<<目次へ 団通信1034号(10月01日)
伊藤 和子 | アメリカの武力報復に反対、日本の参戦に反対ー10月4日法律家緊急デモ、国会要請に参加をー | |
連載八〇周年に寄せて その4 | ||
武田 芳彦 | 思いつくまま | |
松岡 康毅 | 会活動にとけ込んで | |
井上 洋子 | 私と戦争 | |
福井 悦子 | トヨタの自殺過労死事件勝訴判決 | |
米倉 勉 | 全日空機長の過労死労災申請事件 | |
郷田 真樹 | 嵐の(?)女性部総会報告 | |
神田 雅道 | コンビニ問題一一〇番報告 | |
書評 | ||
永尾 廣久 | 「なぜ私はこの仕事を選んだのか」を読んで | |
山本 真一 | 「テロと戦争、国際法ではどう見るか」「国際法から世界を見る」 |
担当事務局次長 伊 藤 和 子
一 アメリカの武力報復に反対声明採択
ご承知の通り、九月一一日のニューヨークとワシントンでの同時多発テロ事件に対し、アメリカは地球規模の報復戦争へと突き進んでいる。小泉内閣はこれに対する支援方針を決め、自衛隊の参戦に備えた法整備を今国会で行おうとしている。
九月二一日の憲法問題全国活動者会議、九月二二日開催の常任幹事会では緊急にこの問題に関する議論を煮詰め、常任幹事会で武力報復反対とこれに対する日本の加担・参戦に断固として反対する声明を宇賀神団長名で出すことを決めた。
声明では、まず何より、暴力による報復に断固反対することを確認、また、軍事報復が戦争撲滅の方向で形成されてきた国際法に違反することを強調した。今回のテロはアメリカが強調するような「戦争」ではなく「犯罪」であり、国際犯罪として法により裁かれるべきこと、アメリカの武力行使は全く正当化できないことを指摘した。また、討議では、テロの原因はアメリカの中東政策の誤りや極端な貧富の格差にありその根絶なしにはテロの根本原因は解決しないとの議論も展開され、これも「声明」に反映された。
さらに小泉内閣の対米支援方針が、国際法違反であるとともに憲法九条を踏みにじるものとして断固反対することを確認した。声明は日米両政府、国連などに執行する予定である。
この問題は平和に対する重大な危機であり、自由法曹団が積極的にたたかっていくことが確認された。まず、運動に役立てるため緊急に意見書を作成し、報復戦争が国際法違反であること、日本の対米支援及びそのための自衛隊法改悪、支援新法が憲法九条に違反すること、テロ根絶のために今こそ国際紛争を武力によらずに解決しようとする憲法九条の精神を発揮すべきこと等を明らかにすることを決めた。そして、国会要請、各地での宣伝、学習、デモ、集会等の運動の構築、マスコミ要請を行うことを決めた。
九月二六日には緊急の宣伝物としてビラを作成、必要に応じて全国に発送することになった。是非この緊急ビラを活用され、各地で声をあげていただきたい。
二 法律家デモ、国会要請行動
この件で一〇月四日、法律家デモ・国会要請行動を企画した。団本部、団東京支部のほか、できる限り主催の法律家団体に広げるよう調整中である。正午に東京の弁護士会館前に集合、一二時一〇分に日比谷公園霞門を出発、国会へ向けてのデモをしたあと、自衛隊法改悪・対米支援新法国会要請行動をすることとした。
詳細については具体化され次第適宜ファックス・ニュース等でご連絡するので、多くの団員の参加を是非よろしくお願いします。
長野県支部 武 田 芳 彦
弁護士会と団員
「林百郎さんや木島日出夫さんが国会の議席を取っているのに、お前のところでは、何で(団員が)会長になれないの」ということを顔に似合わず率直に言う団員がいた。この団員は長野で修習をし、団本部や法律扶助協会で要職にあった人である。私は自由法曹団員としてこの地で力を尽くし、それなりに責務を果たしてきたという自負があった。それだけに、この弱点をあからさまに言われると、胸の痛むのを覚えた。私は自分で言うのもなんだが、何でも自分の責任に感ずるタイプだから、これは自分の責任だとその都度唇を噛んできた。そして、団員の比率が三割を越え、団員の国会議員を擁することが逆に会長を生み出せない原因で、これは当県の進歩の証であると強がりを言ってきた。
振り返ると、一九七七年以来支部の団員五人が都合八回に亘って会長選挙に立候補したが、唯一一九八七年度の高野尾三男団員(故人)を除き、二〇票差の壁を破れずにそのまま膠着状態が二〇年も続いた。昨年一〇月、四二年も続いた官僚知事体制を打ち破って田中康夫知事が誕生したけれども、よく似た状況にあった。
四年前に元団員が幅広い支持を得て会長に当選して以来、私を含め三期連続で団員が会長を務めている。雌伏二〇年、弁護士会でやるべき任務をきちんと果たし、幅を広げ選挙を戦い、やっとこさっとここに辿り着いたという思いである。
司法改革の論議の渦巻く中で日弁連理事会の末席にいたが、私は必ず一回の理事会で一つの発言をすることを心がけた(どっかの県の団員の会長は、何度も発言するので煙たがられていた)。全国で司法改革に最も消極的だった県弁護士会を、中の上以上に押し上げたかなと思っている。
意志を持ち続けて粘っていると、とても無理だと思っていたことが実現できる。大学時代にやっていた山登りを五年ほど前から再開した。遠くに高く聳えてとても行けるかなあと思う山も、一歩一歩足を前に出すと、思ったほどたいしたことがなく必ず頂上に到達できる。
この三〇年
ちょうど三〇年前、長野中央法律事務所に入所した。富森啓児さんが衆議院の候補者で、二人の先輩の弁護士がいたけれども、岩崎功団員は独立し、三浦敬明団員は二八才で亡くなって、二年目から私が事務所を背負うことになった。泳げないのに海に放り投げられたようなもので、毎日愚痴を言いながら、溺死だけはしないでやってきた。ひどい時代で、共産党の地方議員や候補者や活動家が都合七人も公選法違反で起訴されて、この弁護で神経性の皮膚病や胃痛になりながらジタバタもがいて戦った。全国初の石綿じん肺訴訟も戦ったし、労働事件もそこそこやったし、一般の刑事事件、民事事件も沢山やった。富森さんの選挙を始め、選挙になると共産党の専従みたいなこともやった。今から考えても無茶苦茶だったなあとつくづくと思う。
八年前に一人で事務所を構えたが、今は自分が仕事をやっている気がする。前は仕事が自分を振り回していた。当時のことを思い出して愚痴ると、事務局は「今あるのは中央法律事務所のお陰です」と諭す。
思い出の団員たち
最近、埼玉支部の大久保和明団員の訃報に接した。彼とは日弁連の活動で一緒だったことがある。私の弁護士会の状況がそんなだったこともあって、へこんでいたときで、あの大きい体と精悍な顔に元気を貰った思いがある。
一期上の三浦敬明団員は机を並べながら一緒に仕事をした仲だったが、天国へ行ってしまった。支部で幹事長と事務局長の間柄で仲の良かった林豊太郎団員が突然過労死してしまった。研修所の同期同クラスだった富山の葦名元夫団員が思いもかけずに亡くなった。やはり同期で顔もよく似ていると言われた福井の吉川嘉和団員が癌と激しく闘って死んだ。若い団員がほんとに早く逝った。いい人ばっかりが早く逝って、どうでもいいのがしっかり残っているような気もする。
これからのこと
篠原幹事長の就任の挨拶にいい言葉が載っていた。「五五才定年制」である。定年になってからあれもこれもやるのではなく、やることを二つ、三つに絞って気楽に活動しようと言うような意味だったと思う。これは自分の考えとぴったり一致したなあと思ったものである。やれることをやれる範囲で、人に頼んだり、助けられたりしながら仕事と活動をしていきたいと思う。
三〇年間、もう嫌になったということはいくつもあったと思うが、団員であることについては、そんなことは少しもなかった。やっぱり元気と勇気がもらえるいい所である。
奈良支部 松 岡 康 毅
団が創立八〇周年を迎えるこの年、私は入団三一年目を迎える。
司法の危機が叫ばれる最中に入団し、五月集会で日弁連総会の開催にこだわる発言をし、上田誠吉元団長から「まだわからんのか!」と一喝されたのが、ついこの間のことに思われる。
あの裁判所を変えてやらねば、という思いを持ち続け、今日にいたっているが、どんなことができたかと考えると内心忸怩たるものがある。
団とのかかわりを大切にし、常に前向きに生きてきたつもりだが、大したことはできていない。若い仲間を団に迎え入れ、楽しくやっていることと、会あげて司法改革の課題に真面目に取り組もうとしている奈良弁護士会の中で、浮き上がることなく、動きの中に身を置けてきたことが成果といえば成果である。
私が出身地に戻った頃、奈良弁護士会は、世代交替が始まろうとしていた時期である。奈良修習から奈良にとどまり、団に加わる会員が生まれる中で団支部は少しずつ活性化し、そのエネルギーが会活動にも反映されてきた。会活動において、団員が貫いてきた活動スタイルは次の三つに要約される。
一つは、会員が、意義はわかるが足が出ない、という課題について、団員がこれを徹底的に支えてきたことである。
二つ目は、正面から議論を求め、引くところは引くということである。
三つ目は、会員と楽しみを共有することである。
こうした姿勢を貫いたS団員は、候補者活動を始めても会員の厚い信頼を保っている。
修習時代から「興業師」を自認していた私は三つ目の活動については、少なからず貢献してきた。夜の仕事が絶えない団員にとって、他の会員と楽しい時間を共有するには、皆の気分とタイミングを測り、計画性を持つ必要がある。かなり前から奈良弁護士会では、各種委員会合同合宿なる企画が続いている。
広く会員に呼びかけ、テーマを絞ることなく酒を飲みながら、その年の重要課題について意見交換を行い、意思統一の基盤作りを行うのである。最近、この企画は、全国の元気な単位会との交流を求める方向に発展しようとしている。
又、私の個人的な企画として、山小屋での合宿がある。二五年前に青法協の仲間から出資を求めて完成した「法曹ヒュッテ天川」と六年前に私が自力で完成したログハウスは、会員、そして修習生との交流に役立っている。風通しのよい議論はまとまりにつながり、まとまりが活力を生む。この雰囲気を感じた修習生が奈良に定着し、会活動の即戦力になるという好循環が生じている。
当然団員も増え、会員の四分の一近くが団員である。
最近、奈良弁護士会では一三〇〇名定員のホールを満員にする集会を相次いで成功させている。団員もさることながら、団外の会員が、自分の家族、近所の人、依頼者へと呼びかける動きを始めると、必ず、集会は成功し、そこに多くの会員と市民との連帯感が広がっている。今年奈良で開催される日弁人権大会は、会活動の飛躍の契機になろうとしている。実行委員長におされた私は、ためらうことなく、「裏方だけに終わらず、全てのシンポに実質的に加わろう。」と呼びかけた。そして現在、会員の圧倒的多数が、裏方業務に責任を持ちつつ、シンポの実行委員やバックアップ委員となり、奈良県下の住民、行政、諸団体と、かつてない規模で接触を深めている。
既に近弁と共催でプレシンポが成功し、本番に向けてたかまりを見せている。
市民と共に歩む弁護士会をめざして、支部の仲間は決意を新たにしている。
大阪支部 井 上 洋 子
私は昭和三六年生まれなので、直接の戦争体験はない。私の感じる戦争はすべて間接的なものである。
小さい頃は戦争など遠い昔のことと思っていた。しかし、生まれてから四〇年経ち、その長さ、短さの印象と比較すると、私が生まれたときから戦争をしていたときまでの一六年をとても短いように感じる。私の生まれる「たった一六年前」まで戦争をしていたのだ。それはほんのちょっと前のことなのだ、と改めて感じるのである。
私の実家は広島市で、父方の祖母、叔母二人が被爆した。
父は兵役に出ており直接の難を逃れたが、戦後すぐに軍を離脱して広島市に戻った際、下痢に苦しめられたと言っていた。残留放射能があふれていたのだろう。雨が降ると、死人の燐が燃えて、人魂があちこちにたったとも言っていた。幼い私は、「骨の燐がもえて人魂になる」という話が不思議で(この説が真実かどうか確認していない)、死んだ金魚やら食べた魚の骨などを土に埋め、如雨露で水をまき、本当に燐が燃えるのかどうか人魂がでるのかどうか夜に実験したりした。
叔母は中学生(旧制)で学徒動員に出ており、爆心地近くで跡形もなく消えた。平和公園脇にある叔母の学校(広島市女)の被爆記念碑にはE=mc2と掘ってある。彼女らが勉強した物理の法則を彼女らは体で味わった。
祖母は風呂場で洗濯をしており、爆風でガラスが割れ、体のあちこちに突き刺さった。頭は血で固まってしまったと言っていた。祖母の額と腕にはなまなましく傷跡が残っており、幼いころの私はときどきおそるおそる傷をさわらせてもらっていた。祖母にはなんの原爆症も出ず、八四歳まで生きた。生来頑健であったのであろう。
もう一人の叔母は国民学校(尋常小学校)二年生で、祖母とともに家にいた。祖母が風呂場で倒れたまま動けないので、祖母は叔母に、他の人と一緒に逃げろと言った。叔母は、祖母にそういわれて一旦家から出て逃げようとしたが、しばらくして家に戻ってきた。叔母は「おかあちゃん、誰も連れて行ってくれてんないよ。」と言ったそうである。新型爆弾の落ちた混乱の中で、誰も他人の子どもに気を遣う余裕はなく、叔母を一緒に連れて逃げてくれる人はいなかったらしい。八歳の叔母の心細さを想像するのはつらい。叔母は、足をやけどしており、そこが腐りウジ虫がわき、一ヶ月くらいして死んだ。二〇歳の父が死体をリヤカーにのせて運び、荼毘に付したのだという。人の体にウジ虫がわくという事実は幼い私には衝撃的であった。今では、蠅にとっては抵抗力、皮膚のなくなったヒトの生体は栄養、温度、湿度のあらゆる面で最適の産卵場所だと推測がつくが。
父のきょうだいの男三人、女三人のうち、女二人がこうして原爆で死んだ。もう一人の叔母は疎開先で終戦を迎えた。伯父は兵役についており戦後復員した。叔父は軍国思想に抗えず、予科練に志願して入隊し、戦死した。結局私に残されたのは伯父一人と叔母一人である。きょうだいの子はいとしい。そのことは自分が甥をもってわかった。叔父、叔母も生きていれば、他の伯父、叔母同様私をかわいがってくれたであろう。叔父、叔母を失って、そして、似たようなことがどこの家にも起きたことに、戦争の膨大なる損失を思う。
【「私と戦争」は自由法曹団大阪支部三五周年記念文集への原稿なので、自由法曹団本部八〇周年記念文集には、戦争に関する続編のつもりで「私と軍人」を書き(前号団通信掲載)、「私と戦争」とともに投稿しました。】
1 去る六月一八日、名古屋地裁で、自殺過労死事件の労災不支給処分を取り消す判決、すなわち過労死事件の勝訴判決を得た。通有性の高い判決と思料されるので、報告させていただきたい。
2 トヨタの非常に優秀な設計技術者であった被災者は昭和六三年八月二六日未明に自宅近くのマンションから身を投げて自殺した。
愛知県有数の進学校から東京工業大学に進み、トヨタの奨学金を得て同大学院を卒業した被災者は、トップの成績でトヨタに入社した。その後も順風満帆で、昭和六二年には係長に昇進した。家庭生活も順調で、中学時代からの恋愛を実らせて結婚した妻との間に三児に恵まれ、昭和六二年にマイホームも建築していた。
その妻が被災者の異常に気づいたのは昭和六三年六月だった。それまで弱音を吐いたことがなかった夫が仕事上の愚痴をこぼしだした。地震があっても平気で眠っていた夫が、不眠を訴えるようになった。「ジャストインタイム」のトヨタでは日程遵守は至上命題であるが、係長の主な任務の一つが自分の属する係の日程管理である。その日程の消化状況に被災者は危機感を抱きだしたのである。
被災者は日程遵守のために必死の努力を続ける。トヨタでは昭和六一年以降、残業規制が厳しくなっていた。残業規制のもとでの日程遵守。それは必然的に労働を過密にした。通常一係一車種なのに、被災者の係は二車種を抱え込んだ。二車種に派生車種も加わる。スポット的な仕事も入る。設計業務というのは知的・創造的業務である。被災者は、夜寝るとき枕元にメモ帳と鉛筆を常備し、夜中に脳裏に浮かんだアイデアをメモに書き付けていた。
寝る間も惜しい、一時間でも多く仕事をしたい、と願う被災者は、七月労働組合の職場委員長に推薦された。職場委員長になれば、組合の仕事に時間をとられる。それが被災者にとっては苦痛であった。昭和六三年七月、被災者はとりわけ多忙であった。七月末から八月はじめ頃、被災者はうつ病を発症したらしい。そのうつ病は八月二一〜二二日頃急激に悪化した。そして、彼は自殺に至ったのである。被災者が死の直前に妻に漏らした言葉は「もうトヨタについていけない。トヨタを辞めたい。」であった。
3 本件の特徴は、被災者には徹夜続きといった異常な長時間労働や、非日常的な出来事はなかったという点である。もう一つの特徴として、仕事以外のストレスも全くといってよいほどなかった。問われていたのは、「世界のトヨタ」の労働の質そのものと言ってよい。
被災者の自殺が、うつ病による希死念慮に基づくものであることは労働基準監督署段階から争いがなかった。問題はうつ病発症の業務起因性であったが、労基署も、労働審査官も労働保険審査会も業務起因性を認めなかった。同じ職場の他の係員・係長に比べ、被災者の労働がとりわけ過重だったとはいえない、よって、うつ病発症は被災者の個体的原因による(内因性うつ病である)、あるいは被災者がストレスに弱かったせいである(ストレス脆弱性)との理由であった。すなわち、異常な長時間労働がなかった、非日常的なできごともなかったが故に業務起因性を認めなかったのである。
断っておくが、トヨタの始業は朝八時半で、被災者は公式残業簿である勤務報告表上、毎日ほぼ午後九時半頃まで残業していた。協約により三〇分未満の残業は切り捨てられているので実際の残業時間はもっと長かったことは間違いない。しかも、コスト削減のための時短(チャレンジ50運動ーコストを半分にするという運動であるであり、本来の時短と目的が異なる)の上でのことであり、労働の質・密度が更に高まった上でのこの労働時間である。外国であれば、間違いなく「異常な長時間労働」である。しかし、トヨタではこれが当たり前であった。他の係長や、係員に比べて異常に長い労働時間や、異常なできごとを認定の要件とされれば、業務外とされざるを得なかった。
4 判決は事実関係で「ジャスト・イン・タイム」「自働化」の生産方式下の設計業務の特殊性ー出図の日程遵守の絶対性ーを認定し、その上で、被災者が担当していた業務が多種多様に渡っていたこと、その中でアジアカーの4×4の開発スケジュールが遅れていたことを認定した。残業規制のもと、労働密度が高まっていたことも詳細に認定した。
その上で、被災者の死亡直前の昭和六三年七月、八月という時期がそれまでに比べ残業時間も格段に多く、日程の遅れを取り戻すために忙しい時期であったことを認定した。
因果関係論については、労災の場合、相当因果関係は不要で共働原因論に立つべきだとする原告側の主張は退け、更に相当因果関係の判断基準としてはストレス脆弱性理論に寄るべきだとしたが、「ストレス脆弱性を誰を基準として判断するか」という点について「業務上の心身的負荷の強度は、同種の労働者を基準にして客観的に判断する必要があるが、企業に雇用される労働者の性格傾向が多様なものであることはいうまでもないところ、前記「被災労働者の損害を填補すると共に、被災労働者及びその遺族の生活を保障する」との労災補償制度の趣旨に鑑みれば、同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者で、業務の軽減措置を受けることなく日常業務を遂行できる健康状態にある者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲内の者)を基準とするのが相当である。」とし、弱者基準説に立つべきだとした。しかも「被災者が通常想定される範囲内にある限り、当該労働者を基準にすればよい。」とした。これは労基署側が主張して平均人基準説を排除し、実質的には原告側が主張した本人基準説に近似するものである。
そして「被災者は模範的で優秀な技術者であったのであるから、その性格傾向は同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲を外れるものではなかった」とした上で、労働密度が高かったことを詳細に認定する一方、うつ病発症前後に、過重な労働や日程の遅れ等のストレスが重なったことを認定し、業務起因性を認めた。
なお、本件が「弱者基準説」に拠ったことについては判決言い渡し時に異例のコメントがついた。電通の最高裁判決の考え方によりつつ、それを更に発展させたとのコメントであった。
5 裁判所が採用した弱者基準説は、よくよく考えてみれば、しごく当然のものである。
生身の労働者にはいろいろな性格・傾向がある。生真面目な者もいれば、そうでない者もいる。理詰めで考える者もいれば、情緒的な者もいる。楽観的な者もいれば、悲観的な者もいる。幅がある。誰が「平均人」と言えるだろうか。具体的な属性を捨象した抽象的「平均人」なんていようはずがない。あるいは、風邪が流行ったとして、実際の発病する者はせいぜい数パーセント、五〇パーセントを超えることなどないが、それでは発病しない者の方が多ければ発病した者は「平均人」ではないのか。それはいかにもおかしいことになる。
結局「平均人基準説」とは、自殺労災に「災害性」を必要とする災害主義の考え方を言い換えたものに過ぎない。労働者及びその遺族の救済のための論理ではなく、切り捨てのための論理である。(「弱者基準」というネーミングは、脆弱なものを救済するという印象を免れず、あまり適切でない気がするが)、「弱者基準説」は生身の労働者には幅があることを認めたもので、「平均人から逸脱していない者」はすべて救済の対象としようとするもので労災補償制度の制度趣旨にかなう基準であると言えよう。
しかしながら、労基署=行政側は明確に平均人基準説に立つ。裁判官会同では平均人基準説に立つか、弱者基準説に立つかで激しい論争があったと聞く。その中で、明確に弱者基準説を採用した裁判所には敬意を表したい。
6 今まで不支給処分の取消訴訟で業務起因性が認められた判例は異常な長時間労働や、非日常的できごとがあったケースが多い。すなわち、平均人基準説でも勝てたケースであったが、自殺過労死事件の多くは、日常的な過重労働のもとで引き起こされており、異常な長時間労働や異常な出来事があるケースの方が少ないだろう。その意味で本件判決の通有性は大きく、その意義は大きい。
また、判決は労働の量だけでなく、質をも評価した。この点も時短が進んでいる作今の自殺過労死事件の参考になろう。
更に、業務上のできごとをばらばらにではなく、総合的に評価した。業務上の出来事というものは、日常的な積み重ねであり、ひとつひとつをとれば小さなできごとであっても、総合すれば大変なストレスとなることが少なくない。労基署側は、あえて種々の出来事をばらばらにして、一つ一つのできごとに点数をつけ評価しようとしたが、判決は労基署側の評価の仕方を明確に退けた。地味な点であるが、このことの意義も大きい。
7 本件判決については、労基署側は既に名古屋高等裁判所に控訴しており、闘いはまだまだ続く。一審判決を後退させることがないよう更にがんばりたい。
(本件は、水野幹男、若松英成、勝田浩司、そして福井の四名で担当しました。控訴審も同じ構成です。)
昨年の九月一一日、名古屋市を中心に台風の影響による集中豪雨があり、大きな水害が起きたことは記憶に新しいことと思う。まさにこの日、豪雨の名古屋空港から佐賀空港に向けて運航中の全日空機(エアバスA320型機)において、機長が小脳出血によって意識を失い、着陸後数日してそのまま亡くなるという事件があった。この機長は倒れる前の数ヶ月間、早朝・深夜を含む九時間以上の長時間勤務が続いており、同型機の機長らの平均的勤務時間よりも二〜三割上回っていた。また日々の勤務の実情は、一日中ほとんど休憩を取ることができない連続した乗務になっており、この日も朝八時四〇分に勤務が開始された後、ほぼ休憩を取らずに四便の連続乗務(到着予定時刻一七時一〇分)を行なった末の発症であった。
また、亡くなった機長はこの日、前述の台風の影響による大雨と強風、気流の乱れを伴う過酷な気象条件の中で、名古屋空港への着陸という非常に困難で緊張を強いられる操縦を行った。そして、続いて佐賀便に乗務し、離陸した後に意識を失ったのであるが、名古屋空港で佐賀便の準備をしている間に、既に症状が現れていた。このような経過から、この小脳出血の発症は過重な勤務による過労死であり、この過重な勤務に加えて、集中豪雨の中での着陸という状況がもたらした強い緊張が直接の引き金になったものと考え、本年七月一二日、労災申請を行った。
この事件を通じて明らかになったのは、パイロットの長時間過密勤務の実態である。パイロットは、その日一日、同じ機体を操縦して各地へのフライトを繰り返すことが普通であるが、特にA320のようにローカル線を中心に運行される機種の場合、一日に三〜四便のフライトは当たり前という状況であり、しかも機体を「無駄なく」運用するため、フライトとフライトの合間は三〇〜四〇分しかないことが多く、その間は様々な準備作業があるので一息入れる暇もない。そして、運航中の休憩はできないから(副操縦士は交代要員ではなく、機体は常に二名のパイロットによって運航される)、その日の勤務が始まると、終わりまで休憩なしで勤務に就いていることになる。しかも仕事の性質上、朝四時前に起きたり、帰宅が深夜一二時を過ぎたりすることも多い。強い緊張と、精神的な疲労を伴う高密度の労働であることを考えると、極めて過酷なものというべきであろう。
私は昨年来、日本航空乗員組合における就業規則の不利益変更の効力を争う事件について、控訴審から弁護団に参加し、過酷な勤務の実態を目の当たりにしてきた。日本航空における就業規則の不利益変更は、主に太平洋路線を典型とする長大路線で、交代要員を乗務させずに連続して一一時間以上もの長時間乗務を強いるもので、これが運航の安全に重大な影響を及ぼすことが明らかにされている。これと同時に、本件のような国内線の連続多数回離着陸・長時間乗務の実情も極めて深刻な状況にあり、このような加重な勤務が労基法の休憩時間保障の適用除外の状況に置かれ、適切な休憩が確保されないままで毎日の運航が行われていることは、重大な問題であると思わざるを得ない。航空界の急速な規制緩和政策が実施された結果、現在の国内各社のパイロットの労働条件の実態は劣悪であり、例えば全日空では、この一年間に六人のパイロットが勤務中ないしフライト先のホテルなどで死亡しており、異常な事態といえる。
このような実態は、パイロット自身にとって健康と生活に直結する重大なものであるが、同時に運航の安全に関わる。今回の件では、機長の操縦不能という緊急事態の中、副操縦士が無事に着陸したが、一つ間違えば事故に直結したであろう。過労死による労災認定を是非勝ち取ると同時に、パイロットの勤務の実態を改善させ、安全運航を実現する契機になってほしいと願っている。
沖縄で、自由法曹団女性部の総会が開かれました。
台風が接近中というあいにくの天候にもかかわらず、北は北海道から南は、九州・沖縄まで、総勢二二名が出席をしました。総会では活発な意見交換がなされ、内容の充実したものになりました。また、沖縄戦や米軍基地問題についての多くのお話をうかがい、非常に勉強にもなった旅でした。
【九月七日】
お昼ころ、嵐模様の那覇空港に到着。名護市市民会館に移動して、沖縄の先生方や、「ちゅらさん」さながらの「沖縄のおばあ」真志喜トミさん、読谷村で「うたごえペンション・まーみなー」を経営されている歌手の会沢芽美さん、高等学校の教諭で反戦地主のお一人でもある大西照雄さんたちからの歓迎をしていただきました。
総会ではまず、各地の報告等がなされた後、出席者が、本日もっとも楽しみにしてきた特別企画「沖縄のおばあたち」に入りました。
「沖縄のおばあ」真志喜さん(「おばあ」と呼ぶには、若々しくてエネルギッシュな方なのですが)の「今以上の贅沢は望まない。自分たちが贅沢をするために、基地や開発と引き替えのお金を受け取りたいとは思わない。」というお話、会沢芽美さんの「読谷村にグリーンベレーの基地ができそうになった。村中の人が、何年間も何年間も二四時間体制で米軍の村への出入りを見張り、いつも皆で座り込みをした。最後は、日本の機動隊が座り込む私たちを引き剥がしにきた。屈強な機動隊の若者が、村の老人を力任せに引き剥がすのを見ながら、日本は、どうして私たちでなく米軍を守るのかと、悔しくて涙が出た」「少女暴行事件では、弱冠八歳の少女が米兵に乱暴をされ、両手で強く草を握りしめ、奥歯がかけるほど口を固く食いしばったまま捨てられていた」などのお話と美しい声でのメッセージソングなどに、強く感動をしました。目を潤ませている出席者も少なくありませんでした。また、芳澤先生の、「沖縄戦についてよく考え、基地と引換でなく、弔いの思いをもって、日本は沖縄の産業の発達等に協力をすべきだ」とのお話も印象的でした。
夜、東海岸にあるカヌチャ・ベイ・リゾートに宿泊し、絶えないお喋りに興じたのでした。
【九月八日】
明け方からの暴風雨に、急遽、総会会場を名護市市民会館からホテルの一室へ変更し、ベットの上や床に座り込んでの総会となりました。とはいえ学校問題、教科書問題、女性部三五周年特別企画などについて白熱した議論が交わされ、特に、教育問題に関しては母親としての生の意見も多く非常に有意義な議論であったと思います。
午後、総会終了頃、「新幹線に二四時間カンヅメにされたこともある」小林弁護士が東京に戻られると同時に台風も去っていきましたが、「川が氾濫している」「道が木で塞がれている」等の事情で、当初予定していたオプショナルツアーは中止となり、それぞれ「中国式整体」「ちょっと寒い海岸で水泳」など、それぞれでリゾート生活を楽しみました。
夜、沖縄通というより、半分沖縄人(うちなんちゅう)の藤原弁護士お勧めの、沖縄料理の食堂へ出向き、おいしくて健康的な沖縄料理の数々を堪能しました。
【九月九日】
朝から快晴で、やっと沖縄らしい青い空・青い海!を目にすることができました。けれども、海の向こうに見えるのは「キャンプシュワブ」であり、目の前に広がる美しい海にも米軍の巨大ヘリポートの建設が計画されているとのことでした。
ホテルを出発後、大西教諭に解説していただきながら、核兵器所蔵との噂もあるという「辺野古弾薬庫」、広大な敷地をもつ「キャンプシュワブ」、「キャンプハンセン」、年少兵が多く、それだけ事件も多いという「金武基地」、巨大な通信傍受施設である「象の檻」、沖縄戦において日本兵が沖縄の人たちに自爆を強要した「ちびちりガマ」などを訪れました。一般国道を横断する数々の戦車通路、一般市民の生活区とフェンス一枚で区切られた場所に並ぶ軍用車、砲弾練習により緑が禿げて形まで変わってしまった山など、とても生々しく、かつ痛々しい光景でした。
以上のように、今回の総会は、現在の沖縄の抱えている問題について触れ、考えさせられる、非常に有意義で貴重な機会であったと思います。総会の内容は担当の先生からの報告をご参照下さい。御協力いただいた沖縄の方々、本当にありがとうございました。
去る九月一一日午後団本部に於いてコンビニ問題一一〇番を実施しました。
台風一五号にめげず、五名の弁護士と協議会から三名の方が参加して全国からの電話を待ちました。全く電話が鳴らず、「やっぱり台風のため店(コンビニ)の点検などで忙しいくて電話してこれないのではないか。」とまったりとした時間を一時間三〇分ほど過ごしました。
「今日は電話はないか。もう終わりにしますか。」などと言う話になり、借りている電話のコードをふと見ると電話線のソケットが差し込まれていないのです。そうです電話は来ていたのですが、線がつながっていなかったのです。もちろん、直に、電話線を完全につなぎました。午後三時になろうとしていました。失敗にめげずに午後五時まで電話をとりました。七件ほど全国各地から問い合わせがありました。
やはり、「売り上げが予測より下がっている。」「競合店を出された。ロイヤリティーが高い。」「借金が増えて続けられないが営業保証金も二一〇〇万円借りているので閉店したくても出来ない。」などとコンビニ問題特有の深刻な相談がありました。
ご承知かと思いますが、千葉ローソンの訴訟では契約締結上の本部側の説明義務違反を理由に加盟店に対する損害賠償義務を認める加盟店勝訴の判決が出ました。引き続きコンビニ問題を各地で取り上げて裁判所の流れを変えていくことが必要だと思います。
そこで、コンビニ問題、特に会計の問題点についての学習会を行いますのでご参加下さい。
記
日 時 一一月二八日(水)午後一時〜四時
場 所 東弁五〇二号室
小池振一郎団員が本を書いた。うらやましいことに岩波書店からの出版だ。受験生仲間で同期生だから、紹介したい。
少年少女向けの本
この本はジュニア新書だから、大学生向けというより中学・高校生向けの本なのだろう。もちろん、小学生や大学生が読んでダメということではない。いろんな職業の人々が登場している。親のあとを継がされた人、アフリカでマングローブを植えている人、世界を冒険旅行している人、それぞれ自分の人生を精一杯生きている様子が伝わってくる。弁護士にしても、人権擁護の担い手として若い世代を魅きつける必要がある。その意味で、子どもをもつ団員にぜひ買って子どもさんたちに読むようにすすめてほしい本だ。将来の進路について悩みはじめている子ども、悩んでいる真っ最中の子どもたちに、いくつか参考になるヒントがきっと見つかると思う。小池さんが書いた章も平易な分かりやすい語り口で弁護士の仕事を紹介し、弁護士について具体的なイメージをもたせてくれている。
団員二世が次々に
私の知る団員がその二世を次々に法曹界にすすませている。篠原義仁幹事長ご自慢の息子さんは京都で修習中だが、親に似ずに無口だという噂を聞いた。福岡修習に今年は広島の佐々木猛也団員の娘さんがやってきた。去年は名古屋の山田幸彦団員の娘さんがいた。自転車で福岡市内をさっそうと走っている姿を何度も見かけた。宮崎の成見団員の娘さんとも福岡で会ったことがある。福岡の吉野高幸団員の息子である吉野隆二郎団員はロースクール問題などで、すでに活躍中だ。
子どもが司法試験の受験生だという団員も少なくない。実は、私の長男もその一人だ。「いやぁ、なかなか受からなくてね・・・」と嘆いている団員が身近に何人かいる。
いずれにしても、司法改革がすすんで弁護士が大量に増員されていくなかで、私たち団員が自分の子どもたちも含めて弁護士の将来展望を明るく語れるようにしたいものだ。自分の息子や娘に、司法改革の取り組みについて胸をはって語り伝えられるよう、お互いにがんばりたいものだ。
楽しい会長の仕事
私が福岡県弁護士会の会長になって早くも五ケ月がたってしまった。毎日、福岡の弁護士会館まで出かけている。司法改革が急ピッチですすんでいるため、それを検討するための受け皿づくり、具体的にはプロジェクト・チームをたちあげるのが最近のおもな仕事だ。意義を説いて人を集める。会長になるということは人事ができるということだ。もちろん独断でやれることではないが、主体的に関与できるという面白さがある。
と言っても楽しいことばかりではない。これまでの積極路線をこころよく思わないグループが流れを転換させると豪語して、早くも次の会長と副会長の人選を画策しはじめている。足もとをすくわれないよう、さらに地道な取り組みと工夫が求められている。
「遠くから、いつもご苦労さんだね」という声がかかる。でも、本人は苦にしないどころか、楽しくて仕方がない。大牟田から福岡までの往復二時間は、誰にも邪魔されない貴重な読書タイムだ。全国の団員のなかで毎日二時間じっくり本を読む時間が確保できている人はどれだけいるだろうか?本当に申し訳ないくらいだ。おかげで快ピッチで本が読める。今年は五六〇冊すでに読破した。たまに面白い本にぶつかるとゾクゾクするほどの快感を覚える。ベトナム戦争について、毛沢東との関わりについて書いた本、アメリカの国内の動きとの関わりで分析した大部な本が最近相次いで出版された。いろいろ知らなかったことを識ると、世の中が眼前に大きく開けた気がする。さっそく私が今執筆中のセツルメントと東大闘争についての本に生かすつもりだ。
こんなに会長って、面白いものです。やめられません。裁判官の買春とか痴漢とか相次いでいるので、あんたもスキャンダルをおこすなよ。これが最近の私に対するあたたかい忠告です。ホント、私も心しています。
小池さんの本もぜひ、買って読んでください。
九月一一日、ニューヨークの世界貿易センタービルを崩壊させ、ワンシトンのペンタゴンを炎上させた同時多発テロ。六〇〇〇人以上の死者を出したとされますが、現在もほとんどの人の行方がはっきりしていません。
ブッシュ大統領はこのテロ行為は「戦争行為だ」として武力による報復の準備を着々と進めています。しかし軍事力による報復は、報復の悪循環を呼ぶだけであり、テロの根絶には役にたたないという声も日増しに大きくなっています。今回のような最悪のテロ行為を根絶させたいというのは世界共通の願いであることははっきりしています。しかしではどうやってそれを実現させるか?テロを根絶させるには、まず今回の犯人を捕らえて裁判にかけ、正当な処罰をうけさせることとともに、そもそもテロを引き起こす根源を明らかにしてその解消に向けての対策をも明らかにすることが不可欠です。これを並行して行わないかぎり、テロの恐怖は解消しません。
「現代国際法」では、このような時には、地球上の全ての国家と市民が「国連」に結集して英知を尽くした対策を取ることを求めています。それが一九一四年の第一次世界大戦以来の悲惨な戦争の歴史の中から人類が学びとった教訓です。しかし今アメリカが取ろうとしている軍事力による報復の路線は、この人類の発展の歴史を再び一九一〇年代に押し戻そうとする動きにほかなりません。私たちはこのような歴史の逆行を絶対にゆるしてはならないと思います。
「国際法から世界を見る」は、今年四月に発刊されました。著者の松井教授は、現在日本の国際法学会の理事長をしていらっしゃいます。一九九九年一〇月から約一年間にわたって行われた「国際法講座」の内容をもとに整理して分かりやすいものにしていただいたものです。「人権や平和の問題について国際連帯の活動をする際の基礎的な知識」を整理したものであると同時に、「市民の視線から国際法を学ぶ」とともに「より平和でよりよい暮らしを実現するために、国際法を活用し国際法に働きかける観点」で書かれています。
現代の国際法はまだ生成発展の途上にある新しい法律の分野です。「不磨の大典」としての国際法典があるわけではありません。各種の国際条約、国際慣行、「法の一般原則」等が国際法の法源とされています。そして松井教授は、現在生きている我々の生活に適用される国際法を、大きく二つに分けて「現代国際法」と「伝統的国際法」に分けて説明しています(第二回・現代国際法はどのような特徴をもっているか)。そして現代国際法(第二次世界大戦以後の国際社会を規律する国際法)の特徴を「武力行使禁止原則の確立」、「人民の自決権の承認と人権の国際的な保護の発達」、「国際社会の一般的利益の出現」といった点に求めています。
我々が、今回の悲惨なテロによってもたらされた「九月一一日以後の世界」を考える時に、これらの点は、全ての法律家や市民の人の「常識」にしておいていただく必要のある事だと思います。この常識の上に立って初めて、今後、人類の発展と未来を切り開くためのテロ対策が考えられるのだと思います。是非、皆さんにお読みいただきたく、ご紹介します。
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