<<目次へ 団通信1001号(11月01日)

二〇〇〇年富山総会開かれる

─司法問題の当面の行動方針決定─

事務局長  小 口 克 巳

一 一〇月二二日から二三日の二日間、富山県宇奈月温泉において自由法曹団二〇〇〇年総会が開催された。団員の参加は二六二名、五三期弁護士・修習生・事務局員など一二〇名総勢三八二名の参加であった。
 総会に先立ち、一〇月二〇日豊田団長、鈴木幹事長、北陸支部の水谷敏彦団員、小口の四名が坂本都子、坂本堤団員・都子夫妻のメモリアルを訪れ弔辞と花束を捧げた。

二 一〇月二一日に行われた新人学習会は五三期の新人二三名とそのほか二〇名の合計四三名の参加で盛大に行われた。学習会では、女性団員大いに語るということで地元北陸支部・黛千恵子団員、西村依子団員が大いに女性団員の日頃の本音を語ったとのことである。しかし、新人以外はシャットアウトという異例の企画であったためにその真相は未だ分からない。
 新人学習会後半は、松波淳一団員の講演があった。反対尋問の準備・手法など高度な内容をOHPも駆使するなど工夫を凝らして訴えかけるものであった。新人以外にも多数の参加があり、内容豊富・教訓に富む重厚な話となった。

三 並行して支部・県代表者会議が開催され、一三支部・県から二五名の参加で日頃の支部活動の問題点、工夫や本部の運営についての問題点を交流し、意見交換をした。

四 総会は、北陸支部・山本直俊団員、神奈川支部・篠原義仁団員、東京支部・小部正治団員が議長となって進められた。団長挨拶のほか、団北陸支部を代表して木澤進団員、富山県弁護士会大坪健会長(夜の懇親会にて挨拶)、イタイイタイ病対策協議会小松義久氏、国民救援会・望月憲郎事務局長、全労連・熊谷金道副議長、日本共産党衆議院議員・木島日出夫氏よりそれぞれ挨拶を受け、古稀団員一二名(西山明行団員は表彰を辞退)の表彰と出席した田代博之団員(静岡支部)、松波淳一団員(北陸支部)から挨拶があった。

五 幹事長報告では、司法問題、憲法問題、労働事件での裁判闘争にテーマを絞っての問題提起があり、総会議案、「司法改革に関する団の当面の行動方針」、予算・決算の提案がなされた。討論は、第一日は、三つに分かれての分散会、第二日目は全体会形式で司法問題に重点を置き、ほかに労働事件をはじめとする裁判闘争、憲法問題での活動、少年法改悪問題、参議院比例代表での非拘束名簿導入問題、警察の民主化の問題などの討論がなされ、全体会では二九名が発言した。
 二日目の全体会において、総会議案、司法問題での団の当面の行動方針、予算・決算それぞれが承認された。

六 総会で採択された決議は次の通りである。
 @ 比例代表制を大きく歪める「非拘束名簿式」の導入と議員定数削減に反対する決議
 A 少年法「改正」審議の強行に反対する決議
 B 警察の抜本的改革をもとめる決議
 C 出し平ダムの拝砂に住民参加と必要な措置を求める決議
 黒部川の排砂問題は環境破壊での重大な問題をはらみ漁業にも重大な被害をもたらしているとの提案理由の補足説明があった。

七 総会では幹事、常任幹事を選出したほか、新入団員を承認した。また次の新役員が選出された。
 団長    宇賀神 直 (大阪支部  新)
 幹事長   篠原 義仁 (神奈川支部 新)
 事務局長  小口 克巳 (東京支部  再)
 事務局次長 財前 昌和 (大阪支部  再)
 事務局次長 小賀坂 徹 (神奈川支部 再)
 事務局次長 南  典男 (東京支部  再)
 事務局次長 黒澤 計男 (東京支部  新)
 事務局次長 大川原 栄 (東京支部  新)
 事務局次長 伊藤 和子 (東京支部  新)
 事務局次長 柿沼 祐三郎(群馬支部  新)
 なお、事務局次長については、神奈川支部と東京支部三多摩法律事務所に引き続き要請中である。

八 退任した役員は次の通りで、退任の挨拶があり、団長については三年間、幹事長ほかについては二年間の在任について慰労の拍手があった。
 団長    豊田  誠 (東京支部)
 幹事長   鈴木 亜英 (東京支部)
 事務局次長 山田安太郎 (千葉支部)
 事務局次長 高畑  拓 (東京支部)
 事務局次長 工藤 裕之 (東京支部)
 事務局次長 神田 雅道 (埼玉支部)
 事務局次長 中野 和子 (東京支部)

学生無年金障害者ら、社会保険審査会で集団意見陳述を実施

北海道支部  大 川 秀 史

一、団員の皆様の中で、二〇歳以上の学生時代に国民年金に加入して、その保険料を支払っておられた方は、一体どの位おられるでしょうか?
 平成三年四月以降、二〇歳以上の成人には国民年金への加入が義務づけられましたが、それ以前は任意加入とされ、二〇歳以上の学生の加入率は僅か一%強に過ぎませんでした。学生はいずれ就職して厚生年金等に加入するであろうから、学生の期間中あえて強制加入を義務づける必要はないというのが、任意加入とされた理由でした。しかも、任意加入の制度はもとより、未加入で障害を負った場合に障害年金が支給されないことも、殆ど知らされていなかったのです。
 しかし、学生時代に障害を負ったり疾病にかかって障害者になる危険性は誰もが有していたのです。そして現に未加入のまま障害を負った多くの人達が、国民年金に加入していなかったという理由で国民年金の障害基礎年金の支給を拒否されてきました。
 他方、二〇歳未満であれば、学生であるか否か、国民年金に加入していたか否かを問わず、無条件に年金が支給されてきました。

二、一九八〇年代の後半になって、障害年金の支給を拒否された神戸市在住の当事者である鈴木さん達が、障害年金の支給を求める運動を開始しました。
 日常生活では誰もが、突然の事故又は発病により障害者になる危険性を有していますが、特に学生時代はスポーツや交通事故等で障害を負ったり、精神上の不安から疾病に罹ったりする危険性は高いといえます。障害を負うという極めて偶然の事情により学生時代に障害を負った方々に対し、任意加入の国民年金(前述のとおり、大半の学生らは加入していませんでした)に加入していなかったことを理由として、二〇歳未満の者と区別して、障害年金を支給しないという不利益を負わせることに、何らの合理性もありません。
 この問題は国会でも取り上げられ、一九八九年や一九九四年には国会の衆参両院の社会労働委員会で、福祉的立場から解決を図るようそれぞれ附帯決議がされていますが、既に学生無年金障害者となっている方々に対しては、今日なお、障害年金が支給されないままです。
 昨年の国民年金法の改正によって、今後は学生について一定の条件のもと保険料を後払いとする制度が創設されました。しかし、現に未加入のまま障害を負った人達についての救済は、今回も見送られました。

三、一昨年、三八名の学生無年金障害者やその家族らは、全国各地の社会保険事務所に対して、障害年金支給の裁定請求を申し立てました。その理論構成は、二〇歳未満の者と二〇歳以上の者とで、年金の給付について区別すべき合理的な理由はなく、二〇歳未満時の事故又は発病により医療機関の初診を受けた者に対しては無条件に障害基礎年金を支給する旨の国民年金法の規定を、二〇歳以上の学生時に事故又は発病により医療機関の初診を受けた者に対しても類推・拡張適用すべきというものです。裁判に訴えず行政手続を利用しても、社会保険庁が支給に応じる余地もあるのではないか、との期待を有してのことでした。
 しかし、裁定請求は勿論、審査請求も棄却されてしまいました。その棄却理由はいずれも、申立人らの主張は立法論の問題であり、審査官の審査の権限外であるなどというものです。このため現在、学生無年金障害者らは、社会保険審査会に再審査請求を行っています。
 去る九月一九日、学生無年金障害者らは社会保険審査会で、一斉に意見陳述を行いました。通常、再審査請求手続は、各案件毎に個別審理されるのが前例となっていましたが、今回、三八名全員について統一して集団で意見陳述を行うことが認められました。社会保険審査会側がこの統一審理を受諾したのは、これを求める多数の署名が寄せられたことや、当事者や弁護団を中心とした粘り強い交渉によるものでした。

四、午前一〇時から午後五時までの間に行われた意見陳述は、スライド映写やビデオ放映が許可され、各地で工夫した意見陳述を行いました。北海道からも三名の当事者やその家族らが参加し、冬期間の北国でいかに不自由な生活を強いられるか、外出から帰宅までの様子をビデオで訴えました。
 意見陳述は当事者やその御家族の無念さや切実さ、生活の深刻さが伝わってくる内容でした。「将来の夢を抱いて学生生活を営んでいたのに、一瞬の事故で断念せざるを得なくなった」「生活保護の制度もあるが、長期入院の場合には打ち切られるなど、年金と比較して安定性がない」「医療介護機器の進歩はめざましいが、あまりに高額で手が出ない」等々。
 特に参加者らに共通していた事柄は、両親の支援の問題です。「物心両面で両親の全面支援を受けている」「両親は年老いてきており、その亡き後は生計の見込みが全くない」「せめて親として年金だけでも残してやりたい」「この先に行政処分取消の裁判もあると聞くが、その結果を待つだけの時間がない」と言った意見が、相次いで述べられました。

五、来る一一月二八日には、弁護団が法的な意見陳述を行う予定です。弁護団は、先の意見陳述において明らかにされた当事者やその家族の厳しい生活実態を指摘しながら、国民年金法の改正及び国会の附帯決議の経過や、行政が国民年金に加入しない不利益につき学生らに一切周知してこなかった事実、そして政府の障害者プランの内容等を併せ主張する予定です。
 そして、事故又は発症による初診が二〇歳未満の場合には無条件に障害年金を支給する旨の国民年金法規定を、学生無年金障害者に類推・拡張適用させ、この行政手続段階で障害年金の支給を勝ち取りたいと考えています。

六、これまで各地域毎に活動してきた当事者三八名やその家族・支援者・弁護人らが、今回初めて全国一堂に会したことで、参加者には大きな心の励みとなりました。
 私自身、事故で腰椎を粉砕骨折した経験があり、学生時代にはやはり国民年金にも加入していなかったこともあって、この問題には身につまされる思いをしています。また今回の意見陳述を通じて、従前は名前でしか知り得なかった全国の当事者の方々と初めて対面してその生活状態をお聞きし、弁護士として従前以上に本件に取り組まなければならないと感じた次第です。
 皆様のご理解・ご支援をお願い申し上げます。


聖パウロ学園暮石事件報告

滋賀支部  玉 木 昌 美

 聖パウロ学園の光泉中・高校の宗教科の専任講師の暮石一浩さんは、平成五年三月、同年三月三一日で一年間の雇用期間が終了するとして解雇された。これを争って仮処分決定を得るとともに、本訴においても、一年間の雇用期間の合意はなく、期間の定めのない雇用契約であり、解雇は解雇権の濫用であって無効であると一審、二審、最高裁で勝訴した(一回目の解雇)。ところが、暮石さんは平成九年二月二五日の最高裁判決の直後の同年二月二七日付で右訴訟中に開始した喫茶店経営が二重就労に該当するという理由で懲戒解雇された(二回目の解雇)。暮石さんは、原職復帰を受け入れられれば、いつでも就労する用意があることを明確にしながら、障害者運動の立場から経済的利益抜きで障害者を雇用している喫茶店経営に関与したことがあった。
 学園の理事長は、「訴訟で負けるが、絶対に職場復帰させない。」と明言しており、二回目の懲戒解雇はこれを実際に実行したものである。暮石さんは、再度、仮処分決定を得て、本訴においても、一審、二審で勝訴した。右決定や判決は、学園が明確に就労を拒絶しているもとにおいては喫茶店経営を就業規則違反とすることはできない。暮石さんの労務給付義務は、学園の責めに帰すべき事由により消滅するとした。また、学園は、一回目の解雇の訴訟が二審で係属中に、キリスト教に基づく中高一貫教育を売り物にして宗教科をもうけていたにもかかわらず、これを廃止してしまったが、この廃止にも合理的な理由がないとし、解雇権の行使は濫用に当たるとした。
 右平成一二年一月二五日付二審判決に対し、学園は上告受理の申立てをしていたが、平成一二年九月二八日最高裁第一小法廷は、上告を不受理決定し、暮石さんの勝訴が確定した。
 これで八回に及ぶ原告勝訴の司法判断がなされたことになる。「『二巡目の三審制』という異例の裁判」と報じた新聞もある。他にも鄭事件で四回(最高裁で勝訴確定)、鈴木ら事件で四回(上告取下で確定後、二度目の解雇で仮処分取得、現在一審)の原告勝訴の司法判断がなされたものの、いずれも職場復帰できていない。司法の紛争解決機能が問われるところである。
 以前に福井の故吉川団員が新人学習会における講演で、「裁判に勝っても職場復帰が難しい。」と述べられたことを思い出す。
 暮石さんと鄭さんは、平成一二年六月一一日から学園の就労命令に従い出勤したが、隔離部屋に閉じ込められ、労務屋によって聖書の書写や草刈り、反省文の作成を命ぜられた(捜査中の監禁事件もある)。これに対し、両名は慰謝料請求訴訟を提起し、現在係属している。今回の最高裁決定を契機に裁判所に対し、一六回に及ぶ司法判断に従わない学園に対する強い指導と全面解決に向けた尽力を申し入れたところ、職権による和解が開始されることとなった。
 学園内の組合員がゼロになった困難(労務屋により、壊滅させられた)を乗り越え、守る会の運動を強化する中で一日も早く全面解決したいと思っている。尚、教職員に給料さえ払えば飼い殺ししてもよいなどという自由を認めることはできない。


中 国 訪 問 特 集 第二回

中国訪問の感想

福岡支部  角 銅 立 身

一、【私は見ていた】
 九州の筑豊炭田、田川市で育った私の記憶にある戦争は、小学校三年生の昭和一二年(一九三七年)一二月一三日、南京陥落後の提灯行列だった。
 以来、昭和二〇年(一九四五年)八月一五日まで、B二九の空襲、グラマン戦闘機の銃撃である。
 敗戦の日を迎えたのは、私が秋田鉱山専門学校採鉱科一年生の時で、校庭で敗戦を知った。
 戦後、日本の歴史、悪魔の飽食、戦争と人間、人間の条件等の著書で、日本軍国主義の中国侵略が、ノモンハン・満州・支那事変、大東亜戦争につながったという歴史を知った。
 だが、今回の自由法曹団が中国人民対外友好協会を通じて訪問した印象は強烈で、平頂山村での三五〇〇人の惨殺や、七三一部隊による人体実験の数々の事実をまのあたりにした。
 犯罪的侵略者の一員として再自覚したのは、中国訪問から帰国後、「中国抗日戦争史写真集」の三八頁、五八頁を見た時だった。
 同じタイプの写真三葉を、私は五年生(一九四〇年)の時、私を弟のように可愛がってくれていた隣組のIお兄ちゃんに見せられている。当時、一時召集を解除されて帰省した軍曹(Iお兄ちゃん)が近所のガキ共と私に誇らしげに日本刀をかざしている姿を思い出したのだ。
 私はその写真集に今回の訪問でお世話になった羅煥章氏に次のように署名してもらっている。

   「2000年9月15日
    中日両国人民世世代代
    友好相*、是中日両国人
    民的期望、*也是*史友展
    的潮流、没有任何力量能
    *宅改変
         致
    日本自由法曹団的先生*
               羅 煥章
                 2000,9,15」

*(編集者注・中国と日本両国の人民の友好関係は、歴史の発展の潮流ですから、どんな大きな力が働いたとしても永遠にかわらないものでしょう。
          自由法曹団の先生たちへ   羅 煥章)

二、【平頂山遺骨博物館で見た無辜の民の骸】
 露天堀の撫順炭鉱の南の平頂山村で、丘に囲まれた盆地の中に村人全員が集められ、機関銃と銃剣で三五〇〇人の人たちが殺さた。その殉難同胞遺骨館では背筋に走るものがあった。
 遺骨の中には、幼子を抱く母、愛するもの同志をかばい合う、逃がすために老女が若者をかばう骨、骨、骨。
 その時に聞いた莫徳勝氏、楊宝山氏の当時を語る生々しい話に息をひそめた私たち。
 一転して、昼食では粛景全館長のご招待に預かり「カンペイ!カンペイ!」を続けた。
 上田先生が、私を指して「この人は撫順の街で『石炭の匂いがする』と言った曾ての炭鉱技術者だ」と紹介して下さったことに感激。

三、【今回の旅行で】
 五度目の中国旅行で、前回は雲南省、山を越えればベトナム、カンボジア。
 今回、石川元也さんとは全行程を共にし、近藤さん、豊田さんとは南京とハルピンに別れての旅であった。
 私は事務所にあった日本共産党の「こんにちは」(6/13〜9/17号分)を二セットと、昨年、自由法曹団から古稀の表彰をして頂いた時に貰った、
 「類稀れな川筋男の気風のあなたは三池三井大争議の現場の中で法律家への転身を決意し自由法曹団の旗を高くかかげて一九六五年から福岡で六九年からは田川市で炭鉱災害じん肺公害カネミ油症など数多くの人権課題に取組まれるとともに政治の革新のためにも健闘してこられ立派な業績をあげてこられました。
 自由法曹団はあなたの古稀をお祝いします。
 ますお元気で活躍されますよう期待します」
 と書かれた表彰状のコピー二〇枚を、自由法曹団を説明する資料として持参し、中国でお世話になった人たちに渡してきた。

贖罪と友好の旅

─中国における戦争被害に慟哭して─

静岡県支部  田 代 博 之

 自由法曹団の初の訪中団に加わって私は北廻りのコース、北京から中国は東北部・旧満州のハルピン・審陽・撫順の旅程で日中戦争における日本軍の侵略を受けた中国人民の戦争被害の今尚残る歴史の傷痕をひもとく現場を見学する機会に恵まれた。
 中国には私は過去五〜六回、五千年の先史文明の光を探索する旅行経験があるが、日本帝国主義の旧満州を拠点とする侵略の爪痕を現地で確認する機会はなかった。私は太平洋戦争開始の前後、日本の植民地主義支配者たちが「満蒙は帝国の生命線」などと宣伝して若人を満州の廣野にかりたてた少年時代の追憶を消すことができない。高等小学校高等科一、二年の頃、満蒙開拓義勇軍という制度がつくられ、私もその養成訓練所に入った経験があり、侵略の使徒にかりたてられた幼い日のイメージが半世紀もの間、胸中にくすぶって満州の大陸への見果てぬ傷痕を抱き続けた、といってよい。
 北京での日中法律家による初のシンポジウムは、中国側の行き届いた準備と歓迎の中で行われ、会場となったその場所も廬溝橋抗日記念館という日中史の原点に立ち戻って設営されたことは意義深いものであった。
 中国側の報告は、A「中国における司法制度の進展と課題ー中国における法律家の役割」、B「中国の改革開放政策の進展と克服すべき課題」、C「中国の考える東アジアの平和を実現するための戦略」の三本柱。しかし、共通の関心事とするかみ合わせには率直に言って乏しかったとの感想を抱く。しかし、日本の右翼に関する政治と社会科学的分析の報告資料は大いに敬服すべきものがあった。
日本軍の反人道的犯罪の歴史的証拠物件
 ハルピン郊外に旧七三一細菌戦石井部隊の罪証の分物が陳列館に溢れるほど展示されていた。陸軍防役の研究室の技術者が細菌培養基をつくっているところの写真、満人を人体解剖して実験している写真、細菌機材、実験のために虐殺された中国人・朝鮮人・ソ連人の屍累々、戦争時、軍が証拠隠滅を企図して爆発した三基の巨大なボイラーの残骸等。まさに、この世の地獄の世相を彷彿とさせる凄惨情景に身の毛もよだつ思いであった。
 ハルピンには半日滞在したのみで飛行機の欠航のため審陽まで約六時間の旧南満州鉄道の列車に乗って一路南下。高梁畑が車窓の両側、沿線の風景のすべてを占める程、果てなき廣野に広がる。その昔、満州の廣野をたたえて「赤い夕日に照らされて…」という真赤に西城に落ちていく夕日の素晴らしい情景が一瞬のうちに望見されたことは幸いであった。審陽では、一七四六年代、創建に成る清の皇帝の居城、故宮と広大な北陵公園を見学したのち、折しも九・一八満州事変勃発の日に巡り合い、柳条湖事件発生の地にこれを記念して建てられた歴史博物館を見学した。
 館内には、「九・一八国辱の日、中華人民血涙をもって刻む、日本侵略者、凶暴な意図をもって九・一八事件を生起させた」と一九三一年から四五年までの一四年間の幾千万の中国人民の非絶痛絶の侵略図絵と写真が展示されている。これは実に壮大な歴史の絵巻物で凄惨な迫力にみち、日本人の胸をかきむしる。次いで訪中団はバスで約四時間揺られて撫順に着く。南満最後の見学場所、撫順は戦前からの露天掘りの炭坑でつとに著名な鉱山都市。しかし、行く先は炭田の山間に関東軍による中国人民三千名の虐殺現場、いわゆる平頂山遺骨陳列館に辿り着いたことである。
 一九三二年九月、日本駐屯軍によって機銃掃射、ガソリンをかけて焼き討ち、山を爆破しての証拠隠滅、八百体の遺骸が今なお悲痛な抗議の声を伝えて見学者に迫る。戦争責任の告発に向け国民の警鐘を、それは平和と日中友好の確固たる礎石として構築を!
 末筆ながら訪中団を組織し準備して下さった事務局の皆さん、そして行を共にした訪中団員の皆様に心から感謝します。

中国訪問の感想

大阪支部  三 上 孝 孜

日本軍の戦争犯罪を考える

○はじめに
 今回の中国訪問では、日本軍の戦争犯罪の跡を直接見ることができたのが印象的だった。
 なかでも、七三一部隊(細菌戦部隊)罪証陳列館の見学とそこでの被害者二人の証言及び平頂山殉難同胞遺骨館の見学とそこでの生き残り証人二人の証言は、衝撃的だった。
 また、撫順の日本軍戦犯管理所の見学でも、色々なことを考えさせられた。

○七三一部隊の実態と平頂山事件
 七三一部隊跡では、罪証陳列館と部隊が使っていた建物本体を見学した。
 罪証陳列館には、部隊が使っていた器具や生体解剖の人形模型等が展示されており、当時の非人間的な部隊の実態が再現されていた。
 当時の建物の一部は、現在も残っており、これは日本の戦争犯罪の記念館として、永久保存する予定だとのことだった。
 被害者は、当時、部隊が、ペスト菌を植えつけたネズミを近くの村に放ったため、村人の多数がペストで死亡し、そのとき、かろうじて生き残ったと訴えていた。
 平頂山事件は、抗日ゲリラにより、満鉄経営の撫順炭鉱が攻撃されたことを口実に、ゲリラが通過した平頂山の村民三千人全員を山に集め、日本軍が、機関銃で、全員を射殺し、銃剣でとどめをさしたというものだ。そして、山を爆破し、その土砂で死体を埋めて隠
した。
 中国解放後、現場が発掘され、累々たる遺骨が出てきた。その遺骨の上に、現在の遺骨館が建てられた。
 生き残りの証人は、当時子どもで母親の死体の下で息をひそめ、かろうじて助かった等と述べていた。
 七三一部隊の部隊長石井は、戦後、アメリカに部隊の研究資料を提供するのと引換えに、責任追及を免れた。
 平頂山事件の責任者の一人は、戦後、日本で自殺したとのことだが、責任者は誰一人として、責任追及をされていない。
 いくら戦争中のこととはいえ、このような非人道的行為に対しては、厳しい処罰と国家賠償が必要だと思う。もちろん、時効は適用されるべきではない。
 これらの責任追及をあいまいにしたことが、一部の論者による、南京大虐殺否定論等の日本軍の戦争犯罪否定の議論を生じさせているのではないだろうか。

○撫順戦犯管理所と日本軍戦犯
 他方、戦後、撫順戦犯管理所に収容された日本軍戦犯の多くは、収容所で、自らの戦争犯罪を反省した。その後、新生中国の寛大政策により、多くの人は、不起訴処分となり、日本への帰国を許され、八名が戦犯裁判に起訴されたが、一人の死刑判決もなく、後に、全員釈放され、日本へ帰国した(一名の死亡者を除く)。
 その人たちは、日本で、中国帰還者連絡会をつくり、自らの戦争犯罪の贖罪をするとともに、日中の平和友好運動に取り組んでいる。
 中国帰還者連絡会の人達が書いた「三光」や、撫順戦犯管理所に収容され、中国の日本軍戦犯裁判で懲役一三年の判決を受け、刑期満了前に釈放され、帰国した鵜野晋太郎氏が書いた「菊と日本刀」は、自らが、中国人に加えた残虐行為を、深刻な反省とともに、詳しく明かしている。
 今回、撫順戦犯管理所において、元収容者で、中国帰還者連絡会の会員であり、帰国後、平和運動に取り組み、中国人の戦後補償裁判の東京地裁での証人にもなられた故・三尾豊氏の平和運動について書かれた「認罪の旅、七三一部隊と三尾豊の記録」を買った。
 中国で日本の本を買うのはおかしな話だが、撫順戦犯管理所では、中国帰還者連絡会関係の書物を販売していた。
 三尾氏は、元憲兵で、戦時中、満州で中国人を逮捕して七三一部隊に送り、そこで死亡させたことがあり、そのことに対して強い自責の念を持っていた。
 戦犯管理所を釈放され、帰国後、中国を訪問し、当時の被害者の遺族を探して心から謝罪する様子が記録されている。読んで感動した。
 このような献身的な日中平和運動家を生み出したことは、戦犯管理所における、新生中国の戦犯に対する贖罪教育とその後の死刑のない釈放という寛大政策の大きな成果ではないかと思う。中国に反感を持っている者は、戦犯管理所での教育を「赤化教育」と非難しているが、それは的外れであることは、これら心から戦争犯罪を反省した人の本を読めば明らかだ。

○戦争犯罪の処罰と平和の実現
 七三一部隊や平頂山事件等の戦争犯罪人に対する不処罰と、同じ日本軍の他の戦争犯罪人に対する撫順戦犯管理所への収容とそこでの贖罪教育を対比すると、戦争犯罪あるいは非人道的行為に対する適正な処罰の実施が、将来の不戦と平和の原動力になると思われる。

一衣帯水の彼方から

東京支部  田 中  隆

一 悠久の歴史とシンポジウム
 中国訪問団への参加を考えたのは七月下旬になってから、「中国なら英語じゃないからまあいいか。東北部には一度は行ってみたかったし…」というのが本音のところ。「いささか目前の課題に追われすぎだから、一衣帯水の彼方の広大な大陸で少し長い尺度でいまを考えて見るか」というのが、あとからつけた「位置付け」。だから、公式のシンポジウムがあるなどとは、直前の打合せではじめて知った次第。
 驚かされたのは、成田空港で配布された中国側のシンポ用レポートの一本。日本の右翼勢力に関する克明な歴史分析が加えられ、最後は石原慎太郎の登場のところで終わっていた。右翼的潮流に対する「評価過大」の面もあるが、近時、これほど系統的な研究を国内でも見ることは少ない。
 おかげで、「中国では石原を右翼の柱と見ている。石原とのたたかいの発言をやってくれ」となり、「悠久の歴史の尺度」のはずが「目前の課題」に引き戻されることになってしまった。

二 二人の石原のはざまで
 日本の資本主義が変貌を遂げて対外進出を強めるなかで、右翼的潮流が台頭している。とりわけ石原の好戦性とファッショ性は顕著だ。憂れうべきは四月九日の「三国人発言」のとき「よく言った」という声も相当見られたこと。石原はこの国の国民に再び生まれつつある排外主義・大国主義の気分に意識的に火をつけている。
 その石原は九月三日に、「災害対策」の名目で大規模な軍事演習をやった。われわれは監視と批判の活動を展開し、マスコミにも影響を与えた。朝日新聞は、「備えあれば憂いあり」という諺をもじって、「備えは自衛隊。憂いあり」と報道した。国民の良識は眉をひそめている。眉をひそめるだけでなく真っ向から批判し、封じ込むために奮闘したい。アジアの平和にもかかわる問題でもあり、仮借のない批判をお願いしたい。
 以上が、急きょ準備したシンポ発言の要旨である。
 石原に見られるウルトラ・ライトの主張が新自由主義の流れのなかで突出しつつあることは、中国側から指摘されるまでもない。放置すればリベラリズムをどす黒く書き換えるインパクトにもなるだろう。
 かつて、「満蒙領有論」を叫ぶもう一人の石原は、北大営附近の柳条湖で満鉄線を爆破させ、一五年にわたる侵略戦争の嚆矢を放った。七〇年の時を経て、二人の石原の言動の意味は、いまあらためて重い。

三 家族と中国への「公約」
 「中国に行くよ」「どうして一人でいくの」「子どもの学校があるじゃないか」というのが、参加を決めたときの家族のとの会話。こうなると、「休みのときなら行けるじゃない」となるのが理の必然で、中国旅行は「公約」になってしまった。
 もうひとつの「公約」はシンポのあとのレセプション。「抗日記念館を息子に見せたい」と言ったら、隣の席にいた記念館勤務の美人に乾杯されてしまった。これまた「酒の上の話だから」ではすまない。
 だから、今回は「下見」として来年は家族で中国東北部へ。再見。

九月一七日のハルピン

東京支部  菊 池   紘

 ハルピンのホテルグロリア(松花江凱菜商務酒店)で目ざめて時計を見ると針は五時三十分を指していた。ベットから起きてジャンパーを羽織り、ホテルを出て河へ向かった。
 松花江の豊かな水はゆったりと左手から右へ流れている。湖畔のスターリン公園では早朝から多くの人々が散歩している。なかにはジョギングしている者もいる。広場では二十名前後のグループが太極拳のゆったりした動きをくり返している。
 風が頬に冷たい。中央大街のロシア風の建物を除くとこの街はすっかり変ってしまったというが、河の流れは五七年前の昔のままなのだろうか。ぼんやりと流れをみつめていると、右手の長い長い鉄橋をチチハルへ行く列車がカタンカタンという音を残して走っていった。
 冷たい風を避けて中央大街(旧キタイスカヤ通り)へ出て、数々のロシア風の建物にカメラをむける。なかに「1922」と壁に書いてある建物もある。二人の兄はこれらの建物を覚えているのだろうか……。
 平房の侵華日軍七三一部隊罪証陳列館の見学からバスで戻ってすぐ、昼食前の買物の時間にタクシーでガイドと二人、馬家溝巴山街に向かった。巴山街の広い道路には柳の並木が連なり、両側にはアパート風の建物や警察派出所そして用途不明の建物など、六階建がすきまなく並んでいる。街路の入口の「巴山街」の標識をしばらく見つめ、そしてカメラを向けシャッターを押した。一九四二年に私はこの街に生まれ、敗戦で一家が生命からがら日本へ逃げ帰るまでの三年間をここですごしたのだ。
 昼食から間をおかず私たちは瀋陽まで七時間の長距離列車に乗りこんだ。車窓からどこまでも続くトウモロコシ畑を見ながら考えた。
 私が巴山街ですごした三年間ー同じ時そう遠くない郊外の平房では、悪魔が飽食の限りをつくしていた。満州七三一部隊の要員は職業軍人と医師二千六百人。
 七三一部隊罪証陳列館で聞いた牡丹江地区「ボルシェヴィキ」の元闘士のおばさんの話には衝撃をうけた。活動中に夫とともに逮捕された彼女は病のため釈放されたが、夫は戻らなかった。あちこちと消息を求め歩いたおばさんは、戦後にでてきた七三一部隊の「実験」の犠牲者名簿に夫の名前を発見することになる。話が終ってお別れするとき、思わずおばさんに深く頭を下げた。
 いま侵略戦争という規定とそれにともなう加害の事実を否定しようとする声が、一部にかまびすしい。ドイツの前大統領は、過去について学ばない者は未来に盲目になるという趣旨のことを言っている。七日間の短い中国の旅で何度か聞かされたのは「前事不忘、後事之師」。


米朝共同コミュニケについて

 広島支部 井 上 正 信

 一〇月一二日米朝高官会談の結果共同コミュニケが発表された。
米朝関係の進展が我が国と東アジアの安全保障にどの様な影響を与えるか考えてみたいと思います。
 米国は北朝鮮政策を包括的に見直すため、九八年一二月前国防長官ペリーを北朝鮮政策調整官に任命した。その後ペリーチームは周到な調整を行い、九九年一〇月にレポートを発表した。その間には米朝ミサイル協議の進展、韓国政府が北朝鮮に対して政府間援助の用意があることを発表するなど、後の南北首脳会議につながる重要な成果を生んだ。
 南北朝鮮はペリー路線を背景に、周到な準備を重ね六月に南北首脳会談を行い共同宣言に両首脳が署名した。この内容は将来の統一を見据えた後戻りできない両国関係の発展を約束するものであった。共同宣言はその後実務レベルでも具体化が進み、定期閣僚会議、南北離散家族再会事業、DMZでの鉄道の連結、国防相会談等予想を超える進展をしている。
 南北和解の進展に促されるように米朝高官会談が実現した。これには中国とロシアの果たした役割も重要である。これらの動きは朝鮮半島の安全保障を巡り日本を除く北東アジアの大国間での枠組みの端緒となる可能性があることを示している。
昨日の米朝共同コミュニケは
  1. 米朝関係改善がアジア太平洋地域の安全強化に有益であると認識
  2. そのために朝鮮半島の戦争状態を公式に終結させる具体的枠組みについて認識が一致
  3. 具体的な枠組みを創る第一歩として両国の敵対関係終結を宣言し新たな両国関係樹立に全力で尽くす
  4. 両国が互いに自主権を尊重し内政不干渉原則を確認し今後の双務的多面的関係を正常に維持する
  5. ミサイル問題の解決がアジア太平洋の安全に重要な寄与をすることで見解が一致し、北朝鮮はミサイル協議継続中は長距離ミサイルを発射しないことを約束
  6. テロに反対する
  7. クリントン大統領の訪朝準備のため国務長官訪朝
というものである。新聞では、テロ支援国家指定解除や、米朝の連絡事務所開設、ミサイル開発放棄等が具体的に触れられていないことにやや失望を示す論評もある。我が国政府もこのことが直ちに東アジアの緊張緩和につながるか不明として、慎重な見方をしていると伝えている。しかしこのような評価は共同コミュニケの意味をことさらに過小評価するものと思われる。
 具体的な成果は恐らく両国首脳会談に残されたのであろう。共同コミュニケを見る限り、米国はペリー路線に乗って北朝鮮との関係をテロ指定解除や戦争状態終結(平和条約締結)するという大きな決断をしたと思われる。更に朝鮮半島を含む東アジアの安全保障問題に取り組む枠組みを展望しているのであろう。むろん米国は封じ込め路線を放棄したのではない。日米、米韓同盟を維持し、日本と韓国には米軍を前線配備する政策を変更する意思はない。米国の展望する東アジアの安全保障の枠組みの基本にはこの軍事同盟があることは明らかである。
 しかし日本と韓国の人民はこのような米国の思惑を乗り越えて行く可能性がある。
 今後南北朝鮮間で、DMZを挟んだ軍事緊張状態を緩和させる(両軍のDMZからの引き離し、両国軍人の相互交流と信頼醸成措置など)ことから一定の軍縮措置に進めば米韓同盟の存在意義が揺らぐであろう。日米同盟は発足時点からアジア全体をにらんだものであったが、米韓同盟は北朝鮮からの韓国防衛が唯一の存在意義であったからである。
 在韓米軍の撤退問題が、逆に日米同盟の強化につながらないよう、われわれも米国の思惑を乗り越える構想を持たなければならない。それは在韓米軍と在日米軍の撤退を前提にした、北東アジアの安全保障の枠組みについての構想である。
 米・中・露という核兵器国の国益が衝突する北東アジアでの安全保障体制を構築するためには、日本・中国・南北朝鮮・ロシア・米国を包括する枠組みが必要である。北朝鮮と我が国の国交回復、非核地帯と地域的軍縮・信頼醸成措置、領土問題の平和的解決の仕組み、非核保有国に対する条約化された消極的安全保障の誓約、我が国の非核化(核の傘からの離脱を含む)、これらを促進し検証するための地域機構などであろう。
 朝鮮半島の平和的統一と統一後の安定を保障するための六か国を包括する枠組みが必要である。この枠組みは同時に日本を含む北東アジアの安全保障の枠組みにもなるはずである。
 この構想を実現する上で一番の障害が我が国である。北朝鮮との国交が回復していないし、米国の二面的な対中国政策の中で、槍の役割しか負わされていない(新ガイドライン)からである。我が国のこの立場が北朝鮮に対しても未だ冷戦思考から抜け出られない原因である。我が国のこのような立場がいかにに北東アジアの緊張を高めるか、一〇月一三日の朝日新聞にでている北朝鮮の人民武力相の発言を紹介しよう。彼は先ごろ開かれた南北国防相会談で、米韓合同演習があるときは「訓練がある度に、夜も寝られず緊張した。」と述懐したそうである。我が国が北朝鮮脅威論に立つ限り、北朝鮮側は、我々が想像した以上に緊張するであろうことは想像に難くない。
 我が国はまず北朝鮮との国交回復を最優先すべきである。日本人拉致問題が障害になると本気で考えている国民は、被害者感情を煽っている右翼・反動マスコミとそれに乗っかっている一部の保守政治家を除けばいないであろう。我が国との北朝鮮との間での懸案事項である拉致問題とミサイル開発問題は国交回復後の交渉で十分解決できるはずである。国交回復のバーゲニングの価値を高め、とれるだけとろうとするやり方では、むしろ情勢に取り残され我が国にとって大きな損失となる。
 中国政策も明確にしなければならない。我が国の中国政策は、日中共同宣言と日中友好条約に示されている。これは中華人民共和国が唯一正統政府とは認めたが、台湾の帰属問題では、台湾が中国の不可分の領土の一部であるという中国の主張を理解し尊重するというものにすぎない。我が国自身が台湾の帰属問題に決着をつけたのではないのである。その結果我が国は台湾独立を政策的に肯定できうる下地がある。その上自民党内や最近では民主党も含め台湾ロビーが力を増している(民主党は李登輝を日本に招請しようとしている)。我が国はこの曖昧な中国政策を転換し、台湾は中国の不可分の領土の一部であること、台湾独立は支持しないこと、万一台湾独立を巡り中国と台湾が衝突しても日本は台湾を支持しないことを明確にすべきである。そのことが逆に台湾独立を巡る武力紛争を防ぐことになるのである。逆に日本が台湾独立を支持すれば米国(特に米国議会)とともに台湾を独立の方向で励ますことになる。もし台湾独立を巡り米国を巻き込んだ地域紛争になれば、我が国は無傷ではいられない。米中の核兵器使用も絡む深刻な問題である。このような結果を国民が望むわけがないであろう。北朝鮮国交回復を最優先にすることと中国政策を明確にすることとは必ず国民の多数に支持を得られるはずである。