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1998年5月6日
目 次
戦後最大のスケールの労働基準法の「改正」法案が4月22日衆議院本会議で趣旨説明され、いよいよ国会審議が始まりました。国民の人権擁護を目的として活動してきた1500人の弁護士の団体である私たち自由法曹団は、すでに本年2月20日「法案」について詳細な批判意見書を発表してきました。
私たちは、この意見書で各党・各議員に「法案」に反対されるよう要請しています。その理由として、私たちは「法案」は、1日8時間労働制と安定雇用を破壊し、その結果、5400万人の労働者の働き方を大きく悪化させ、その家族を含めれば国民の4分の3の人々の生活を根底から破壊するものであることを指摘しました。また、いま、この国に必要なのは、男女共通の労働時間の規制をはじめとし、人間らしく働くための“労働のルール”として、せめてヨーロッパ諸国なみの最低労働基準を確立することを求めました。
私たちの意見・要求は、日本弁護士連合会、東京弁護士会、名古屋弁護士会、京都弁護士会、滋賀弁護士会などの意見書・会長談話と一致しており、法曹界の圧倒的多数の意見・要求です。
それは、「連合」や全労連などの労働組合のナショナルセンター、全労協や多くの女性・市民の「ネットワーク」の意見・要求とも一致しています。さらには自民党を含む全党・全会派の一致で採択された大阪府議会の意見書(98年3月23日)をはじめとする全国 270余の地方自治体の決議とも一致するものです。
私たちは、すでに明らかになっているこの圧倒的多数の国民の意見・要求を、各党・各議員が尊重されることを、心から願うものであります。
国会の審議でも、各野党から、法案に対してさまざまな角度から批判がされています。しかし、この間、各党・各議員への要請を通じて、「法案」について少なからぬ議員にさまざまな見方があること、しかもこの見方の違いは、@「法案」の内容そのものがよく知られていない、A政府の事実に反する答弁の影響もあって法案の実際にひきおこす影響についての軽視、あるいは明らかな誤解さえあることに起因していることを、私たちは知りました。なによりも「法案」是非の判断をするうえでの大前提となるはずの職場の労働実態と「法案」が施行されたときに現実になにが起きるのかという点について、あまりに真実が知られていないというのが、私たちのつよい実感です。
今国会での重要な争点のひとつとして、未曾有の危機に直面していると言われている日本経済の危機に、どのような景気回復策を採るのかについて、すべての国民が注目していることについては、異論のないところであります。ところが、「法案」が施行されたときに生ずる雇用の不安定化と労働者の消費購買力の激減(「労働運動」2月号、篠原裕一氏の論文によれば、約30兆円規模に達すると試算されています)による日本経済への重大な影響については、あまり検討の対象にすらされていないと私たちは考えます。
さらに、この「改正」によって、労働のルールを大きく解体・劣化させることが極端な「小子化社会」にするとともに、生まれた子供たちの人生を歪め、とりかえしのつかない日本にしてしまう危険についても充分論議されていないように思われます。
以上のべたことが原因になって、一部の議員のなかには「よりましな修正」で成立させるしかないのではという趣旨の意見をのべる方がいました。私たちは、この法案は、多少の修正で成立させるべきものではなく、力を合わせて阻止すべきものだと確信します。そこで、以下「法案」審議にあたって、重要とおもわれる10項目の論点と、補論として「まねをしてはならないアメリカの悲惨な経験」についてを、法律家の視点から解明・整理し、各党・各議員にお届けするとともに、ひろく国民にむけて公表することにしました(注1)。
(注1) | マスコミにおいてはいくつかの新聞などで「改正」の危険性を指摘する「主張」「解説」「記事」があります。しかし、全体としては、充分な報道・評論はまだされていません。なかには「新裁量制によって働き方が自由になる」式の明らかに事実に反する報道さえあります。「小選挙区制による政治改革」キャンペーンと同じ過ちがくりかえされてはなりません。マスコミ関係のみなさんにも本意見書を参照していただき、事実を直視した「法案」についての解明・分析をして、「法案」批判と今日の国際基準を踏まえた労働のあり方について、公正な報道・評論をされることを求めてやみません。 |
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今回の労働基準法改正について、花見忠中央労働基準審議会会長は、「労働基準は国家的規制に依存するのではなく、労使による『能動的自主参加型』の方向で規制すべきである」(98年2月2日、週刊労働ニュース「労働基準法見直し中基審の審議を終えて」)と発言しました。伊吹労働大臣も「労働基準法の護送船団方式は誤り、市場原理に委ねるべきである」という趣旨の発言をしています。労働基準法は定着した、いつまでも労働基準法に頼るのではなく、もう労使にまかせればよいというのが両者の本意です。
しかし、労働基準法は本当に守られているのでしょうか。実態は、全く反対で、違法残業など労基法違反が横行しています。法律でしっかりとした労働基準を定め、それを遵守させるのでなければ、労働者の健康や生活はまもられない状況はますます広がっているのが現実です。
97年9月に労働省が発表した「平成8年において労働基準監督署で取り扱った申告事件の概要」は、新規の労働基準法違反の申告事件の件数は「最近6年連続して増加しており、平成8年には21,494件となってこの10年間で最も多くなった」と報告しています。申告事件については、「その約4分の3について監督を実施し、そのうち約7割に法令違反を認めている」という結果となっています。しかも、この約7割という違反率は、近年ほとんど変化がなく、改善もみられません。「概要」では、具体的事例が20例紹介されていますが、申告の内容としては、「違法意識の低い使用者による賃金の不払や時間外労働等に対する割増賃金の不払、最低賃金に関する違反、年少者に係る深夜労働、事業場の安全意識が希薄なことによる無資格者による危険作業の実施など、旧態依然とした事案が絶えない」と指摘しています。
この報告書を見ただけでも、労働基準法が定着していないことは明らかではないでしょうか。政府(労働省)自身が公式に発表している明白な事実を、「法案」審議で政府(労働省)はなぜ否定するのでしょうか。「労働基準法は定着している」などというのは国会と国民に政府(労働省)自身が嘘をつくものといわなければなりません。
労基法が「定着」していないこと、労基法で規制をきちんとしなければならないことは不払残業の問題をみれば一番はっきりします。経済不況のもとで日本人の働き過ぎは解消されつつあるという報道が一部にありますが、とんでもありません。大多数の職場では、すさまじい人べらしが行われ、残った労働者の長時間労働は、いっそうひどくなっています。しかも、この長時間労働の多くが、労基法違反の無協定残業や不払残業によって行われているのです。
労働時間短縮の動きはとまり、年間総労働時間は1919時間。これは、労働省の企業側のアンケートによる「毎月勤労統計調査」によるものですが、労働者側のアンケートによる総務庁統計局の「労働力調査」では2252時間です(ドイツやフランスに比べれば 700時間〜 600時間以上長い)。二つの統計間の 333時間もの大きな差は、サービス残業や現行法ではまだみとめられていないのに違法に導入している事実上の裁量労働化により残業代が支払われていないことを、企業側は労働省に報告していないからです。労働省はこうした不払残業時間をいっさい調べずに労働時間数を公表しています。政府の公式統計の名に値しない、その意味ではインチキ統計です(なお、時間外労働に関する三六協定の締結率は、わずか27.7%であり、そのほかは協定のないまま時間外労働がなされているのですが、この点についても労働省は実効ある指導をしていないのです)。
96年の「労働力調査」によると、男性501万人、男性労働者総数の実に15.6%(6人に1人)が、過労死発生危険ゾーンといわれる3000時間を越えた3120時間という「超長時間労働」に従事しています。
前記の「概要」でも、労働時間についての違反数は、男子21,157件、女子1,061件となっており、労働時間の法違反は、重大です。
「概要」で紹介されている具体例でも、1カ月20時間を超える残業について、サービス残業として時間外手当てを払っていなかった事例、18歳未満の年少者を深夜3時まで働かせた事例など、悪質な違法残業や深夜業が横行していることがわかります。過労死弁護団によると過労死は年間1万人をこえるといわれておりますが、その背景には、このような異常な長時間労働や、違法残業があるのです。
どこからどうみても、誰がみても、労基法は「定着」どころか企業によって違反され続けており、とくに労働時間制限については違反行為、脱法行為が横行しているといわなければなりません。
このような実態のもとで、長時間労働を改善していくには、1日の労働時間の上限規制がなく、労使協定・「労使自治」にまかせるのでは不十分です。労働基準法上に残業時間等について1日あたり、週あたり、年あたりの上限をきちんと定め、違反に対しては監督・指導を強める必要があることは、明らかです。いまこそ、労働時間の男女共通規制など、労働基準法を明確で実効性のあるものに改正し、監督行政を強化していかねばならないのです。
「世界に冠たる長時間労働の克服」(中基審会長、花見忠氏)を、「労使自治」「労使共同決定」に委ねてしまうことは、大きな過ちです。そんなことをすれば憲法と世界の労働のルールをひっくりかえし、不払長時間労働に「フリーパス」を与え、いまをはるかに上回る野放しの拡大となってしまうのは明白です。
「法案」は、新裁量労働制、時間外労働の上限及び変形労働時間制等について、法律による明確な規制によらず、「労使委員会」「労使協定」などによる規制に委ねています。これは、わかりやすく要約すれば「労働条件は労使の定めるところ」によるとしてしまい、法的な規制は骨抜き、空文化してしまうという“改憲的原理転換”です。
「法案」の立案作業に深く関わった中基審会長花見忠氏は、「時間外労働の上限規制」等について、「国家的規制に頼らず自主努力で世界に冠たる長時間労働を克服」すべきであり(98.2.24 日本経済新聞)、「新裁量労働制」における「労使委員会」での共同決定は、「労使自主参加型の発想で、今後の労働基準行政はこうした方向に動かしていくべきだ」と自画自賛しています(前掲「週刊労働ニュース」)。「長時間サービス残業になるなら、それをどうチェックするかは労使で話し合うべきだ」として、長時間不払残業に対する法規制強化のための法改正に消極的に終始している労働大臣の答弁(98.4.24 衆議院労働委員会)も、同様の「労使自治万能論」と言ってよいでしょう。
労働者が労働組合をつくり、労働条件の向上に努力しなければならないのは当然のことです。しかし、最低の労働基準・条件を、まず国の法律で明確にして保障し、それを労使で上回っていくように努力するというのが、憲法(27条)と労基法(1条)の大原則です。そして、そのことは世界の各国が一致してみとめていることでもあるのです。既に1919年に成立したILO第1号条約においても労働時間の上限を明確に規制し、各国も男女共通の労働時間規制・時間外労働の上限規制を明確にしてきていること、そして、今日、残業時間の上限について96ケ国が法的に規制しているのはその端的な証拠です。
「法案」は、憲法と労基法の原則をひっくりかえして、世界の流れと逆行して、法律による規制は不要、さらには労基法違反に対する罰則も原則廃止して、労使の自主努力・共同決定に委ねてしまおうとする「労基法無用論」に歩を進めようとしているのです。どうしてこれで「過労死」の原因となっている「世界に冠たる長時間労働」を適切に規制することができるというのでしょうか。
最低の労働基準・条件の改善・向上を、法律による規制強化でなく、「労使自治」「労使の自主努力」に一面的に委ねることによって、その実現をはかろうとする「法案」の基本的発想には、この国の職場の現実を無視した基本的誤り ───あるいは大きな嘘───があることを、指摘しないわけにはいきません。
わが国の労働組合の組織率は全体で22.6%、全国の企業数の99%を占め全労働者の75%が働いている 100人以下の企業での組織率は僅かに 1.5%にすぎません。パート労働者にいたっては約900万人(うち女性労働者630万人)のうち組合加入者はわずか20万人です。このような膨大な組合未加入の労働者が、どうやって「労使共同決定」によって、その労働基準・条件の改善・向上を実現できるというのでしょうか。従業員1000人以上、組織率58.4%の大企業でさえ、「青空天井」ともいうべき年間 360時間を超える長時間残業が横行し、不払残業さえあとをたちません。これが「過労死大国日本」の実情なのにです。対等平等でない力関係の実情を無視して「法案」が提唱している「労使共同決定」「労使委員会方式」は、なんの「歯止め」にもなりません。それどころか、実際には企業側の「単独決定」にゴーサインを与えてしまうことになるでしょう。
たとえば新裁量労働制での「労使委員会によるゴーサイン方式」では、月間 100時間、 200時間の残業があっても、「7時間労働とみなす」と労使で共同して決定した以上、決定に反対の労働者もこの共同決定に拘束されてしまいます。裁判所に訴えても救済されません。監督署も労使が法律にもとづいて共同決定したといわれれば、どんなに現実離れしたみなし時間でも摘発することはできません。結局のところ長時間労働を実態とかけはなれた短時間労働に合法的に「みなし」てしまう「ブラックボックス」となってしまうのは目に見えています。
「法案」は、たとえば、「労働時間の泥棒に手錠をかけることを放棄」してしまうようなものです。さらに言えば「時間泥棒」に長時間労働に労働者をしばりつける「手錠を与える」ものというべきです。いずれにしても「法案」で「合法化された時間泥棒」は、大手を振って職場に横行することになるのは必至です(新裁量労働制での問題点については「第4」参照」)。
「法案」の内容を分析すればするほど実効性がなく、男女共通の労働時間規制を実現したとは、到底いえないものです。これでは昨年6月に成立した「女子保護」規定撤廃法成立時の国会審議と付帯決議についての明白な違反立法です。
労働基準法の「女子保護」規定の撤廃が実施されるにあたって、「空白期間」をおかずに「男女共通の労働時間規制」を設けることは、昨年の国会における審議や附帯決議での公約であり、国民世論によってつよく要望されていたものです。ところが、「法案」は、時間外労働について、労働大臣が「基準」を定めることができるとするだけで、法律に明確な上限基準を規定していません。しかも、この「基準」には民事的にも法的拘束力を認めないというのが「法案」の内容です。
第1に、「法案」には、労働大臣の定めた基準に違反した時間外労働に対して罰則がありません。罰則適用の可能性をもって行政指導することができないのですから、行政指導は実際には無力といわざるを得ません。
第2に、労使双方が労使協定を締結するにあたり、時間外労働の限度が「労働大臣が定める基準に適合したものとなるようにしなければならない」という「法案」の規定は、民事法上も法的拘束力がないのです。当初の法案原案に「留意しなければならない」とあったのを、法案のように社民党が努力して事前に「修正」したので、「不充分ではあっても法的規制が実現した」という趣旨の意見があるようですが、とうていそうはいえないのです。
現行労基法にただひとつ同趣旨の文言が使用されている有給休暇取得に対する不利益扱いの禁止規定(第134条)について最高裁は「本条は、それ自体としては、使用者の努力義務を定めたものであって、労働者の年次有給休暇の取得を理由とする不利益取扱いの私法上の効果を否定するまでの効力を有するものとは解されない」と判断しています(93年6月25日、沼津交通事件)。「法案」のような罰則がなく「…となるようにしなければならない」という規定は、最高裁によれば単なる努力義務規定にすぎないというのです。したがって、「法案」では、労働大臣が定めた基準を超えた労使協定も民事的には有効になってしまいます。そうである以上、基準を超えた残業命令でも拒否をすれば、業務命令違反として処分の対象になり、労働者は有効に身を守る法的手段をもたないわけです。
しかも、中央労働基準審議会の花見忠会長自身がはっきりと「上限基準を超えた三六協定の私法的効力を否定することはできない。労使が決めたものを無効にしたり、いわんや労組や労働者を処罰することはできない」と述べているのです(前掲「週刊労働ニュース」)。
このような罰則もなく、民事的効力もない「法案」では、現行の目安時間と大差がありません。ですから「長時間労働を効果的に抑制」することなどできません。どこからどうみても男女共通の労働時間の規制は実現していないのです。結局、「女子保護」規定の廃止の施行にともない、女性労働者も現在の男性労働者と同様に上限のない時間外労働や休日労働の従事させられることになるのは必至なのです。
この条文のままで、「法案」の成立を認めることは二重三重に重大な被害を及ぼします。
第1に、企業は2000万を越える女性労働者を深夜労働、長時間労働で働かすことになります。すでに、いまでも「女子保護」規定の適用外の女性や、脱法的に長時間残業をさせられている女性の多くは、生理がとまってしまうなど母性さえ破壊されています。こうした状況がすべての女性労働者に「合法」的に拡がることになり、家庭責任を負っている女性たちが働き続けることは困難になります。
第2に、男性についても男女共通の労働時間の規制が必要不可欠なのに、これをしないのは大きな過ちです。このままでは年間1800実労働時間の国際公約の実現も不可能です。労働省は、前国会の審議において、この目標は週40時間制で有給休暇を完全に取得しても、時間外労働を年間 147時間以内としなければ達成できないと答えています。「過労死」に象徴されるような長時間労働を改善し、男女ともに健康と生活を守り、人間らしい生活を確保するためには、この政府答弁に沿うような男女共通の時間外労働の上限を法律上明記しなければ男女共通の労働時間規制を実現したとはいえません。
第3に、深夜労働や残業の上限について何らの制限がないだけでなく、今回の「改正」では、変形労働、裁量労働を拡大しており、そのことが男女共通の規制がない弱点をさらに拡大することを重視しなければなりません。すでに深夜勤がみとめられ、変形労働時間制によって連続17時間を超える労働が導入されている国立病院の看護婦からは、長時間・過密、不規則労働のために疲労が蓄積し、自らの健康や眠くて仕事をミスすることへの不安の声があがっています。それなのに深夜労働について、1日あたり、週あたり、年あたりの労働時間をなにひとつ規制しないままで変形労働と裁量労働を拡大すれば、1日8時間労働制は解体され、長時間過密労働は飛躍的に激化し、男女労働者の労働と生活は根底から破壊されることになるのは目に見えています。
「法案」の規定する要件は、裁量労働をホワイトカラー全般に無限定に拡大するものです。労使委員会の決定は歯止めになりません。結局は労働者の自律的な働き方を実現するどころか、ますます長時間労働による「過労死」の激増に拍車をかけるものとなります。1日8時間労働を決定的に崩壊させるもので、今回の一連の改悪のなかでも最悪なものだといわなければなりません。
「法案」は、特定の業務に限って認めている現行法の裁量労働制とは別に、新たに「事業の運営に関する事項についての企画・立案・調査及び分析の業務」という抽象的・包括的業務を裁量労働制の対象にすることによって、ホワイトカラー全般に拡大するものとなっています。
「事業の運営に関する事項」というのは、ホワイトカラーのすべての労働にふくまれています。「企画・立案・調査及び分析の業務」についても、現実にはこうした業務のほとんどは、プロジェクトチームなどの集団で行われ、ホワイトカラーの大半はメンバーの一員として従事していたり、部下として上司の指示に従って労働したり、納期やノルマ達成などを課せられて労働しています。
このような労働者には、その業務を遂行する「手段と時間配分」についての裁量権(自己決定権)はありません。こうした働き方では、労働者が自律的に主体的に時間を使うことなど実現できません。
現行法の裁量労働制については、対象労働者の裁量権(自己決定権)があるということが強調され、新商品の研究開発、プロデューサー、編集・取材の記者、弁護士など、11業種に限定されていました。しかし、「法案」は、いままでとちがって、新たに、特定の業務だけに限定されない新裁量制を新設しています。そして個々の労働に自己決定性があるかどうかの実態を踏まえず、使用者が「企画・立案・調査及び分析の業務」について、「具体的な指示をしないこととする業務」とひとたび指定し、「労使委員会」がこれに合意を与えてしまえば、対象業務はいくらでも拡大出来るものとしています。
現行法のもとでも、既に日立製作所では、大卒2年・高卒10年でほとんどの労働者が「企画職」となり、30歳代前半には「裁量性の高い業務に着目した支払方式」として30時間分の業務手当のみが支給され、事実上残業代は打切りになっています。現行法の裁量労働制の要件にあたらない業務なのに脱法的先取りがされているのです。三菱電機でも同じ仕組みが導入されています。新聞などでも、事実上の残業代打ち切りの裁量労働化(プラス変形労働)が進み、96年の在職死亡者は93人で、1000人あたりの死亡率は1.54人に達しています(新聞労連機関紙「在職死亡特集号」、97年11月15日)。こうした実態が我が国の代表的な企業の中で広範にひろがっていることをみれば、「法案」の要件が無限定な拡大を防くことのできないのはもちろん、労働大臣の公表する指針なるものによって、その濫用を有効に規制することなど、とうてい期待できないのは明らかではないでしょうか。
結局は、マスコミも指摘しているように新裁量労働制はほぼ全ホワイトカラーに適用可能ということになるのです。
労使委員会の決議に委ねたことによって、対象業務や対象労働者についての適用拡大は制限され、使用者は自由に拡大することができなくなるというのも、全く実態を無視した議論です。
すでに「第2」でのべたように、現在の労働組合の組織率は22.6%にすぎません。しかも、事業所数でも労働者数でも圧倒的多数を占める従業員 100人以下の企業での組織率はわずかに 1.5%にすぎないのです。「法案」が大量につくりだそうとしている短期雇用契約者や派遣労働者の組織率はさらに著しく低いのです。このように未組織状態におかれている圧倒的多数の労働者が労使委員会で企業の要求に抗し、その権利を守れるというのは事実を無視したまったくの暴論です。
裁量労働制の濫用・拡大をなくすには、「労使自治」に委ねるのではなく、法律による客観的な最低基準の確立による明確な法規制が不可欠です。ホワイトカラーの「過労死」を頻発させ、膨大な過労死予備軍をうみだす温床となっている裁量労働制を新裁量制によって全ホワイトカラーの規模に拡大し、具体的な運用を「労使自治」に委ねてしまうことは、より深刻な事態を招きます。
「労使委員会の決議」が不合理なものであっても労働者は実際にはその権利を守る手段がありません。
たとえば、「法案」は、みなし労働時間数の決定についても無条件に労使委員会の決議に委ねています。客観的な明確な基準を法律で決めていないので、労働者はそれがいかに不合理な時間数であってもいったん労使委員会で「決議」がなされれば、これを是正する手段や方法もありません。「労使自治」の決定に口をはさむ余地はないので、労基署の監督行政による是正を求めることも不可能です(注2)。民事裁判で争う余地さえなくなってしまうのです。
みなし労働時間以上いくら働いても、裁量労働のもとでは、使用者は労働時間管理の義務を免れ、実労働時間は把握されず隠れてしまいます。この結果、たとえば多くの企業で「1日7時間労働とみなす」としてしまえば、我が国の労働時間はあっというまに政府統計上は年間1800時間以下になってしまうでしょう。でも、実際には職場の労働時間はいっそう過密で長時間になります。過労死はさらに増えるでしょうが、被害者側の長時間労働を立証することさえ困難になってしまいます。労働時間という「もの指し」がなくなっており、タイムカードもなく、あるのは「1日7時間」という架空の時間数なのですから。
「法案」の新裁量労働制は、8時間労働を決定的に崩壊させ、長時間・過密、不払残業を拡げるものです。けって労働者の自律的な働き方や働き過ぎの防止につながるものではないのです。
(注2) | 伊吹労働大臣は、新裁量労働制の適用について「労基署の厳正なチェックを受ける」「厳正に指導する」から弊害はないと答弁しています(4月24日、衆議院労働委員会)。しかしこれは三重に事実をいつわるものです。第一に、新裁量労働制の適用対象要件はすでにのべたように広く、労基署が「その範囲を超えている」と認定することは困難です。第二に、労使委員会が決定した「みなし労働時間」について労基署が違法だと認定することは法的にもできません。第三に、現在すでに先取り・脱法的に行われている疑似裁量労働について、労基署は放置してきている事実をみれば、さらに合法的に拡大されたら「厳正に指導」するというのはとうてい言えることではないのです。 |
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いままで以上に、企業の都合で忙しい時に残業代なしで長時間働かせることが可能になりますが、労働時間の短縮にはなりません。労働者とその家族の生活のリズムがもっと狂わされ、しかも残業代なしで大幅賃下げになります。
変形労働時間制はもともと「仕事に8時間を、休息に8時間を、おれたちがやりたいことに8時間を」という8時間労働制を崩し、労働者とその家族の生活のリズムを狂わせるものです。本来、社会的に止むを得ない労働以外はみとめるべきものではありません。しかし、日本では無原則にみとめられ、しかもなんの規制もない深夜交替制労働などと併用することもみとめられています。その上、すでにのべたように、時間外・休日労働の上限規制もありません。これらの結果、変形労働は1日あたりの労働時間が無限定に延長され非人間的な長時間労働となっています。現に変形労働時間制のもとで働いている郵政職員には、夜勤と深夜勤または深夜勤と早日勤の2つの勤務を組み合わせて実拘束16時間を一晩の勤務とする「新夜勤」が導入されていますが、5年あまりで50人もの在職死亡が確認されているのはその典型のひとつです。私鉄労働者には、変形労働時間制の導入で1日8時間をこえる労働時間が所定内に組み込まれることによって、西鉄バスでは企業が1年間で34億円もの節約をし、同じく広島電鉄では労働者は最大15万円もの減収となっています。
法案は、1年単位変形について現行法の1日の上限9時間を10時間に、1週の上限48時間を52時間に拡大することを予定しています。これにより、1年単位変形は企業にとって、いままで以上に使いやすいものになります。
変形労働時間制は、企業にとっては、業務の繁閑にあわせて1日・1週の労働時間を調節し、時間外手当として支払っていた賃金を所定労働時間に組込むことによって膨大な利潤を獲得する便利で「おいしい」手段です。しかし、労働者には、使用者の都合のみによって1日8時間労働の原則が解体され、特定の日の長時間労働(深夜労働を含む)が科されることによって、深刻な健康上の被害を生じ、かつ、時間外手当が削減されるという二重の不利益をもたらします。さらには、育児・介護・家事などの家庭責任を負う労働者は、就労の継続そのものが困難になります。
人間らしい働き方と生活・健康を保障するには、1年単位の変形労働時間制は廃止し、1か月単位の変形労働についても、1日あたりの労働時間の上限を8時間、1週の労働時間の上限を48時間に規制すべきです。
「法案」は、変形労働の枠組みを拡大・弾力化しながら変形労働制下の残業をみとめ、この場合の残業上限の法的規制を放棄しています。たとえば変形労働時間10時間の日であっても、さらに残業をさせることが可能となっています。しかも、すでにのべたように、残業を含む1日の最長労働時間、週の最長労働時間については法的な上限規制がありません。ですから、すでにのべたように1サイクルで実拘束16時間とか、国立病院の看護婦のように17時間という労働が可能になっているのです。このことは変形労働が実労働時間の短縮を実現する規制にならないことを証明しています。もし、変形労働制の採用で労働時間を短縮するというのなら、少なくとも、変形労働時間制でのその枠内での週平均労働時間を週40時間ではなく、せめて週38時間以下にすべきでしょうが、法案はあいかわらず週40時間平均でよいとしています。これでは労働時間の短縮にはならず、ただ不規則な変形労働が拡大されるだけになるではありませんか。
それだけではありません。いまでも大きな被害を生んでいる変形労働時間制がより拡大し、深夜勤務を含む交替制労働に、変形労働プラス「青天井残業方式」が結びついたときには、労働者の労働と生活はいまを上回るとりかえしのつかない打撃を受けることになるでしょう。
「法案」、そして「法案」に先立って発表されている法案要綱をみれば、1年単位変形制の要件緩和に伴い、@所定労働日数の上限を定める、A連続労働日数を通常は六日とする、B時間外労働についての労使協定で定める時間について低い水準を設定するなどの制限を設けるとしています。しかし、肝心のBは年間実労働時間の上限規制、休日労働の規制、時間外労働や1日の実労働時間の合理的な法的上限規制がなければ、労働者の実労働時間の短縮や休日の増加にはつながりません。「法案」のいう「低い水準の設定」は行政指導上の目安基準にすぎず、違反に対して罰則がありません。既に「第3」で詳しくのべたように民事的な効力もないのです。変形労働時間制がもたらす被害の防止にはつながりませんし、もとより労働時間の短縮にはならないのです。
さらに1年単位変形の変形期間の区分期間を3か月から1か月に短縮させることは、労働者にとっては、労働日と休日、労働時間の予定などの生活設計が著しく害され、健康でゆとりある生活を享受する権利を大きく阻害するものです。たとえば5月の連休のために、2月、3月に家族とどういう余暇・レジャー計画をたてるかさえ不可能になってしまうのです。
しかも、「法案」は、1年単位変形の対象労働者の制限をなくしました。1年未満の有期雇用労働者に長時間労働部分で目一杯働かせることを繰り返すことを可能にし、1年単位の労働時間の制限を事実上の潜脱を許し、不安定雇用労働者にいっそう過酷な労働条件で雇用されることに拍車をかけることになります。
「戦後半世紀経って、日本経済をとりまく環境も労働者の働き方も大きく変わった。労働者のなかに転職志向がたかまり、派遣や有期雇用など多様な働き方と自由な時間を求める新しいライフスタイルがひろがっている」と一部でいわれています。伊吹労働大臣も国会で同趣旨の答弁をし、あたかも今回の「改正」が労働者のニーズ(要求)に応えるものであるかのようにいっています。しかし派遣やパートなどが拡がっているのは、労働者が心からこれを求めたからではありません。正社員の道を閉ざされて働きたくてもまともに働けないことが最大の理由です。また正規労働者の多くに過労死まで生ずる長時間過密労働など非人間的な働かせ方がつよまっていることへの嫌悪、反発からのことです。だが、やむを得ず選択した──実際には選択を強いられている──「新しいライフスタイル」の派遣やパートでは、低賃金と不安定な雇用のため、労働者はまともな生活設計がたたないのが実際です。
ほんらいなじみの職場で働き続け仕事のうえでの技術や技能をたかめることは、労働者の誰もの要求です。また職場の同僚との人間関係は家庭と地域のそれとともに価値あるものです。だから人はなじみの職場に定着して働き続けることを一般に望むのです。
このほんらいの望みを捨てて、派遣や短期雇用など「多様な働き方」に従う労働者が増えてきている最大の理由は、正社員の道を閉ざされ働こうにもまともに働くことができないためです。企業の倒産とリストラ「合理化」によって失業者は著しく増え、3月の完全失業率は3.9%となり、調査を始めた53年以来最悪を更新しています(総務庁の労働力調査)。解雇された多数の労働者、とくに中高年労働者にとって再就職の道は厳しく、何時でも容易に解雇される短期雇用などしか求人はないのが実情です。
また女性の正社員採用は、もともと男性に比べて少なかったうえに、ここへ来て、大企業らは意図的にその枠をいっそう狭めてきています。「超氷河期」といわれている大卒女子新採用の厳しい事態は、長びく深刻な不況に起因するのみではなく、大企業による政策的な新採用中止によってもたらされた面が大きいのです。大手商社が軒並みに女性一般職(事務職)採用ゼロを打ち出し、派遣労働者の採用に切りかえていること、各商社がいっせいに人材派遣会社をつくり、退職社員を登録制で募集し、低賃金の派遣社員として元職場へ戻していることなど、その端的な現れです。
こうした事態は銀行などにもひろがっています。ある銀行に勤務していた女性労働者が退職勧奨の肩たたきをうけ退職し、まもなく退職をすすめた上司の強い働きかけで、派遣社員として元職場へ戻ったところ、給与は正社員時の年収50万円から5分の1にダウンした例が報告されています(この銀行では最近の2年間女性正規社員を採用していません)。
さらに正社員採用の年令制限もあります。たとえば公務員の採用はおよそ30才くらいまでですし、民間でもおおくの場合同じような年令制限があります。こうした制限をとり払い、あるいはゆるめることなしには、転職をした労働者や子育てが一段落した女性が職を求めても、正社員としてまともに働く道はないのです。
ひきつづき働きたいという労働者の大半がもっている要求を拒否し、働く道を閉ざして、不安定雇用労働者として働く以外になくしておく。そうしておいて不安定雇用を労働者が求めているからそれに応える「改正」だというのは逆立ちした主張だといわなければなりません。
いま一部の若者に、正社員として働くことを避けて「軽やかに、自分の働きたいときに自由に働きたい。自分の時間を大切にしたい」という声が聞かれます。
これはしかし、若者のほんらいの要求ではありません。自分の時間を奪われてしまう長時間過密労働を嫌悪し、また企業に全人格的忠誠を求められることの多い正社員の息苦しく非人間的な働き方に耐えられないと考え、そこから生まれている「要求」です。
わが国の労働者の年間総労働時間は依然として1900時間台で、1500時間台のドイツをはじめ西欧の労働者に比べて著しく長くなっています。そして 300時間前後のサービス残業がこれに加わるのですからたまったものではありません。定時後も残業を断ることが難しく、年次有給休暇を取ることもままならない、深夜勤務や単身赴任もある、そのうえに人事考課を通じて企業に人格的忠誠を求められる。こういう現実を見て、「こんな働き方を避けよう」と「いっそフリーの方が……」という気持ちになる若者がでるのは無理もありません。でも、こうした若者の「要求」は実際の問題として満たされるのでしょうか? 以下3でのべるように、結局は、つぎつぎにシフトダウンされ、使い捨てられていく道なのです。そうなることを知って、なお若者が心から不安定雇用を求めているというのは事実に反します。
重要なことは、とにもかくにも派遣や短期雇用など「多様な働き方」は労働者に充実した生活と幸福をもたらしているかということです。冷たく厳しい現実はこれを否定しています。派遣や短期雇用は雇用が不安定なうえに、ごく一部の専門職を除いてはなかなか結婚もできない低賃金です。大まかにいって、同じ仕事をしている正社員の賃金の2分の1、3分の1以下なのです。かりに結婚しても子供が生まれるとその養育と教育に困難をかかえることになります。雇用が不安定なためローンも組むことができないので生活設計が立ちません。しかも職を変えるたびに賃金など労働条件が低下していく傾向を逃れられないのが現実です。
派遣や短期雇用の増大を労働者のニーズによる積極的なものと声高に言うのは、こうした現実をことさらに覆い隠す作為的なものです。
今求められるのは派遣や短期雇用など不安定雇用を拡大することではありません。そうではなく、正社員の長時間過密労働をなくして、非人間的で息苦しい働き方を変え人間らしくより自由な働き方をとり戻すことです。労働時間を短縮することによって働く機会をもっと増やす、それも正社員として安心して働けるようにすることです。それこそが若者たちのほんらいの要求を実現することであり、二十一世紀を前にして日本の未来をきり開くために避けて通れない課題なのです。
労働省は、@短期雇用契約は「高度の専門的知識等を有する者」に限定されている。A新しい派遣制度も「臨時的・一時的な労働力の需給調整」のためのものである。だから両者ともに問題はないと強調しています。しかし、これは事実に反します。第一に、「法案」による3年までの短期雇用契約がみとめられる要件は広く、広範な労働者が対象になります。結局はいわゆる高度専門職のみならず幅ひろい労働者を対象に、「雇い止め」の名でほしいままに解雇できるようにすることが可能です。第二に、港湾運輸と建設を除くすべての業務を対象とし、しかも現行法が要件としている専門性はなくても、労働力の「調整」のためであれば派遣をみとめるというのではまったく野放図に派遣労働がみとめられることになります。
両者あいまって、正社員の置きかえが進み、大企業は13兆円をこえる利益を手にし(労働運動2月号、篠原裕一氏論文)、一方、労働者は低賃金で無権利の不安定雇用をしいられることになります。
現行法では労働契約は、期間の定めのないものを除いて契約期間を1年までに制限されています。そして期間の定めのない契約については、合理的理由と社会的相当性がない限り解雇できないとされています(最高裁判決75年4月25日、日本食塩製造事件)。
また、1年以内の期間の定めのある労働契約であっても、期間の満了ごとに更新され期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態にある場合には、期間満了を理由とする雇い止めは解雇にあたり、この場合やはり合理的理由と社会的相当性が必要とされます(最高裁判決74年7月22日東芝柳町工場事件)。
「法案」は、こうした規制を受けず、企業にとって雇い止めが自由で使いやすい労働にするために3年までの短期有期雇用契約の新設がもりこまれています。
この短期雇用契約の対象については、労働者に不利であるという強い反対論を考慮して、「法案」はあれこれの要件が定めています。しかし、「法案」の規定は、対象業務を限定するうえで無意味で、非常にあいまいなものが多く、企業の思うままに伸縮自在です。有効な「歯止め」にはなりません。
たとえば、「法案」では「新役務……の開発又は科学に関する研究」として「新商品、新技術」のほかに「新役務」までもが加えられています。『広辞宛』によれば「役務」とは「労働などによるつとめ」のことで、対象業務を限定するうえではまったく役に立ちません。そのうえこの「新商品、新技術若しくは新役務」の「開発」と並んで「科学」も加えられています。これらについての「専門的な知識、技術」以外に「経験」も対象とされています。「役務」「科学」「経験」といった規定も、およそ対象を限定するうえではほとんど無意味なものです。
また、「法案」は、「事業の開始、転換、拡大、縮小又は廃止のための業務」が対象としています。こうした規定は「企業のあらゆる状況において」ということと同じことですから、なんの限定にもなりません。かえって法案が多くの労働者を短期雇用労働者にすることをねらっていることを証明しているとみるべきでしょう。
そのうえ重要なことは、「法案」では企業側がこの規定に違反しても、ドイツやフランスのように期間の定めのない労働契約へ転化させる規定もなく、罰則もありません。要するに「やり得」の仕組みになっているのです。
すでに今日、現行の法規制と裁判所の判断をかいくぐって、繁忙期には契約更新をくり返し、不況になれば更新拒絶(雇い止め)することによって、有期雇用を「調整弁」とするやり方が大企業の職場を中心にひろくゆきわたっています。そこではこれらの労働者の不安定な地位に乗じて、差別的低賃金が押しつけられています。いまでも脱法行為をくりかえしている大企業が、「改正」で使い勝手のよい三年までの短期雇用契約を手にいれたら、「高度の専門的知識を有する者」に限定されずにひろい範囲で、期間の定めない正規労働者が低賃金の短期雇用労働者に置きかえられることは明らかです。この場合少なく見積っても2兆円をこえる人件費の削減(前掲、篠塚裕一氏論文)がみこまれるのですから。
政府・労働省は労働者派遣事業法「改正案」を国会に提出しようとしています。(注3)(注4)「改正案」の基本的考え方として「臨時的・一時的な労働力の需給調整に関する対策として労働者派遣事業制度を位置づけ」、適用対象を港湾運輸、建設等を除いて原則自由化、この新たに適用対象となる業務について期間の上限を一年とし、更新を認めない、とするものです。
従来、派遣は「専門的な知識、技術又は経験を必要とする業務」(労働者派遣事業法4条1項)などについて「専門的労働市場」を形づくるものとしてのみ、認められてきました。対象業務はこの見地から26業務に限定されていました。
ところが実際には自動車や電機さらには銀行など広範な職場で、禁止されている業務に「請負」「業務委託」を装う違法派遣が歯止めなく広がっています。そこでは正社員と同じ仕事をしている派遣労働者が、2分の1、3分の1といった異常な低賃金と無権利の状態に追いやられています。たとえば、人べらし「合理化」で社員を減らしたトヨタ関連のダイハツ自動車では、派遣労働者1000名が働いています。派遣法で禁止されている生産ラインで、正社員の派遣への置き換えが「請負」会社の仕事を偽装しておこなわれているのです。ここの派遣労働者は、日給1万円前後、基本給だけをみると月収20万円前後、税金や食事代、寮費などを差し引くと14万円前後の低賃金で、寮の部屋はダニが住みつく状況だといいいます。
派遣法制定時の立法趣旨からいっても、政府はこうした違法派遣の横行を許さず、根絶する責任があります。ところが違法状態は放置しておいて、「改正案」は、逆に港湾運輸と建設を除いてすべての業務に派遣を認めようというのです。「専門性などという要件はもういらない」「正社員との置きかえの禁止という規制も不要だ」。つまり、企業が労働者を必要とするときに一時的に働かせ、いらないとなったらいつでもやめさせ、ジャスト・イン・タイム方式(人間カンバン方式)で使い捨てることを合法化しようというわけです。
パートの拡大と派遣の原則自由化などで11兆円(前掲、論文)をこえる人件費の削減を見込んだ大企業の欲望に奉仕し、大企業らの横車にお墨付を与える立法だといわなければなりません。
「改正案」は「臨時的・一時的な労働力の需給調整」という制度目的から、派遣期間の上限を一年とし、更新は認めないとしています。そして期間をこえて就業させた場合に、派遣先に雇用の努力義務を課すとしています。これが「歯止め」だというわけです。
しかし、すでに労働時間の上限規制について、「第3」でのべたように罰則のない「努力義務」規定では「糠にクギ」で、利き目はありません。「期間をこえて就業させた場合には派遣先に雇用されたものとみなす」といった規定もない期間制限は、実効性がないのです(ちなみにドイツではこの「みなし規定」をおいて厳しく規制しています)。
違反が明白な対象外業務についての違法派遣を大企業は平気でやってきました。一方、労働省は、この大規模な違反、国会決議のじゅうりんに対して有効な取締りをしないで放置してきました。こうしたこれまでの経過からも、1年の期間制限をかいくぐって、常用労働に置きかえた派遣労働がほしいままに広げられることは目に見えています。そして、労働省がそのことをきちんと規制はしないこともです。
1年の期間制限で更新はみとめないという規定も、いったん派遣契約を終了させて、その後もう一度派遣会社から新たな派遣を受けたという形をとればすり抜けられるでしょう。どこからみても、いわゆる「歯止め」はとても歯止めにならないのです。
(注3) | 労働者派遣法の「改正」法案は5月5日現在まだ国会に上程されていません。中央職業安定審議会の答申も、労働者委員のつよい反対もあってまだ行われていません。しかし、中職審は、中基審がそうであったように労働者側委員の反対にもかかわらず、すでにのべた内容(中職審の公益委員見解)で強引に答申し、政府はこれを受けて法案をなにがなんでも上程しようとしています。労働法制「改正」の全体像にかかわりますので、私たちはこの問題についても解明しておくことにしました。 |
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(注4) | ちなみに、派遣法の「改正」は、労基法の「改正」、とりわけ「短期雇用契約」の新設と直接に関係します。それなのに、派遣法「改正」法案の同時的な審議なしに、労基法の審議だけを先行させるというのは不正常です。こうしたいわば「つまみ喰い」審議を国会は許すべきではないと私たちは考えます。 |
男女を問わず長時間労働が蔓延することで親子の接触時間はますます少なくなり、青少年をめぐる社会問題は更に深刻化することになります。このことは、すでに現在の労働状況でもはっきりしていることですが、「改正」はこうした状況をさらに悪化させます。
わが国の労働者の年間総労働時間は、労働者自身の健康を破壊すると共に、労働者の家庭生活、とりわけ子育てに重大な悪影響を及ぼしています。
たとえば、94年に総務庁青少年対策本部が実施した日本、アメリカ、韓国における「子供と家族に関する国際比較調査」(注5)によれば、平日における親子の接触時間は、日本の父親では1時間以下が過半数を占め、3時間以上が3分の2を占めるアメリカの父親と際だった違いを見せています。しかも約2割の日本の父親は、親子の接触時間は「ほとんどない」と回答しており、日本の多数の家庭では事実上の「父なし子」が多数存在していることが明らかになっています。こうした日本の父親の子供との接触時間の少なさが長時間労働に大きな原因があることは間違いありません。それが証拠に、同調査では子供の出産や育児について行政に何を期待するかとの問いに対して、日本の親たちは「勤務時間などの労働条件の改善」を第1位に上げています。
「孤食の時代」という言葉があります。父親は朝六時ころに食事をして出勤、子どもは7時半ころに食べて学校へ、母親は8時ころに食事をしてパートへ行く。夕食も学校から帰って来た子どもは一人で食事して塾へ、保育園児を引き取って帰ってきた母親が食事をして、夜10時頃に帰宅した父親、夜11時ころに塾から帰った子どもが夜食というように、1日中家族が食卓を囲むことがないケースが増えてきていることを表現した言葉です。家庭はきめ細かな愛情で教育する場です。 そのためには家族が直接話ができる環境が必要です。父母と子どもが一緒に手作りの料理を作り、食べられれば話も弾みます。しかし、深夜勤務の制限がなくなると今ですら取りにくい一家団欒の機会は到底不可能となります。また家庭はさまざまに悩む子どもにとって最後の逃げ場・居場所でもあります。しかし、保護者の労働条件が悪化すれば、子どもの状況を理解する余裕もなくなり家庭の機能が充分に果たせなくなります。
「法案」では、すでにのべたように新裁量労働制の導入(「第4」参照)、変形労働時間制の拡大(「第5」参照)などで1日8時間労働を解体して、さらに長時間労働の拡大を促進する結果となる制度が導入されており、日本の労働者の長時間・過密労働にさらに拍車がかかることは火を見るより明らかです。しかも、男性労働者の長時間労働がいっそうひどくなるだけでなく、@「女子保護」規定の撤廃後の実効性ある男女共通の労働時間規制が設けられていないこと、A深夜業規制がないことにより、女性労働者も男性と同様の長時間労働にかり出されることは必至です。日本の子どもたちは、「父なし子」から更に悲惨な「母なし子」に追いやられるのです。現在、凶悪化する少年事件に対応するため一部では少年法「改正」が唱えられていますが、労働時間の弾力化を許さず、実効ある時間外労働規制を行い真の労働時間短縮を図ることで親子の接触時間を増やさぬ限り、問題の根本的解決は図れないでしょう。今回の労基法「改正」を許せば、21世紀の子どもたちの未来は真っ暗です。日本の次世代を担う子どもたちに、「法案」は、いったいどのような責任をもつというのでしょうか。私たちは「改正」は子どもたちの将来という一点だけでもこの国の未来を閉ざす暴挙だと思わざるをえないのです。
(注5) | 総務庁の分析でも日本の長時間労働の悪影響は明らか 総務庁による同調査の分析によれば、「『勤務時間…』の高さは、“時短”がしきりに言われるようになった昨今でも、世界的に見て労働時間が極めて長い日本の実状を反映している。この要望は父親のみならず母親にも、また、共働き家族でも専業主婦家族でも同様に強いことは、自分が働いている場合はもちろんのこと、夫の長い勤務時間という労働条件は、配偶者にとってもつつがなく子育てをしてゆく上でマイナスとなっていることを示唆している。夫の勤務時間が長いほど妻に育児の責任は偏ってかかり、その育児不安は高まること、夫から子育て責任を任せられている者ほど育児不安は強いことなどは、その一端である。」(同報告書 160頁)とされています。 |
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まったく逆でしょう。労働分配率の低下と雇用不安の増大で消費購買力が急落し、日本経済はいよいよ脱出不可能の不況におちいってしまいます。
「うちの社員はみな優秀なので『能力主義』中心の労基法『改正』になったら人件費がふえるのではないか」と心配している経営者を、みかけたことがありますか? 経営者のだれもが「これで人件費が減って大もうけができる」と喜んでいます。 それはそうでしょう。@新裁量労働制や変形労働時間制の要件緩和によって、より過密に長時間働かせても時間外手当てを支払わなくてすむ、Aもともと賃金の安い女性労働者を深夜まで働かせられる、B一人の労働者により長時間・過密な労働を押しつけられるので、あまった労働者をクビにしてその人件費を浮かすこともできる、Cそのうえ短期雇用契約や派遣労働の全面自由化で不安定雇用労働者をふやし正規常用労働者と置き換えることができる ──「一石二鳥」どころか「一石四鳥」のボロ儲けができるのですから。
しかし、労基法「改正」によるこのような効果が、日本経済にどのような影響をおよぼすのか、真剣に考えてみる必要はないのでしょうか。
「大企業栄えて、民滅ぶ」と言いますが、民を滅ぼして大企業は本当に栄えることが出来るのでしょうか。ましてや、日本の経済が繁栄することが可能なのでしょうか。私たちは今日の社会はそんな乱暴なやり方はとおらないところに来ていると考えます。
たとえば、将来の不安をかかえる不安定雇用労働者が、いっそうサイフのひもをしっかり結ぶことは当然でしょう。実際、3年先の生活状況も予測できない短期雇用労働者や派遣労働者が、家を買うために30年のローンを組めるはずはないし、金融業者もこれに応じないでしょう。そうなれば、わが国の住宅建設は衰退の一途をたどります。
生産が一定のとき、人件費が減って経営者がもうかる、ということは労働分配率が低下することを意味します。労基法「改正」によって労働者全体の収入が減ること(労働分配率の低下)はまちがいありません。時間外手当ての減収によって、新裁量制度の結びつけてのノルマで追わる能力主義管理、年俸化とその切り下げによって、賃金の安い不安定雇用労働者が正規常用労働者に代替することによって……。
すでにのべたように篠塚裕一氏は「改正」法を使っての「人件費節約」総額は年間30兆円を超えるものと試算しています(『労働運動』98年2月号)。この数字はもとより試算の域を出るものではありませんが、それでも随分控えめなものとなっています。たとえば同氏は、フロー型(不安定雇用)の労働者を約30%と想定しています。しかし、日経連の「新時代の『日本的経営』では管理職等の基幹職以外はすべてフローになるというのですから、すくなくともフロー型労働者は60%ぐらいにはねあがるでしょう。
しかし、控えめな篠塚氏の推計でも30兆円/年というのは、それにしてもたいへんな数字です。
現在の日本の国内総生産(DNP)は500兆円弱です。その約6割を消費購買力がしめるので約 300兆円です。30兆円というのはその1割にあたり、DNPを6%押し下げることになります。
いまの日本が不況にあることはだれも否定できませんが、政府見通しのDNP 1.9%増が実現できるかどうか、せいぜい1〜2%をめぐる攻防です。マイナス6%といえば、その3倍にものぼるのです。
昨年、消費税率の引上げをはじめとする9兆円の負担増が消費購買力を減少させ、それが消費購買力を減少させたことは、橋本首相さえ国会答弁でみとめざるをえませんでした。それが今日の不況をまねいたことは、いまではみんなの常識であり、国会やテレビなどでの論議ではいまや各党・各議員の多くがいっせいにそう言っています。
一方、不況脱出のため政府は、公共事業の拡大、銀行などの「体力強化」を中心とする16兆円の景気拡大策をとろうとしていますが、消費税の引下げ、福祉の改善をしないこのやり方の効果についても、批判が強まっているところです。
一連の事実 ──目の前の“証拠”──をみれば16兆円を帳消しにしてあまりある労基法「改正」を強行して30兆円ものマイナス効果をつくりだすことの重大な誤りは、だれが考えてもはっきりしているではありませんか。
30兆円という数字が信じられない、というのなら、国会審議のなかで政府に責任ある試算を提示させるべきでしょう。このような法案を上程する以上、それによる経済的影響が今日の景気拡大策と矛盾しないことを説明する責任ぐらいは政府として負うべきでしょう。その説明すらせずに、なにがなんでも労働法制「改正」を強行するというのは、みさかいなく目先の30兆円のボロもうけを求める財界のいうままであり、無責任の極みといわなければなりません。
自・社・さ連立政権であることにより、可能性があるといわれる「よりまし」な「修正」の中身は男女共通の労働時間の規制とは無縁な空文であり、“効き目のない薬”にすぎません。しかも、新裁量制や変形労働時間の拡大など大変な“猛毒”をもりこんだ法案です。ですから、あれこれの取引をする余地はありません。廃案にして参議院選挙で国民の意見を問うべきです。それが民主主義の本道であり、しかもずっと有利で実益のあるたたかいです。
私たちは、昨年の「女子保護」規定撤廃のときにも同じような議論がされたことを忘れません。政権与党の社民・さきがけ両党は、「女子保護」規定の撤廃だけが食い逃げされるという批判が広くあったにもかかわらず、男女共通の時間外規制をもとめる附帯決議とひきかえに、この「法案」に賛成しました。断固反対した日本共産党と新社会党以外の各党も、最終的には男女共通の労働時間規制が必要であることを強調しつつ、法案に賛成しました。「よりましな選択」だということでした。
でも実際にはどうなったでしょうか? 今回の労働基準法「改正」案のなかには、すでに「第3」でくわしくのべたように、法的効力のある男女共通規制はもりこまれませんでした。政府・自民党、そして財界は前国会での審議経過と附帯決議を無視して、食い逃げを図っているのです。やはりあのとき、男女共通の規制を同時に実現しないのならきっぱり反対というのが「よりましな選択」だったことは明らかになっているというべきでしょう。
にもかかわらず今度もまた「よりまし」な「修正」で成立させるというのなら、少なくとも、@男女共通の労働時間の法的規制(罰則付)の実現は不可欠のはずです。A男女ともにまともに働けなくする新裁量労働制(「第4」参照)の削除も必ずしなければなりません。B労働者の生活リズムを狂わせ、家庭責任を負う労働者を働けなくする変形労働時間制の拡大(「第5」参照)がもりこまれているのですから、これを法案から削除することが大事です。私たちは一年単位の変形はすぐにも廃止すべきだと考えていますが、仮に時間短縮のためだというのなら少なくとも、週平均三八時間以下にする程度の修正はすべきでしょう。C広くあいまいな要件で、しかも違反した場合の雇用の定めのない契約への転化規定もなしに、法案のような短期雇用契約の新設をみとめるべきではないでしょう。これらの点ですべては私たちと一致しなくても、少なくても「実のある修正」というのなら@Aは誰がどう考えても絶対に必要なはずです。そして、もし、この@Aすら「修正」しないというのなら、「連合」の要求はそうだと考えますが今国会で法案を廃案にすることにならざるをえないはずです。ところが、現在、私たちが聞いている「よりましな修正」内容(その正確性については確証はありませんが)は、深夜労働について法的拘束力のない「ガイドライン」の改定と労働者の健康診断の強化などという程度のもののようです。まったく男女共通の労働時間の法的規制にはなっていません。A新裁量制もそのままです。B、Cも手つかずのようです。
こんなことでは、とりかえしのつかない改悪にくらべて「よりまし」な「修正」とはとてもいえません。
「効き目のない薬」とひきかえに、命にかかわる劇薬(毒薬)を飲むのが「よりまし」などとどうしていえるのでしょうか。もし、そうした「修正」で「ないよりはましだ」というのならば、それはまったく、労働者、国民の要求に背をむけた「最悪の取り引き」であり、率直にいって背信行為だといわなければなりません。
労基法「改正」の可否は、最終的には主権者である国民の審判にゆだねられるべきものでしょう。間近にせまった参議院議員選挙で各党がこの重大課題にどのような対応をするのか、国民は真剣にみつめています。「よりまし」論などというまえに、各党は労働法制にたいするそれぞれの態度を国民に明らかにし、国政選挙で争うのが、民主主義の本道なのではないでしょうか。
選挙である以上、国民の信を得た政党が伸長し、得られなかった政党は低落します。今日の政治・経済の混乱とこれに対する国民の怒りをみると、労働法制の改悪反対や消費税率3%への引き下げなどをきちんと争点にして各党がたたかえば、参議院選挙の結果は、議会構成のうえにかつてないドラスティックな変化をおよぼす可能性があると私たちは考えます。少なくとも労働法制「改正」の是非、来年4月1日までの男女共通の労働時間の規制がはじめて国民の前に選挙の争点とされることによって、その結果は次国会の審議にいまよりはプラスに反映することは確実だといえるでしょう。
国会の審議をつうじても労基法改悪の真相が国民のまえに明らかにされず、国民の審判ぬきで「修正」 ──すでにのべたように“実のない「修正」” ──で成立させられる方がはるかに被害が大きいのです。
「断固反対が筋だということはわかっている。しかし、廃案になったままでは来年4月1日の女子保護規定廃止の施行のときに女性労働者がたいへんになるので迷っている」という意見を一部の議員から聞くことがあります。たしかに、来年4月1日の女子保護規定撤廃の施行のときに、男女共通の労働時間の規制が実現していなければ、女性労働者は大変です。
この点について私たちは、第一の道は参議院選挙で多くの政党・議員が少なくても男女共通の労働時間規制を公約としてかかげてたたかい、来るべき国会でこの点についての法改正提案をすることだと考えます。第一の道がどうしても開けない(間に合わない)というのならば、第二の道としては労基法の付則を改正して、女子保護規定撤廃の施行期日を延期することにすべきです。男女共通の労働時間規制が実現せず、女性労働者にとって不利益な「激変」が生ずることが避けがたいとなった以上、施行を延長するというのは道理にかなっています。各党が一致してたたかえば、そのことは十分に可能なはずです。
このようにたたかうことが、「実のない修正」「効かない薬と一緒に毒薬を飲む修正」よりはるかに「よりましな選択」であると確信します。
メガコンペディション(大競争)時代のグローバルスタンダード(国際基準)は規制緩和である。労働基準についてもそうだと政府・財界らは強調しています。マスコミの一部の論調でもこうした主張が目立ちます。はたしてそうなのでしょうか。私たちは、ちがうと思います。
本年2月、私たち自由法曹団も主催者団体の一員となって日本の法律家とアメリカの法律家との間で「規制緩和は労働者になにをもたらしたか」をめぐる日米合同シンポジウムが日本で開かれました。そのシンポジュームで明らかになった事実は聴いている人に大き な驚きを与えました。
アメリカの今日は日本の明日であると言われます。今日のわが国の社会的状況の推移をみればそのことは実感できます。90年代前半から今日に至るアメリカの労働事情もまた、わが国のこれからの雇用とその周辺を映しだす鏡であるといってよいでしょう。この機会にアメリカの実情を十分に検討しておく必要があると思います。以下報告します(注6)。
現在、わが国で規制緩和のもと、労働時間法制や雇用形態の自由化がすすめられようとしています。おなじ労働力の流動化の促進がアメリカでは90年代前半から本格的にはじまったと言われています。
90年から不況が回復していく過程でも、アメリカ企業は雇用をおさえる(当時「雇用増なき景気回復」といわれ、92年選挙での共和党敗北につながった)一方で、雇用を増やすときにはパートタイマーやテンポラリーワーカー(アルバイトや派遣労働者)を雇う方針をとりました。ダウンサイジングしたあとの穴を彼らで補充するのです。これらの労働者は、使い捨て従業員(desposable workers)と呼ばれ、当時の経営上の重要なトレンドになりました。
彼らの数は、その性格上定義が難しいのですが、もっとも狭義のアメリカ労働省の統計では約600万人と言われます。また、約3000万人という別の統計もあります。これによると93年時点での全労働者1億1900万人の約26%と多くを占めています。4人に1人の割合です。アメリカ労働省の調査によれば、かれらのうちで自分の現在の身分・立場に満足している者は、学生をのぞくと約20%に過ぎません。その当時、アメリカでもこのような不安定労働も一種のライフスタイルだという見方がありましたが、統計数字はその見方をうち消しています。彼らの多くは安定した労働を求めています。
このような労働身分しか用意されていないので就職する機会をさがす青年は夢をもてませんし、だいたいが人生設計を描けない。こうした不安定労働者の比率の高まりは、かれら自身に企業や同僚から「第二級市民」のような扱いを受けているという不満、ストレスを植え付けるので、職場のイライラ度が増す一方です。
彼ら以外の労働者や企業経営者も「安心していられる者は誰ひとりいない」という暗い気持ちになり、将来への不安をつのらせる一方です。労働者が努力して経験やノウハウを蓄積していく意欲が削がれ、企業に対する忠誠心も著しく損なわれたと言われています。
ひとつの企業内でも、あるいは職場単位でも、従業員の身分構成が複雑多岐であるため、以前には自ずと存在していた職場の秩序が大きく失われ、職場環境が確実に悪化しました。そのため生産性に悪影響が生じ、かえって産業界を長期的にみたとき有害であるという批判が今でも少なくありません。
また消費者でもある労働者の家族は、雇用が不安定で将来の不安を拭えないため、消費マインドにブレーキがかかって財布のひもは締め、そのため景気の回復は数年間遅れてしまったということも指摘されています。
日本と同様にアメリカでも一家の稼ぎ手は長時間労働をしますが、不安定雇用のために重ねて他の仕事を副業やアルバイトでこなしているものが多数です。それでも家計は不足し、補うため以前より多くの主婦が働きに出ざるを得ないといいます(94年統計では6歳未満の子どものいる女性の就労比率は62%でした)。そのため母親が子どもたちと一緒にすごす時間がなくなり、家庭の崩壊が社会の安定の基礎を揺るがし、少年非行も凶悪化し、かつ増大して大きな社会問題となっています。地域の社会的な活動やボランティアにでる余裕がなくなっているため、地域の連帯もまた急速に失われ、犯罪が急増する理由のひとつにあげられるまでになっています。
アメリカで雇用や労働のあり方の規制緩和をしたことによって、職場でも家庭でも地域社会にも甚大な影響を与えています。それは社会の成り立ちを一番基本的なところから、変えてしまいました。その影響は全社会的にひろがり、しかも取り返しのつかないほどに深いのです。アメリカの経験はそのことを教えています。
この日米合同シンポジウムで、アメリカのエリック・シロトキン弁護士はアメリカ労働者の近況を生き生きと報告しました。それによれば、いまもっとも世界でテレビをよく見るのは日本とアメリカの労働者だということでした。「長時間労働で家に帰れば疲れ果てソファーに横になり、ぼおーっとテレビを見ている」のだから、といいます。確かに誰も否定できない事実です。また「上級管理職にある者は、日本人以上に長時間労働をし、そのほかの労働者は生活のために二つも三つもパートタイムを掛け持ちするのが多い」といいます。わが国ではいろいろな仕事をマスターする多能工の奨励が行われましたが、アメリカでは無権利、低賃金の「多能工」が生まれ、生きていくためにいくつも仕事をかかえていたという笑えない話です。「労働者間の対立・緊張がエスカレートする一方なので、昨年(97年)だけで年間8000件以上のレイプ、1日少なくとも4件の殺人が職場で起きている」と言うすさまじさは、学校の荒れが今日大問題になっているわが国と比較して注目されます。わが国でもすでに、すさんだ学校の根底には職場の長時間過密労働と不安定雇用による荒れがあり、両者相まって深刻な社会問題となりつつあります。さらに地域社会の人間関係も崩壊してきています。「今では米国人の5割が隣に誰が住んでいるのかすら知らない」、といわれるほど、地域の連帯心が希薄になってきたというのです。
今日のアメリカの職場のすさまじさを対岸の火事と思うのは、肝心な政治的な能力である予知予測能力が乏しいことを意味しないでしょうか。 このような証言は決して大げさなことではありません。昨年4月に来日したアメリカ労働総同盟産業別組合会議(AFLーCIO)のジョニー・スウィニー議長もまたアメリカ労働者のおかれた窮状について触れて、「79年から95年まで『ダウンサイジング』で4300万人の仕事がなくなった。これらの労働者の3分の2が低賃金の仕事に流れた。5人に1人の労働者は健康保険がない。企業は年金と給付の削減、労働時間の増加、休暇の削減をおこなっている。賃金および所得の不平等が大恐慌以来見られなかった水準にあり、年ごとに事態は悪化している」と述べています。
わが国ではアメリカの現在の経済的好況の要因として労働力の流動化により、人権費が圧縮できたから、という者がいます。しかし、実際には労働力コストの削減が労働者の志気の低下あるいは職場の荒廃をもたらし、かえって生産コストを高めているという意見もあります。かえって消費を冷えこませたという議論もあったことは先に紹介したとおりです。果たして労働力の流動化あるいはフレキシブルな雇用形態をわが国ですすめていくことが、果たして良好な経済環境、良質な社会環境をつくっていくのでしょうか。アメリカの先例をどう受け止めるのが妥当なのか、その例を現在の経済環境に当てはめていくと一体どのような事態がもたられるのか、冷静に将来を考え、国の基本的ななりたちを慎重に考えるべきではないでしょうか。
フランスではジョスパン首相の提案で、奇しくも日本で労働基準法「改正」案が上程された同じ本年2月10日に週35時間制が下院で可決されました。いまの39時間を4時間も一挙に短縮するというものです。この時間短縮によりフランスでは20世紀の終わりまでに30万人から100万人の雇用を創出されると言われています。わが国でも時間短縮が言われますが、週35時間までの道のりはなかなかに険しいものがあります。もちろん労働時間の短縮問題はそれぞれの国のおかれた経済社会情勢の相違、あるいは文化や歴史の違いによってさまざまです。だから、すぐにフランスのように週35時間の法律をとまではいいません。しかしアメリカとフランス、双方はこの雇用問題について明らかに異なる方向に進んでいることだけははっきりしています。そしてアメリカのやり方が職場や地域、そして家庭の荒廃をまねいたこともはっきりしています。アメリカの規制緩和はけっして有効なグローバルスタンダードではないのです。そもそもヨーロッパ諸国、さらにはOECD諸国全体をみればアメリカのやり方は異端であり、一種の”逆流”なのです。そうであればわが国がアメリカ流の規制緩和の後につづく必要はありません。いま政府と財界がアメリカが歩んだ同じ道を歩き出そうとしているこの時、はたしてそこに未来があるのかを国民的に討議すべきです。この道でよいのかどうか、アメリカの経験と教訓は、どうであったか、と。
アメリカの雇用労働の緩和の道のりには、膨大な社会的な体験と教訓がありました。これを十分に検討して深く考えていく位の慎重さと賢明さがいま必要なのではないでしょうか。
橋本首相は、一方的な規制緩和、労働市場の流動化・自由化による不安定で差別された非正規・有期雇用労働者の増大について「労働者の生首を飛ばすような行革ではいけない。肉食動物とは違う、草食動物にあったやり方が必要だ」「確かに米国の雇用は増え、ミスマッチ(労働需給のずれ)も解消したが、給与格差が広がり、水準も下がった。下手をすると『基幹的な職務以外はすべて臨時労働』になってしまう」「それでよいのか」と語ったことがあります(朝日新聞96.12.25朝刊)。橋本首相はこの発言をしたときに、アメリカ流規制緩和に大きな懸念、危惧をいだいていたはずです。この国の首相の語った言葉は、この「法案」審議にまったく関係のないほど無責任で軽いものなのでしょうか。私たちはそうではないと確信します。重ねていいますが、アメリカのやり方ではなく、人間らしく働くために労働時間短縮をはじめとする労働基準の確立をすることこそが真のグローバルスタンダードなのだと思われてなりません。
(注6) | 上記シンポジュウムのアメリカ側の報告の内容は、 @法学セミナー98年5月号(日本評論社) AINTERJULIST121号(98年4月1日号、日本国際法律家協会) にくわしい。 |
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