<<目次へ 団通信1033号(09月21日)
高橋 勲 | 団のあゆみと私 | |
前 哲夫 | 団と共に | |
井上 洋子 | 私と軍人 | |
河西 龍太郎 | 私のライフワーク | |
舘山 茂 | 月例幹事会に反映された持続と発展 | |
黒澤 計男 | いよいよ刊行!『新・くらしの法律相談ハンドブック』 | |
井上 正信 | 朝鮮半島の和解と統一は日本の平和運動の重要な課題 | |
篠原 義仁 菅野 昭夫 鈴木 亜英 |
第三回アジア・太平洋法律家会議(COLAPIII)参加要請とカンパのお願い | |
大熊 政一 | COLAPIII(第三回アジア太平洋法律家会議)の意義とカンパのお願い | |
ピーター・アーリンダー | 私の人生を変えた「えひめ丸」事件 |
千葉支部 高 橋 勲
私はこの原稿を韓国ソウルのホテルで書いています。日本弁護士連合会と大韓弁護士協会との定期交流会に日弁連副会長のひとりとして参加しています。
私の手元の資料に今年七月二四日付の自由法曹団と民主社会のための法律家集団との共同声明が入っています。日韓両国の法律家が「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書問題をとりあげ、「必要なたたかい」を誓い合った歴史的文書です。自由法曹団の活動が世界にひろがり、その行動と発言が一定の影響力をもっていることに感動し、うれしく思います。
私が自由法曹団に入団したのは一九六七年四月。二五歳の時でした。何もわからないままとびこんだ「三里塚空港闘争」。今日出発してきた成田空港用地をめぐる三四年前の農民たちのたたかいです。このたたかいで私は「行動する法律家団体」としての団の姿を学びました。開拓の苦労をしのばせる「木の根」「岩山」という部落の名にみられるように明治の開拓の時代から、営々として築いてきた農民たちの暮らしを非民主的な土地収用によって奪うことに対するいかりがその原点にありました。農家の一軒一軒をまわりながら、若い私は次第に共鳴し、彼らの行動の正当性を裏づける法理論は、農民たちとの会話と行動の中からつくりうるものだと考えるようになりました。大衆とともに行動しながら考える。団のこれからも生かしていきたい一つの大切な伝統です。
今から二〇年前の団の六〇周年記念集会と総会。私はこの総会で団本部事務局長に選任されました。あのときの緊張した雰囲気を今でも思い出します。総会の直前の一〇月一六日に起こった北海道夕張炭坑の大爆発事故。この明らかに人命無視の労務政策を原因とする大事件に対し、「団は今、直ちに立ち上がるべきだ。」今は亡き梨木作次郎団員は声を大にして発言されました。総会終了後の新三役の打ち合わせに梨木団員も同席していました。上田誠吉団長(当時)と相談し、その二日後、私は夕張にとびました。北海道の団員たちも合流しました。夕張を訪れ、団は何をすべきかを皆さんと考えました。そして全国に呼びかけての現地調査活動。この夕張のたたかいはこの国のエネルギー政策の誤りを指摘し、働く者の命を守るたたかいへと発展したことは記憶に新たなところです。私自身は、いわば「たたかいに火をつける」小さな役割を果たしたにすぎませんが、このとりくみの中でも「行動する法律家団体」の存在意義を実感したのでした。
団の七〇周年記念集会と総会は一〇年前の一九九一年一〇月。私は団本部の幹事長でした。記念集会のテーマは「いま、自由と平和・民主主義の危機に抗して」。湾岸戦争を契機として「国際貢献論」が喧伝され、自衛隊の海外派兵が策され、PKO法案阻止と憲法を守ることがこの国の平和と民主主義を守るうえで大きな課題となっていました。集会ではアメリカのナショナル・ロイヤーズ・ギルドのアーサー・キノイ弁護士が講演。この集会へのキノイ弁護士の来訪も一つの契機となって、団の国際交流が今日まで発展的に継続されていることもうれしい限りです(ただし、「国際派」でない私はなかなか「時流」に乗れないでいるのが残念です)。
この七〇周年の前後のPKO法とのたたかいを中心とする団活動の中で、当時団本部事務局長をつとめた鷲見賢一郎団員とともに、夜遅くまで団本部につめ、湾岸戦争の情報を集め、団声明や意見をまとめるために四苦八苦したことも、鷲見さんのあの「馬力」とともにいまはなつかしく想い出されます。
この湾岸戦争やPKO法とのたたかいも、やはり議論しながら行動し、行動を通じて私たちの団としての議論が正しく収斂されていくという貴重な経験を与えてくれました。
あれから一〇年。私の団員としての生活も三五年目に入りました。そして今年は八〇周年。時の流れの速さがひどく気になります。
今年私は、日弁連副会長として、全国各地を訪れることが多くなっています。いまの私のテーマは「司法改革」。このテーマもまことにむずかしい課題です。財界などの規制緩和の流れと国民の司法の民主化を求めてきた流れの二つが、文字どおり「つばぜり合い」の様相を一層つよまってきた感があります。立法段階にはいり、「政治闘争」としての局面を迎えているからでしょう。全国各地でその地域で責任をもってがんばっておられる本当に多くの団員の方々とお会いし、語る機会に恵まれるのがとてもうれしい。会話が出来ないときでも、笑顔をむけられたり、握手をかわすだけでも、「ああ、ここでもがんばっている団員がいるな」と思い、心から励まされます。そう、いま私たちの団は全国にしっかりとその根をおろしているのだと思う。一連の「司法改革」の流れの中での法曹人口増。弁護士が増えるなら、団員を増やすチャンスでもあるのです。
確かに二一世紀をむかえ、世の中の多様化が進み、弁護士の「公益性」を強調する流れもつよまるでしょう。しかし、ますます国民の間に矛盾が拡大することは間違いないのです。そうである以上、弁護士の在野法曹としての人権擁護活動の重要性を訴えていかなければならないといま強く思います。団の存在意義は一層大きくなることは間違いありません。
夜もふけました。明日は大韓弁護士協会と日弁連との意見交換会が予定されています。そのあとの大韓弁護士協会会長主催の晩餐会を楽しみにしながら、そろそろ休むことにいたしましょう。団の皆さんと一杯やっているところが夢にでてくるかも知れません。
(九月二日、夜、ソウルのホテルにて)
私(二五期)は、過去に長年にわたって常任幹事や兵庫県支部の事務局長・幹事長を務めてきたが、常に団員であることが誇りである。
団は、創立以来人権の旗の下に団員を結集し、それ故にこそ権力の弾圧によって幾多の試練を経てきた。私の所属する神戸総合法律事務所の初代所長井藤団員(今年が生誕一〇〇年に当たる)らが治安維持法違反被告事件の弁護をしたのが治安維持法違反として逮捕され弁護士資格も剥奪された戦前、戦後も駐留軍(米国)の政策が急変し井藤団員らが政令違反(占領目的違背)で逮捕され団の存続自体が危ぶまれた時期(梨木団員が一人になっても団を守る旨総会で絶叫された)の経験はもちろんないが、想像するだけで恐ろしい試練だったと思う。
私が団員になった当時は、(1)一九六九年ころの全国学園闘争でのいわゆるトロツキスト(新左翼)学生の刑事事件は人権のために闘っているとは認められないから団としては関与しない、(2)「裁判所は権力の作った土俵である」から刑事被告事件としてやむなく闘わざるを得ないときは松川事件などで構築した大衆的裁判闘争で闘うが権利救済を裁判所に求めないとの「定式」が破られ、公害裁判闘争など被害者が裁判に訴えるようやく団としての取り組みとされた時期で、(3)司法修習生の任官拒否問題などの司法問題(ましてや司法制度改革)に取り組む姿勢は未だ弱かった。大衆的裁判闘争の理論が、個別事件において世論を結集して裁判所を包囲し、その決断を迫るという域を出ていなかったからだと思う。
私が団員になって以降、兵庫県下での部落解放同盟による朝来・八鹿暴力事件で団は刑事事件で告訴人側で大衆的裁判闘争を闘うようになり(大変お世話になりました)、悪法反対闘争も活発化し、次第に司法問題にも取り組むようになってきた。
そして今、団は大きな転機を迎えているように思う。一つには、戦後まもなくまでのシビアな時期を身を挺して体験した団員が亡くなったり高齢化し、刑事弾圧事件を知らない若い世代の団員が増えているという世代交代、二つには、北海道の今団員や大牟田の永尾団員に象徴されるようなサラ金被害を含む消費者被害の救済が大きなウエイトを占めるようになってきたことや、連合傘下や未組織の多数の労働者が企業の勝手でリストラされている等、個別事件では世論喚起が困難な事件が急増しており、しかもそれらの事件の解決には団外の弁護士との協力関係が不可欠になってきたこと(逆に言うと団事務所の存在意義が問われている)、三つには、尼崎公害訴訟やハンセン病訴訟等和解終了後も全面解決のためには行政ら相手方と交渉し続けなければならない事件(その走りはカドミ汚染地の排土客土だったと思う)も急増していることである。しかも、今日の司法改革問題についての意見がなかなかまとまらない(これは、団の取り組みが遅れてきたツケである。今日の司法改革問題はグローバル化の中で政府・財界が提起している一方で日弁連も改革を要求してきた経過もあるし、団としても改革要求すべきだった課題は少なくないと思う)。
私は、団が現在の課題も将来の課題も克服していくものと思うし、そのために力を注ぎたい。司法改革問題については、今の日弁連副会長である藤原団員(今の神戸総合法律事務所所長。堀木訴訟弁護団長。兵庫県弁護士会で無会派であるにもかかわらず、ほぼダブルスコアで圧勝して選出された)や千葉の高橋勲団員らの意見もよく聞いて、団の方針を見さだめて欲しい。
団が人権の旗の下に未来を指し示すとき、団員は大きな力を発揮し未来を切り開くであろう。私は、その活動の中に、目立たなくても居たいと思っている。
私にもっとも名前が知られている軍人は山本五十六である。それは小さい頃に、兄と父に連れられて、三船敏郎演じる映画「山本五十六」を見にいったからである。映画に先立ち、家族に山本五十六のなんたるかを説明を受けた記憶があるが、とにかく、飛行機にのっていて爆撃され、飛行機とともに墜落し死亡していくシーンが私の頭に残っている。映画をおもしろいともおもしろくないとも思わず、ただ、そのシーンだけが鮮明である。
今思えば、そのころ(おそらく小学校低学年であろう)が私の脳に「軍隊」「軍歌」「軍人」という概念が入り込んだころだと思う。祖母は被爆していたから、祖母の昔話を通じて「戦争」「原爆」という概念はもっと前に入っていたように思う。
家には軍歌のLPレコードが一枚だけあって、同じ頃、私は好きでよくかけていた。その中でも落下傘部隊の歌「藍より青く」が好きであった。今思えば、戦争という事柄を離れて空を飛ぶ爽快さが感じられたからであろう。「同期の桜」などは子ども心にも押しつけがましさ、過ぎたまじめさを感じて、好きになれなかった。「海ゆかば」はきれいなメロディーで心魅かれたが、私が「いい曲じゃね。」と言ったら、母が「これは人が戦死しちゃった(広島弁で「した」の尊敬語)ときに流れる歌なんよ。」と私に視線をあわせずにぼそっと言ったので、その曲を好きになるのは母に対してうしろめたい気がした。「海ゆかば」に対する屈折した気持ちは今もそのまま残っている。
私が小学生のころまでは、街の繁華なところには、むしろを敷き、白い軍服、軍帽姿で片足のない人が、お金を入れる容器を前に置いて座っていた。足のないことと、お金を求めることが、私の子ども心に複雑な痛ましさを感じさせ、そういう人にどういう態度を示せば良いのかがわからず心がさざなみたった。一方で、戦争で国のために足を失ったなら国から手当がでているだろうに、あの人たちはもらえないのだろうか、ひょっとしたらあの人たちは傷痍軍人を装っているうそつきなのではないか、と考えたりもした。
小学校低学年のころかと思う。ビアフラの内戦の救援募金のポスターが街に貼ってあった。腕や足は骨と皮だけなのに腹はマラリアで大きくふくらんだ子どもの写真が貼られていた。その写真は衝撃的であった。足をなくした白い服の傷痍軍人さんは私にとって過去の人であったが、「ビアフラ」というところの飢えた子は現実の悲劇として当時の私に迫ってきた。白い傷痍軍人さんにお金をあげたことはなかったと思うが、「ビアフラ」には母に頼んで即座に募金したのを覚えている。
小学校高学年のころか、里中満智子のまんがで、満州で関東軍が自らの利益だけを求め、日本臣民を見捨てて置き去りにする、という背景のものを読んだ。軍隊は国家を守るものであって、国民ひとりひとりを守るものではないのだ、と強く感じたのを覚えている。すでに、引き揚げの苦労話はいろいろな形で私の耳にも入っていたのだろうが、世の中はそんな矛盾がいっぱいなのだと、何となく腑に落ちた。
長じて私が二〇代のころ、四つ上の兄がお見合いをするようになり、見合いの「釣書」の中の一つに、祖父が海軍将校であった人のものがあった。その釣書をみて、「海軍将校なら身元がしっかりしている。」と誰かが感心したように言った。私はそのとき、軍人には身元調査があるのか、と奇異に思った。
その後、私も配偶者を得たが、その人の祖父も陸軍将校で、昭和一九年にニューギニアで戦死していた。祖母が生きていれば「身元がしっかりしている。」と無邪気に喜んだかもしれない。兄が銀行に就職したときも「堅い仕事じゃ。」と古い人らしく喜んでいたから。しかし、夫の祖父は早くに両親をなくし兄弟三人が取り残されたため、進学するには兄弟三人とも公費でいける学校(陸軍士官学校や師範学校など)を選ばざるを得なかったとのことである。生活苦で軍人になる人もいるのだな、とそれまで周囲に職業軍人のいなかった私には不思議な気がした。
その夫の祖父の妻たる陸軍将校未亡人(夫の祖母)は、私が弁護士一年生のころに、年金を月三〇万円くらい得ており、私の給料より多かった。大いなる矛盾と怒りを感じた。戦争で夫に死なれた女は日本中に満ちあふれているのに、私の祖母は戦争で子どもを3人もなくして雀の涙の恩給しかもらっていないのに、私は苦労して司法試験に受かったのに、と。夫の祖父の隊のあった地では、この夫の祖母に対して、将校夫人として敬意を表す人と、敵意を表す人の両方がいるときいた。夫の祖母にはもっといろいろ聞いてみたかったがすでに亡い。
数年前に知覧へ行った。少年がたくさん特攻で死んでいた。彼らは私が弁護士として担当する少年事件の少年たちと同じ年ごろである。
そして最近、東中光雄先生から、丸亀で特攻隊の練習を指揮しておられたころの話を聞いた。その際、石川元也弁護士からは、阿川弘之海軍三部作「山本五十六」「井上成美」「米内光政」を勧められた。さっそく新潮文庫「山本五十六」を購入して読みにかかった。しかし、連合艦隊司令部は昼が洋式のフルコースの正式ディナーで、夜は和食のごちそうと書いてあるのを読んで驚き、早々にうんざりして中断した。そのうち事実認識の助けに読み直そうと思っているが。
こうして数々の印象とともに、私にとって「軍人」は未だ消化不良の概念である。
四万十川の盆
蜻蛉は口の無い動物
そのはかなさは
物を食べないことに縁り
その凄まじさは
生殖のみに生きることに縁る
四万十川の盆
翌日の雨を想わす雲の低い夜
四万十川流域に数千万・数億のヒラタ蜻蛉の羽化がはじまる
数千万・数億の蜻蛉は交尾の相手を求め乱舞し
あまご・はや・オイカワ・フナ・鯉達は水面に跳ねそれを追う
悠久たる自然の営み
人類発生以前より続く生命の祭典
四万十川の河原にキャンプを張る
我々のランタンをめがけ
数千・数万の蜻蛉が飛び交い
灯りの下に死体の山を築く
そして数千・数万の小虫の無意味な死が
人類の驕慢と文明のはかなさを教える
我々は数千・数万の蜻蛉の攻撃に耐えて
地球と人類の不調和を考える
キャンプのランタンは
数千・数万の蜻蛉と
その余の総べての生物の
盆の送り火
この詩は本年八月の盆に三泊四日で四万十川の河原でキャンプをした時作ったものです。
十六年かけて闘った日本で最初の炭坑夫じん肺裁判北松じん肺訴訟は差戻審判決で決着がつきました。
現在「よみがえれ有明海」佐賀県民の会の会長をしています。
ライフワークとして自然保護運動に取り組みたいと考えています。
戦前二四年、戦後五六年の長い年月、激動の中にあって常に民衆のために共に闘い、今日さらに多様な分野の活動を生き生きと続けている「自由」な「法曹」の集団であり、当初から変ることのない名称を掲げて、この団員達の活動の紐帯となってきた自由法曹団という組織は、まさに類い希れなものではないかと思います。
その特質の一端を月例幹事会に見てみましょう。
戦前治維法下の厳しい苦難の時代を耐えてきた先輩達は、敗戦の直後から世にさきがけ国民主権、人権擁護の実現をめざして団の活動を再建しました。たたかいのあるところ遠隔の地も厭わずに赴く激務の傍ら、再建の当初から各地の団員の状況を定例の会議や情報紙に反映させる活動が始められたことはわずかに残る資料からも窺われます。それはまた創立当初からの組織活動の作風でもあったのでしょう。その日常的な運営は、戦後新たに加わった団員と共に多くの団員が執行部を中心に役割を分担して当ってきたのでした。
いま、一九四九年六月から翌年一〇月までの議事録により、この間に一二回開かれた月例幹事会つまり現在の常任幹事会への団員の参加状況を見ますと、毎回平均一三人が出席しています。この頃の団員総数は一二四人とありますから、ほぼ団員一〇人に一人の出席者でした。五〇年の暮れに起きた団解散論を退けた後、一九五一年の団員総数は一〇二人、五三年には約一一〇人になりましたが、五三年中に開催された一二回の幹事会には平均七名の団員が出席しています。ほぼ団員一五人に一人の出席者でした。
もちろん年間では、当時も総会を春(後に五月集会)と秋に開いて方針の討議をしましたし、また幹事会の間には団員による事務局会議や研究会も持っていました。そのなかで相次ぐ弾圧事件など各地で様々な活動に追われる団員にとって、月例の幹事会は日常的に団の在り方を知り、また団員個々の活動を団全体に結びつけるために必要な場であったことでしょう。それは五〇年前も基本的に現在も変わりないといっていいでしょう。
六〇年代以降、団員が飛躍的な増加を見せ、対応する組織体制も事務局長や事務局専従者を置くなど一段と整う一方で、幹事会の役割と規模もいよいよ大きくなります。一九六一年の定例幹事会には毎回平均一二人の団員(当時団員総数一九一人)の出席がありますが、七一年には平均二二人(同、五八一人)、八二年には平均四二人(同、一一五三人)、九一年には平均四八人(同、一四一一人)と出席者数も増加してきました。そして二〇〇一年の現在は毎月の常任幹事会に約五〇人、全団員の約三三人に一人が全国各地から欠かさず出席している状況です。
ここでは幹事会出席者の数だけの変遷を見ましたが、その奥には団員と団との結びつきや団の組織的な活力という優れた特質を見ることができます。さらに、その時々の幹事会にも反映されてきたであろう戦後五十余年に亘る全国の団員の、また団による多彩な活動の実体についても想像を及ぼすことができます。もしその活動の全容を集積して記録することが可能ならば、それこそ他に比類のない独自の戦後史が織り成されているのを見ることになるでしょう。
このようにして自由法曹団は創立の初めから、広範な分野で民衆のため共通の目的のもとにたたかう団員の自律的、先駆的活動を結集するという優れた組織的特質を生かして、戦前戦後を歩み続け、発展してきました。変動極まりない現在、この足跡を顧みながら、今後の課題に対応する新たな発展を切に期待します。
みなさん、たいへんお待たせしました。
団創立八〇周年記念事業として取り組んできた『新・くらしの法律相談ハンドブック』の編集作業も大詰めをむかえ、来月中旬には全面改定の新版として刊行できることになりました。この間、支部・団員のみなさまには大変ご苦労をおかけしたと思います。ありがとうございました。
本書は単なる法のしくみの解説にとどまらず、弱いものの立場でどのように権利を実現しているのかという視点が底流にあり、旧版もとてもわかりやすいとの好評を得てきました。さまざまなたたかいの前進のためにも有用と考えます。
今後の普及ですが、本書が多くの方々に読まれ・活用されることが、自由法曹団への信頼を広げるうえで、たいへん貴重な活動を兼ねるものと考えられます。団員各位の格別のご協力をお願いしたいと思います。
本書の詳しい内容は、団通信本号折り込みのチラシをごらんください。また、別号にて改訂の詳細をご紹介いたします。八〇周年記念事業と団総会でのお披露目も予定しています。
1 普及については、旬報社との間で次の確認をとっています。
(1) 書店での価格は五〇〇〇円(+税)ですが、本書を団員が購入する場合には、「著者価格四二〇〇円(税込み)で購入できます。
(2) 一〇部以上注文する場合には送料サービスとなります。代金の精算は、本書到着日から三ヶ月以内に旬報社宛てにお願いいたします。
(3) 九部以下の注文の場合には、著者価格四二〇〇円(税込み)+送料(一律三八〇円)、代金引換」になります。
2 普及促進のために、次の準備がありますので、ご利用ください。
(1) 普及用チラシや掲示用ポスター等、必要数を旬報社宛てに請求してください。
(2) 支部ニュースや事務所ニュース等で、広告・宣伝が可能であれば、お願いいたします。「広告版下」「本の写真」等は旬報社で用意しています。
(3) 一〇部以上注文の場合には、「無料名入れサービス」が利用できます。記念品や贈答品としてご活用ください。
私はかねてから朝鮮半島の動向に注目し、その時々の情勢に対応して団通信へ小論を投稿してきた。それは、朝鮮半島問題が、わが国の安全にとって極めて重要な関わりがあるからである。ブッシュ政権になって、米国の政策が変わり、そのことが昨年来すすめられてきた朝鮮半島の和解プロセスに重大な障害となってきている。
本年八月一三〜一四日ソウルで「世界平和のための朝鮮半島の和解と統一に関する国際会議」が開催された。一四日には「朝鮮半島の統一と世界平和と正義のためのソウル宣言」が採択され発表された。
この会議は、朝鮮半島の和解と統一が世界平和に重要な関わりがあると位置付けている。朝鮮半島の和解プロセス停滞の原因が、ブッシュ政権の政策に原因があるとし、和解プロセスにも南北首脳や一部の個人の関係だけですすめられてきたという弱点があることを指摘し、この時期こそプロセスを促進するために韓国、アジア・太平洋、北アメリカ、ヨーロッパの市民の力の結集が重要となっていると主張する。
宣言は、米国によるアジアでのユニラテラリズムに反対し、それに代わるものとして、多国間の安全保障システムの創造を提案し、アジア・太平洋の非軍事化を支持している。この構想は、アジア・太平洋において現在の枠組みである、米国との二国間軍事同盟と米軍の前進配備、核の傘に代わる地域的安全保障機構を目指すものであろう。私もかねてより、北東アジア非核地帯を含む北東アジア地域的安全保障機構を、日米安保体制に代わる政策として提案している。宣言はアジア・太平洋地域だけではなく、世界の市民に朝鮮半島の和解と統一を促進させるよう呼びかけている。
日本の平和運動、反核運動には、朝鮮半島の和解と統一問題を戦略的課題として位置付け、アジア・太平洋やその他の国々の市民と連帯した運動が求められている。この会議の宣言と会議に提出されたペーパーは、ノーチラス研究所のホームページから手に入れることができます。http://www.nautilus.org/
宣言は、私がざっと訳したものを以下に掲載します。参考にして下さい。宣言とペーパーの英文テキストは私宛メールを下されば、テキストファイルにしたものをファイル添付で送れます。
メールアドレス aag88050@pop.02.odn.ne.jp
朝鮮半島の統一と世界平和と正義のためのソウル宣言 2001.8.14 韓国 ソウル
我々は、世界平和のための朝鮮半島の和解と統一に関する国際会議(二〇〇一年八月一三〜一四日ソウル)のために参加した、アジア・太平洋地域、ヨーロッパ・北アメリカ地域の市民社会グループや研究者、活動家、ジャーナリスト、国会議員を代表するものである。我々は、朝鮮の和解と統一に関する中心的な問題を議論し、以下の宣言を発表した。
この宣言に署名した市民社会組織と個人として我々は、
1,朝鮮半島の和解と平和、最終的な統一を目指した韓国のイニシャティブを全面的に支持し、
2,二〇〇〇年六月一五日の南北朝鮮の首脳会談と宣言の重要性を確認する。この半世紀以上にわたる朝鮮半島の分断を克服しようとする歴史的努力は、韓国だけでなくアジアと全世界にとって重要な意味がある。この歴史的出来事は、第三国による外部からの干渉がなくとも、アジアは自分自ら問題を解決できることを示しているのである。
3,(我々は)このプロセスがいまや、合衆国の政権交代とブッシュ政権の冷戦時代を引き継いだ政策によって、脱線させられようとする非常に危険な状態にあると認識している。和解に向けた韓国の弱々しい努力は、中小国家が自らの将来を自らの手に取り戻そうとして動くときに直面する大きな障害に直面している。
4,(我々は)そもそも六月一五日宣言の基礎を作った、市民社会運動と人民の熱望を動員して、これらの努力によって始まった弾みを取り戻すという、緊急の必要性を認識している。市民社会の参画は、政府のトップレベルの人士が今日まで大きく促進させてきたプロセスにおいて、決定的に重要である。その上、朝鮮半島の和解への市民社会の参画は、米国の世界軍事戦略でのブッシュ政権のアジア・太平洋地域へのシフトという文脈の中では、更に別の重要さがある。
5,(我々は)ソウルでの第二回朝鮮半島南北サミットに対する障害を取り除くことを支持する。
6,(我々は)アジア・太平洋地域で戦域ミサイル防衛システムを実行しようとする合衆国の政策に反対する。この計画は、北アジアから南アジアにかけて、新たな危険な軍拡競争に火をつけ、この地域の中小国家に直ちに脅威を及ぼすものである。この計画は、朝鮮半島の平和と和解のプロセスを著しく後退させる危険がある。とりわけ北朝鮮は、韓国における米国の軍事的優越性を維持し、中国を封じ込め、地域の自立に向けた大きな歩みを妨げるための、便利な口実として使われてきた。
7,戦域ミサイル防衛は、VFA(Visiting Force Agreement)により(米軍が)フィリピィンへ戻ることを含め、太平洋の島々と東南アジアの基地に対して、軍事的アクセスを拡大しようとする、米国の大きなアジア・太平洋政策の一部である。これらの動きは、沖縄での米軍基地に対する大きくなってきた市民の反対や、米国が押しつけた日本や韓国の不公平な米軍地位協定、フィリピンでの米軍再駐留に対する広範な反対、米国の一国主義的なミサイル防衛計画の遂行に対する全世界の反対という文脈の中で起こっている。西欧諸国が最初にアジアへ入ってきたように、米国の今日の政策は、より公正で民主的で正しい平和の基礎をなす地域の自立を増大させるというよりも、米国と企業の力を支える密接な地域間貿易確保するために、軍事的優越性を利用することを目的としている。
8,(我々は)日本政府が北朝鮮との国交回復に向けて動こうとしないことなど、北朝鮮に対する敵視故に、朝鮮半島の平和的統一の障害物となっている日本政府の政策に反対するが、我々は日本の人民が朝鮮半島の和解と統一を支持していることを歓迎する。
それ故、我々韓国、アジア・太平洋、ヨーロッパ、北アメリカの市民社会の一員は、世界平和のための巨大な運動の不可分の一部として、韓国の和解への努力を再活性化することを決心した。
我々は、スウェーデンの代表の下で行われた最近のEUのイニシャティブを歓迎し、この努力をヨーロッパ内での市民社会の支持を結集して拡大することを誓う。
我々は、朝鮮半島の和解プロセスに対する米国の一国主義的反対を撤回することを要求し、ブッシュ政権に、交渉テーブルにつき、北朝鮮との関係正常化に向けて動くことを要求する。
我々は、朝鮮半島とアジア・太平洋地域の和解と非軍事化を支持するため、アジアの諸政府と市民社会によるより大きな努力を求める。我々は、アジア・太平洋地域での米国の一国主義に代わるものとして、この地域での平和と友好、協力のための多国間紛争解決とその仕組みの創造を支持することを誓う。
我々は、北朝鮮が韓国との和解を目指す上で、妨害物になるのではなく柔軟で、積極的になるよう促進する。
我々は、和解プロセスを下から押し進めようとする韓国の草の根からの運動を支持する。
我々は、国際人権基準に基づき、南北両政府が家族間の訪問や移動その他国境をまたぐコミュニケーションに対する制限や管理を取り除くことを要求する。
いかなる政府の下で採られる関与政策の精神が持続することを支持する。
我々は、DMZ(非武装地帯)に埋設された地雷と、とりわけ米国陸軍によって埋設された人口密集地帯の地雷の緊急廃棄を要求する。
市民社会の運動体や、組織、関心を持つ市民として、我々は、このような闘いを支持する。我々は、まさにグロバライゼイション時代の新しいビジョンと国際連帯再創造を要求していることを理解している。いまこそ時代がそれを求められているのである。
第三回アジア・太平洋法律家会議がベトナム社会主義共和国のハノイ市で開かれます。期間は二〇〇一年一〇月一九日〜二〇日の二日間です。テーマは「グローバリゼイションのもとでのアジア太平洋地域における平和・人権・開発・発展」です。
参加資格はアジア・太平洋地域の法律家個人・団体です。
主催事務局はベトナム法律家協会、国内連絡先は日本国際法律家協会です。団としても、国法協の取り組みに協力していきたいと思います。
第二回COLAPが東京で開かれたのは一九九一年ですから、今回の開催は実に一〇年ぶりです。すでにベトナムを除く各国から一〇〇名を超える参加登録があり、日本からも四五名余りの参加が予定されています。この中には大勢の団員が含まれています。参加者の国名はアジアを中心に一五カ国になろうとしています。独立したばかりの東チモールも参加を検討しているそうです。
九月四日、団はベトナム法律家協会の副会長兼事務局長でコラップIIIの実行委員長でもあるルー・ヴァン・ダット教授及び同協会メンバーのファン・グエン・トアン弁護士の表敬訪問を受けました。お二人はコラップIII成功のために日本国際法律家協会との打ち合わせや東京・名古屋・広島・大阪など各地訪問のために来日しています。ルー・ヴァン・ダット教授からは正式に会議参加への強い要請と財政援助をお願いする話がありました。団の紹介をし、会議テーマについての若干の意見交換をして終わりました。団からは小口事務局長と国際問題委員会・鈴木が応対しました。頂いた、皆さまへのメッセージを掲載させていただきます。
日本からの参加者についてはすでに多くの方が予定されており、飛行機等の関係で余り余裕がないとのことでした。カンパは参加費だけでは賄いきれない会議費の補填と東チモール、ネパールなど参加を希望しながら渡航費もない方への援助等です。日本で二百万円くらいを作らなくてはならないそうです。
グローバリゼイションのすすむなか、発展途上の国々を含めアジアの人々がどのような道をめざすか、平和・人権・発展を中心のテーマとしてこのことを討議することは、いまとても大切なことです。参加される方は勿論、参加されない方も、この意義を自らの課題として把え、”貧者の一灯"をして頂けたらと思います。団からも切にお願いする次第です。
カンパ振込先 郵便振替 00170-1-91322
国際法律家連絡協会
日本の法律家のみなさまへ
謹啓
第二回アジア太平洋法律家会議(COLAPIII)が日本で開催されましてから一〇年がたちました。この一〇年のあいだに、アジア太平洋地域においても、平和、人権、発展の問題をめぐって、多くの事件や問題が生じております。
日本国際法律家協会(JALISA)をはじめ、インド法律家協会(ILA)、パキスタン法律家協会(PLA)、ベトナム法律家協会の創意にもとづき、第三回アジア太平洋法律家会議が本年一〇月一九日から二〇日まで、ハノイ市で開催されるはこびとなりました。
COLAPIIIのテーマは「グローバリゼイションの下でのアジア太平洋地域における、平和、人権、発展」です。
今回のCOLAPIIIは、たいへん重要な討議の機会となります。このアジア太平洋地域における法律家が、法律の観点から、グローバリゼーションを背景とする平和や人権、発展の問題、また新世紀をむかえた人類の問題について、共に分析する場となるからです。
この会議の成功のために、ベトナム法律家協会は、日本の法律家のみなさまに大勢参加していただき、会議のテーマについて意見を述べていただくことをたいへん期待しております。
また、ベトナム法律家協会は、当協会がこの重要な会議を成功に導くために、財政面でも日本の弁護士や法学者の団体、弁護士や学者個人のみなさんから、積極的な援助を賜りたくお願い申し上げます。
ベトナム法律家協会は日本のみなさまにお礼を申し上げるとともに、みなさまがCOLAPIIIに参加され、私たちの国、ベトナムを訪問されることを心から歓迎いたします。
敬具
ベトナム法律家協会副会長兼事務局長、COLAPIII実行委員長
ルー・ヴァン・ダット教授
<COLAPIII開催の経過と意義>
来る一〇月一九日と二〇日にベトナムのハノイで第三回アジア太平洋法律家会議(COLAPIII)が開かれます。
アジア太平洋法律家会議(COLAP)は、第一回が一九八八年にニューデリーで、第二回が一九九一年に東京と大阪で開かれました。第二回に採択されたコミュニケで第三回会議を開くことが約されながら、果たされないまま一〇年が経過しました。この間ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊し、「冷戦終結」後の世界構造がくっきりと姿を現してきました。「グローバリゼイション」と言われる状況がそれです。唯一の超大国アメリカが圧倒的な力を背景に、「市場経済万能」「規制緩和」の旗印の下に、地球上のあらゆる地域に支配を及ぼし、平和・人権・環境の面でさまざまな困難をもたらしつつあります。
アジアではそれぞれの国が経済発展のための道を模索し始めておりますが、アメリカのブッシュ政権はアジア地域を今後の紛争の中心地域と位置づけ、世界戦略の軸をここに置こうとしております。これがアジア地域に緊張をもたらし、またアジア各国の自主的な発展を阻害する要因ともなっております。こうした情勢の中で「グローバリゼイションのもとでのアジア太平洋地域における平和、人権、開発・発展」を基本テーマとして第三回アジア太平洋法律家会議が、アメリカの侵略戦争をはねのけた経験を持つベトナムの地で開かれることは大きな意義があります。現在参加が予定されているのは、一九九九年九月のハノイにおけるCOLAPIII準備会議に参加したベトナム、インド、パキスタン、日本のほかに、韓国、北朝鮮、パレスチナなどで、このほかにもできるだけ多くの国からの参加を実現すべく呼びかけが行われております。
日本国際法律家協会はCLAPIIIのハノイ開催に向けて、ベトナム法律家協会と三年越しの協議を重ねてきた経緯もあり、今回の会議には日本から五〇名近い代表団を派遣することになりました。
九月二日から九日にかけてCOLAPIIIの会議の運営方法などについて具体的な協議をするため、ベトナム法律家協会から事務局長のルー・ヴァン・ダット教授を日本に招きました。その機会に東京だけでなく名古屋、大阪などでも交流の機会が持たれました。
<COLAP?成功のためのカンパのお願い>
今回特にこのCOLAPIIIの成功に向けて皆様方に、以下のような趣旨・目的でカンパのお願いをさせていただきたいと存じます。
こうしたカンパのお願いをすることとなった理由は、開催国であるベトナム法律家協会の財政事情から同協会のみでは会議の設営や運営に必要な資金を一〇〇%は用意することができないからです(ベトナムでは各部門の独立採算制がとられているため、政府からの財政援助も得られないようです)。このため日本の法律家に対しても本会議成功に向けた物心両面の支援を求める要請書が届けられております。会議を成功させるためには開催国協会だけに費用を負担させるのではなく、参加各国やIADL加盟の各国協会で広くカンパを募って開催国協会を援助する体制が求められております。その一環として日本国内でもカンパ活動に取り組むこととなりました。
カンパの使途・目的は以下のとおりです。
第一に、会議成功のためにはできる限り多くの国から法律家が参加することが必要ですが、国によっては経済的な事情から参加したくても参加できないところがあります。そうした国であっても是非とも参加を求めたい国の場合には、渡航費用・滞在費用の一部でも援助できれば会議成功の一助になることは間違いありません。その援助のために必要な資金とします。現在こうした援助を念頭に置いて具体的に参加を呼びかけているのは東チモールとネパールの法律家です。
第二に、会議の設営や運営に要する支出は参加者から集める登録料からまかなわれるわけですが、予測される参加登録料だけでは約八〇〇〇ドル(約一〇〇万円)が不足するとの試算がベトナム法律家協会によりなされております。できるだけ多くの国からの参加を求めるという原則からすると、この登録料(日本その他一人一五〇ドル、発展途上国一人五〇ドル)を引き上げるわけにも参りません。そこでこの不足分を補填する資金とします。
第三に、上記のとおり会議成功に向けた準備のため今回ベトナムからルー・ヴァン・ダット教授を日本に招聘しましたが、これに要した費用(渡航費、国内交通費・滞在費、通訳謝礼などで約七〇万円かかりました)にもあてます。
以上のとおりですので左記の要領でカンパをお願いする次第です。
(日本国際法律家協会・事務局)
記
目標額 二〇〇万円/一口 五〇〇〇円
(できるだけ多くの口数をお願いします)
カンパの締切(目途) 第一次集約は九月末日までですが、それ以後も奮って御協力をお願いします。
振込先 郵便振替 00170-1-91322「国際法律家連絡協会」
エヒメマルという船のことを私が初めて聞いたのは、栃木県那須温泉の情緒溢れる旅館に滞在していた時だった。私は日本人の女性と結婚したばかりで、彼女の家族に会いに行く途中、この温泉に立ち寄ったのだ。温泉にゆったりとつかったあと畳の部屋でくつろいでいると、あわただしい東京の生活からしばし解放された喜びがわいてきた。日本にきて以来、東京の狭いアパートや、JR中央線のラッシュ時の?人間圧縮?などに、まだ私は順応できていなかった。
いかにも家族経営のこんな小さな日本旅館で静かな夜を過ごすことは、日本のもう一つの面ー平和で穏やかな日本の風景や、地元の人々の心温まるもてなしなどーを経験するよい機会なのだ。しかし残念ながら、その平和と静けさは、私が自分自身の禁を破って、部屋の隅にあった小さなテレビのスイッチを入れたとたんに、うちくだかれてしまった。
理解できた日本語はほんの僅かだったけれど、揺れる映像はすべてを語っていた。アメリカの原子力潜水艦が日本の水産高校の実習船「えひめ丸」に激突し、訓練中の高校生を含む乗組員の何人もが行方不明になっていた。震える画面の中では、大波が潜水艦のデッキを洗い、生存者を乗せた救命ボートは潜水艦から数メートル以内のところで浮き沈みしていた。潜水艦のデッキには何人かの乗組員がいたが、信じられないことには、だれ一人として生存者の救出を試みるものは見られなかった。後になって、海が荒れていたため、生存者を潜水艦に乗せることは危険だったと聞かされた。しかし、このクジラのごとき巨大な潜水艦の映像は、あまりに力強く、打ち寄せる波に動じる気配はなかった。それに比べ、うちのめされた人間を満載した救命ボートは、じつにはかなげに波間にもまれていた。私が「えひめ丸」のことを考える時はいつも、この対照的な二つの映像が脳裏によみがえる。
翌日の新聞では、九人が行方不明だと報じていた。日本の船は、米海軍基地からは遠く離れたハワイ沖で通常の実習をしており、最初の説明では米原潜も何らかの軍事「訓練」の途中ということだった。後になってわかったのは、その日の出航は民間人にスリルある航海体験をさせるためだったという。
テレビの続報には、港に戻った生存者や、悲嘆にくれる日本の家族の姿もあった。インタビューにこたえた何人かの生存者は、その受けた深いショックと恐怖を語った。船体の金属が砕けるすさまじい音、船が海面から持ち上げられたかと思うと、一瞬のちには海中にいた自分。「えひめ丸」だったものが、くしゃくしゃの金属の固まりと化し、急速に沈んでいく。友人や同僚の多くは戻ってこない…。海上での普通の生活が、たちまち悪夢と化したのだ。行方不明者の家族や友人の嘆きからも、損失の大きさがうかがわれた。そして、最高の性能を持つ探知装置をそなえた原潜なのに、なぜこのような悲劇が起こったのかという疑問は、何度も何度もなげかけられた。
悲劇の日から数週間がたったころ、アメリカ人のほとんども、エヒメマルについて知ることになった。米海軍の公開査問委員会が開かれ、アメリカのメディアでも大きく報道された。しかしその後はっきりしてきたことは、アメリカ政府や日本政府がこの間腐心してきたことは、事件の全容解明と行方不明者の引き揚げという被害者の要求に応えることよりも、なんとか事件をやり過ごすことだった。解明されない疑問は多く残されたままだ。事件当日、ワドル艦長より上級の海軍担当官は、あのようなディズニーのショー的な航海をする許可を下すことに関与していなかったのか?海軍が機嫌をとろうとした民間人はだれで、なぜ選ばれたのか、その民間人と海軍御用達の軍事産業との関係はどういうものか?このような事故を防ぐための手立てはとられたのか?これらの問題については、アメリカ政府によって公式に検討されてはいない。
四月のはじめ、海軍の査問委員会がまだおこなわれている間に、私は自由法曹団所属の弁護士から一本の電話を受けた。それによると、愛媛県は米海軍と愛媛県側の弁護士、それに被害者が一同に会する会合を宇和島市でひらくという。その会合の目的を聞き、私は正直ショックを受けた。米海軍と愛媛県側の弁護士が、日本の被害家族のために、アメリカの法制度を説明し、どのような法的行動をおこすべきかを助言するというのだ!
もし被害者がアメリカ人だったら、このような会合などは考えられない。アメリカの法のもとでは、米海軍側ないし愛媛県側の弁護士たちは、ともに事故に利害関係をもつそれぞれの政府・行政機関の代理人であり、訴訟となれば被告側代理人である。被害者という将来の原告たちに、?自分たちの依頼人に対してかくかくの法的行動をとるように?などと助言することはありえないのだ。これは明らかに「利益相反」となる。この事件はアメリカ領内で起こっているからアメリカの法律が適用され、訴訟もアメリカでということになる。だからこそ私のショックも大きかった。
その電話の翌日、宇和島市の弁護士事務所の畳部屋で、四〇人以上の被害者家族と相対している自分がいた。昨夜の電話で意を決した私は、那須の旅館のテレビで見た人々、画面を通じて絶望と悲しみを分け合った人々に会いに来たのだった。集まったそれぞれの顔からは、深い悲しみと混乱、そして痛みが、もはや彼らの日常となっていることがうかがわれた。ほとんどの人たちは仕事場からすぐにきてくれたようで、その出で立ちや仕事で日焼けした顔、荒れた手などから、ごく普通の働く人々であることがわかった。最初は、私や東京からきた弁護士たちには椅子が勧められた。しかし、被害者が畳に座っているのに、こちらが椅子というのは"ピープルズ・ロイヤー"(民衆の弁護士)にはふさわしくない。そして会合が始まったときは、誰もが畳に座っていた。
ここに集まった人々が、日米の法律の違いについて余りよく知らないのは明らかだった。しかもこの事件の加害者は、アメリカ合衆国という世界一の軍事力を誇る強大な政府なのだ。そんな相手にどう立ち向かえばいいのか、自分たちに法的な力があるのかさえ信じられないに違いなかった。日本政府サイドからの圧力もさまざまな形で受けていることを私は報道で知っていた。私は、通訳の時間をもどかしく思いながらも説明した。アメリカの法制度のもとでは、あなたたち被害者は、米海軍に対してこれまで公にされていなかった事実を明らかにさせ、艦長からの答えを引き出し、何故このような悲劇が起こったのかを白日のもとにさらす力をもっているのだ、と。私のこの話が、うちのめされた人々にとって意味のあるものだったかは自分ではわからない。わきだす疑問の方が多かったのではないかと思いつつ宇和島を後にしたが、このとき以来、私の中で「エヒメマル」は特別の存在になった。
東京に帰ってから、私は、「The Daily Yomiuri」「The Asahi Shimb-un」などに記事を書き、さきの「利益相反」を説明し、さらに愛媛県側の代理人と被害者の間に存在する根本的な違い―県側代理人の主要な仕事は、県の立場に立って失われた船の補償をどうするかであり、一方被害者がもっとも望んでいるのはただ賠償金を得ることではなく、「なぜこのような事件が起きたか」を知ることであり、二度とこのような事件を起こさないことである―ということを強調した。
その後、宇和島で会った被害家族の一人、寺田亮介さんと「国際フォーラム イン 東京」という集会会場で再会した。寺田さんは行方不明になった宇和島水産高校生・寺田祐介さんの父親だ。私たちは言葉の壁をのりこえて気持ちを伝えあおうとしたが、私の口から出るのは相変わらず「ドモアリガト」くらいなのがじつに悔しかった。けれど寺田さんはそんなことは気にせず、まっすぐに目を見、両手でしっかり私の手を握ってくれた。寺田さんはいま、アメリカでの訴訟も視野に入れ、大きな一歩を踏み出した一人である。
私はいま帰国を目前にしている。アメリカに帰ってからも、この「えひめ丸」事件にはかかわり続けるだろう。日本で過ごした半年余りの日々、日本の美しい風景や文化にふれたことを思い出すとともに、社会変革をめざす多くの日本人に出会えたことを頼もしく思い出すに違いない。私のような小さな存在でも、日本の民主的な変革のためにたたかう人々の役に立てるのなら、それこそが"ピープルズ・ロイヤー"の本望である。
(ウィリアム・ミッチェル法科大学院教授、元一橋大学法学部客員研究員、元早稲田大学比較法研究所客員研究員) 【訳・薄井雅子】
〈民主文学九月号より承認転載〉