、それによって回復されるべき生活基盤も多様なのであるから、支援金の使途に限定が加えられるべきではない。

 これらが基本的な要請である。
 自由法曹団は、訪米調査を行なった95年8月以来、「住居全壊世帯500万円、住居半壊世帯250万円」を基準とした公的支援を提言し続けてきた。これは、こうした現実の「立ち上がり」を想定したものであり、そうした規模の水準の資金の投入がなければ生活基盤の再建が困難であることは、今回の現地調査の事例でも裏づけられている。また、アメリカにおいて上限2万2千ドルの公的資金の投入が行なわれていることからも、金融機関への公的資金の投入が30兆円規模にのぼっていることからも、わが国において決して不可能なものではない。
 こうした現実の必要から見たとき、「収入500万以下(あるいは700万以下)の世帯に上限100万円」との検討案は、あまりに低きに失するものであり、被災者の切実な願いに応えられないばかりか、生活基盤再建−地域社会・地域経済の復興・再生という公的資金投入の目的を達成できないことになりかねない。
 公的支援は、真に被災者の生活基盤の再建を保障できる規模のものでなければならないのである。

 以上、あらためて実施した現地調査と諸資料の検討にもとづいて、求められる公的支援について緊急に意見をとりまとめた。
 震災より3年余。
 この3年余の被災者の苦衷を考えるとき、いまもって胸がつまる思いを禁じ得ない。
 それは、震災の問題にたずさわってきた多くの国民や運動にとっても同じ思いであろうし、それぞれの支援法案の立案・策定を進めてきた議員・政党においても共有できる心であると信じる。
 その共通の思いの結晶として公的支援立法が生みだされようとしているいま、その立法が被災者の願いに応え、後世の国民に誇りをもって伝えられるものにしたいとの気持もまた共有できるものであるはずである。
 すべての議員・政党が、その同じ見地に立って、真に生活基盤の再建を保障し得る公的支援立法を生みだすために尽力されることを願って、本意見書の結びとする。