この裁判闘争は最善・最高の手段

らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟原告代表
谺 雄二 こだまゆうじ
東京都出身1932 年3 月生まれ
1939 年5 月多磨全生園入所1951 年退所
1951 年9 月栗生楽泉園入所 現在に至る

 1996 年3 月、実に1 世紀にわたる人権侵害に対して、何らの謝罪も償いもないままの「らい予防法」の廃止は、私たちの新たな怒りをかき立てました。
 それがこのたびのハンセン病国賠訴訟です。いわばこのままでは死んでも死に切れない思いから、私たちが最後の手段として選んだのがこの裁判だったのです。
 同時にこの国賠訴訟のもう一つの意義は、自由法曹団の決起でしょう。即ちそれは自由法曹団に所属する多く の弁護士さんたちが、1907 年「癩予防ニ関スル件」施行以来、わが国ハンセン病患者とその家族に加えられた凶悪極まりない弾圧法「癩予防法」および戦後それを踏襲する違憲の「らい予防法」の制定を許し、かつまた放置してきた責任を自らに問い、私たちとともにたたかうという立場を鮮明にされていることです。感激この上ありません。
 私たちは1951 年に起きた「藤本事件」【*1】での関原勇弁護士の献身的活動を通し、自由法曹団の「基本的人権をまもり民主主義をつよめる」(団規約)姿を肝に銘じました。したがってできればこの裁判のなかで、あるいはたとえ機会を別にしても亡き藤本松夫氏の冤罪をもぜひ晴らしたいと願っております。いや、こんな私たちの思いもきっと叶えられる筈です。
 現在私たちの裁判闘争は、熊本、岡山、そして東京を結ぶ強大な弁護団と、北海道から沖縄まで全国各地の支 援する会の皆さんに励まされ、まだまだ予断は許されないにしても、実感としては勝訴に向けて確実に前進し続けている気がしております。最後の手段とした提訴ですが、自由法曹団からの「同じたたかう戦士」としての連帯を胸に、私たちはいまこの裁判闘争を、実は最善・最高の手段と自覚している次第です

【*1】 「藤本事件」熊本県下でおきた、1951 年の殺人未遂・1952 年の殺人事件。らい病感染のおそれと偏見から、捜査当局が取調べを公正かつ十分に行なわず、公判手続も特設法廷で非公開で行なわれた。こうした予断と偏見の中で死刑宣告。弁護団が結成され、救う会運動が広がる中、1962 年9 月、突然死刑が執行された。「無菌地帯」(草土文化社)に詳しい。

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