<<目次へ 団通信1044号(1月11日)
中野 直樹 | 自由法曹団と民弁との絆の発展を願って | |
伊賀 興一 | ||
石川 元也 | 日弁連のイタリア保安処分と精神医療調査について | |
野澤 裕昭 | 司法制度改革推進本部に申し入れ | |
馬屋原 潔 | 事務局次長就任のご挨拶 | |
篠原 義仁 | 「水俣病裁判全史」全五巻、刊行される | |
盛岡 暉道 | 緑色韓国連合、クンサン米空軍基地そしてハノイで 「アンニョンハシュムニカ(こんにちは)、韓国米軍基地反対運動」(三) |
東京支部 中 野 直 樹
一 すでに二ヶ月が経過した八〇周年総会に、韓国から唯一の進歩的弁護士団体である民弁(Lawyers for Democratic Society )の事務総長ユン・キウォン氏が来賓挨拶をされた。挨拶の冒頭での「自由法曹団の姿は、私たち民弁の鑑であると感じている」との言葉、最後の「韓国の民弁と日本の自由法曹団は、多様な分野における持続的で実践的な交流を通して、両国の国民の自由と人権保障はもちろん、アジア地域の平和と民主主義の発展に寄与するため、固く手を結んで前進したいと思う」との表明に、仲間としての心が通う思いがした。
総会後、二時間ほど、代表団と懇親をした。団からは、執行部、国際問題、労働問題、市民問題のメンバーをはじめ二〇名近く参加した。
二 懇談の最初に、団側の参加者の韓国事情・民弁に対する知識・認識にかなりの幅があることを少し均す必要があった。幾人かの団員からそれぞれの「通」が披露された。民弁が他国の法律家団体と公式交流したのは団が最初のようだが、ここに至るまでには一〇年近い道程がある。故藤本正団員が中心となって九二年、日韓法律家の交流会が始まった。梓澤和幸団員が、労働者の権利二三〇号「故藤本正弁護士を偲ぶ」にこの交流の紹介と思い出の小文を寄せている。この交流会が数年に一回ずつ開催されるのに加え、公害環境問題、市民オンブズマンなど実践的な個別課題での協力・共同・研究にも発展している。現在団通信では横田訴訟弁護団の盛岡団員が韓国米軍基地反対運動との交流紀行を連載している。
持ち前のおしゃべり術を活用できないせいか外国旅行を敬遠する篠原幹事長も、後の二つの分野で自ら民弁との交流を先駆け実践していることを小声ながらしっかりと主張されていた。
三 韓国にはまだ国家保安法が生きており、「北」を利する行為や不告知が処罰される反共治安法があることをよく認識していなかったのは私だけでなかったようだ。八九年に設立された民弁のメンバーの一〇パーセント近くが学生時代に国家保安法による弾圧を受けた経験をもつそうである。ユン氏は国家保安法違反事件の弁護活動が多いという。民弁の幹部が学生時代に築いたネットワークが二五〇の市民団体から構成される参与連帯の核をつくっている。そしてここが大衆運動の源流地になっている。
民弁は三五四名の会員で、皆若い。幹部も四〇歳くらいである。対する団側とは一世代の差がある。
団の重厚な経験を手にした交流もよいが、三〇歳台の団員が同世代人としてフランクに活動、社会つくり、人生を語り合う交流もよいのではないかと思った。
私は、民弁のなかに日本語ができる方がどのくらいおられるかと尋ねたところ、毛利団員から、相手に頼ってはだめ、まず自分たちが韓国語を学ぶべきだとたしなめられた。そのとおりである。ただ、韓国では、たとえば労働判例などは裁判所が日本の裁判例を重視しているために、日本語を習得する弁護士も多いそうである。民弁にも一〇名近く日本語を使いこなす会員がいるとのことである。
四 昨年七月に団が民弁を公式訪問したときの主テーマは労働問題であった。近く、訪問記が団報として発刊される。そこではグローバリゼイションの荒波が打ち寄せる両国の労働情勢とたたかいの課題が共通のものであることがわかる。
今後二つの法律家団体が、いつ、どのようなテーマで交流し、さらに共同の行動をとる段階に進めることができるか、双方で検討し合うことを約束した。さらに、民弁は毎年五月の最終週の土曜日に定期総会を開催しているとのこと。遠くない時期に団にも招待状が届くのではなかろうか。たたかう二つの弁護士集団が、もっと親しい関係を築き、共同行動を取り組んでいくことは実に楽しみなことである。
総会・懇親会を通じ、東京支部の松浦信平団員が通訳を務められた。
大阪支部 伊 賀 興 一
1 与党案立法化の動き
二〇〇一年六月に起こった池田小事件をきっかけに、「精神障害と犯罪」に関する議論が広がった。現行措置入院制度を変えようとする動きは自民党、与党三党において加速され、同年一〇月三〇日には自民党案が、一一月一二日には与党案が矢継ぎ早に発表された。今、刑事司法と精神医療に重大な変更が持ち込まれる可能性が強まっている。
法案化の動きは速く、法制審議会を経ることなく、一月中には法案化がなされるという情報もあり、次期通常国会には法案として提出されることはほぼ間違いない。
2 与党案の問題性
自民党案、与党案は、基本的には違いはなく、事件を起こした精神障害者が心神喪失、もしくは心神耗弱で不起訴、無罪になった場合、その処遇(専門治療施設への入院)を決定するため、検察官は地裁に設置される判定機関に申し立てることが義務付けられるという、新しい提案を柱にしたものである。
その処遇要件は明らかにされていないが、治療の要否であれば裁判官関与の合理性はない。結局、過去の事件から「将来の危険」を判断し、刑罰とのバランスの上で強制収容期間を決定するという、危険性のゆえに隔離する制度が導入されることとなろう。
退所後の治療確保について、与党案は現在の保護観察所を利用するという。精神医療の最大の課題の一つといわれている治療継続が、これで可能になるのだろうか。
精神障害によって時として起こる不幸な事件は、われわれも遭遇する事実である。その多くの場合、医療の中断・断絶が原因だといわれている。その意味では、こういう不幸な事件を防ぐためには精神医療の改善充実により、治療中断を如何に防ぐか、が最大にしてもっとも効果的な手立てだといわねばならない。社会の安全という面から見ても、保安処分は事件を起こしてからの対策でしかない。
3 かつての保安処分論議との異同
約二〇年前、刑法改正論議の中で提案されていた保安処分については、精神医療の側からも、精神障害者に対する偏見を助長するものでありむしろ、精神医療の改善が先決であり、医療的対応が原則として、大きな反対の声が強く起こり、結局保安処分導入は断念された。
しかし、今次の動きは、「触法精神障害者対策に司法の関与を」との要求が精神医療の側から、特に民間精神病院経営者団体である日精協から強く打ち出されているところに最大の特徴がある。
日精協においては、民間精神病院が現に抱えている処遇困難患者が引き取られる道筋がつくのではないかという期待からこのような動きに出たものと思われる。しかし、今次の与党案では、こうした期待に応える可能性はない。そこが今次の動きを食い止められるとしたらその要素になるのではないだろうか。医療的メルクマールとは言いがたい「触法」という概念で、患者の治療コースを変えることによる弊害と反発は大きい。
4 日弁連における対応
日弁連においては、かつて、保安処分では一回目の事件を防げないこと、精神医療の改善なしに、不幸な事件は防げないこと、事件を起こしたか否かにおいて治療上違いはないこと、この国の裁判官には医療的判断はできず、かえってその治安維持についての異常な責任感(保釈や勾留執行停止における対応で明らか)から見て裁判官関与には賛成できない、との一致点で、精神医療の改善方策を提起し、保安処分の法制化阻止に貢献した。
問題は、「犯罪のない社会」という麻薬のようなささやきに、責任主義の原則の検討や、精神医療の改善自体をすすめることなく、「社会的危険者」として閉じ込める施策を容認する危険であろう。
日弁連においては、現在精神医療と司法にまたがる改善点方策を提言する意見形成がなされている。刑事法制委員会の「精神医療の改善方策と刑事司法の課題」委員会案がそれである。すでに日弁連正副会長会においてこの委員会案を持って与党プロジェクトや日精協との懇談をする事が了解され、切り結びが始まっている(資料は大阪の伊賀まで)。
5 反対の声をあげよう
精神医療と司法の現状には、相当改善すべき問題が放置されたままであることも否定できない。
(1)事件を起こし身体を拘束された精神障害者はほとんど精神医療の援助を受けられないで治療中断を余儀なくされている。
(2)起訴前精神鑑定は、検察官が裁判で責任能力を争われるのを避け、厳格さが欠けるとの指摘もある。
(3)現行措置入院についても、事件情報が提供されず、退院判断においても退院後の治療継続の確保方策が困難である。
(4)そもそも、この国の精神医療の現状は、民間精神病院依存で、入院中心主義をいまだ脱却していないため地域精神医療の大きな障害となっているなど、改善すべき点は多い。
裁判官に対する漠然とした信頼感を掠め取り、精神医療の改善に手をつけないでことを済まそうとする今回の新手の保安処分の法制化に対し、反対の声をあげよう。
大阪支部 石 川 元 也
いま、わが国で、精神医療の分野に裁判所の関与、つまり保安処分類似の制度の導入が声高くとなえられ、〇二年通常国会に法案提出がほぼ確実視されている(伊賀団員報告参照)。その論議の参考のため、日弁連では、〇一・一〇・二八から一一・〇四まで、表記の実態調査団を派遣した。私もその一員として参加した、ほんの感想程度であるが報告することとする。
一〇・二九 法務省矯正局、法務官と精神科医師との懇談
保安処分の要件である(社会的危険性」の判断をめぐる裁判官と精神科医師たちとの意見の異なることが結構あることが分った。裁判官にはどうしても保安上の判断が優先し、それが医師たちの不満のもとだ、予想されたことだったが、われわれの面前で、女性の医師が裁判官出身の法務官とどうどうと渡り合っている。しかし、最後に決めるのは裁判官だからしょうがないと、なかばあきらめ顔だ。
一〇・二九 ローマ市内のレビッピア刑務所
ここは、三年前から、学者の意見を入れて、健常者と精神障害者の受刑者を、混合しての開放処遇だ。二〇〇人対二〇人足らず。労働の義務はなく、施設内は殆んど自由行動。スタッフも医師三五人、警備二二〇人ほかに法務職五四人と恵まれている。それが私服でいるから受刑者と区別もつかない感じだ。ここの精神障害者は、受刑中の発症者で、カウンセリングを中心に治療を進めているが、効果が上がっているとのことだった。治療の一環としての絵画教室を見て四枚の絵を貰ってきた。
一〇・三〇 モテルーポ・フィオレンチーノ司法精神病院 (フィレンツ郊外)
メデイチ家の別荘だったという由緒ある建物を管理棟にしているが、収容施設は重警護そのもの、もともと刑務所を保安処分施設に転用しただけ。重警備で四つの分類に従って、順次治療を行っているというが、各棟に一室の治療室で、警備に囲まれての治療は効果が上がらないと、精神科の医師である所長がこぼす。現在の収容者は定員を超えて二二〇人、医師の数が少なすぎると嘆く。前政権の時、改善策をだした、三〇人程度の収容者、医師を増やし、警備は治療の現場に入らず、遠くからの警備とする、しかし実現しなかった、と。肝腎の退院判断については、監督判事の判断によるのでというだけ。第四分類の退院前の収容者たちには生気もあまり見られなかった。
昨日見た、開放的な刑務所との落差に声も出なかった。
一〇・三一 トリエステ 地域精神保健センター (元サンジョバンニ精神病院のあと)
一一・一 同市内中心部の地域センター
一一・二 同市内の郊外をも管轄する地域センター
トリエステはイタリア随一の精神医療、それも完全開放治療の先進地である。周辺部を含む二六万人の人口に四つの地域センターを配置し、それぞれ六万人の市民の精神医療を担当する。三階建ての建物で、医療、相談、娯楽などをかね、地域住民と共にある。四―五台の自動車も有り、出張も、また緊急入院のためのベッドも各八つはある。一九八七年のバザーリア法で公立の精神病院は廃止された。こうした地域精神医療の充実で、トリエステ県では二三年前、年間一五人はあった精神障害者による事件が其の後の一〇年間で一五人に、そしてこの一〇年間ではわずか四人になった。そのうちの二人はセンターに通っていたが、後の二人はわれわれのネットにかかっておらず残念だ。
保安処分は二回目の事件以降に対応するだけで、初めての事件には対応できない。
精神医療の充実以外ないことが、このトリエステの実績がみごとに証明しているではないか。
一一・二 トリエスト監督裁判所所長、検事正との各別の懇談
ここでも、「社会的危険性」の判断をめぐって、裁判官と精神科医師との見解の相違の事例を聞きただした。
裁判官の判断は、事件の大きさ、本人や家庭の職業、などに関心があり、再犯のおそれに重点が有り、医療上の観点で精神科医師との相違もあるという。
精神医療の充実をこそと提唱する日弁連意見を実証する調査であった。
なお今回の調査では行けなかったが、保安処分がなく、かつ導入のうごきもないフランスでは、セクトゥール制という地域医療が一九七〇年から実施されて効果をあげているということである。「公的援助体系のもとで、その地区の精神科的ニーズのすべてに対応する」もので公立の病院(八一%)への入院、外来、地域医療、福祉のすべて一貫して県の組織で行われており、私立以外はすべて無料であるという。このセクトゥールが人口六〜七万人をカバーしてフランス全土に九五〇設けられているという。これこそが地域医療の充実というものだ。
司法民主化推進本部事務局長 野 澤 裕 昭
団本部、司法民主化推進本部では、司法制度改革推進本部が昨年一二月一日発足したのを受け、二一日、推進本部事務局に対し、同日付けで発表した推進体制の構成や人選、審議の公開などについての団長声明を基に申し入れを行った(推進本部事務局から松永邦男参事官(総務省)、川原隆司参事官補(検察)が対応)。
団としては、二一日時点で日弁連などから伝えられていた推進本部の体制内容が官僚主導が強く、国民に開かれた改革とならない危険があることを指摘し、(1)検討会のテーマ、(2)事務局体制の人選、(3)審議過程への国民の参加、審議の公開の三項目で(1)(2)を抜本的に見直すこと、(3)を徹底することを要求した。特に、検討会のテーマでは当初の八から一〇に増えて多少改善されたとは言え、司法改革の最重要課題である裁判官制度改革は独立の項目になっていないこと、事務局体制(九班体制)については日弁連から二名しか入っておらず「裁判員制度・刑事裁判の迅速化」「公的刑事弁護制度」の担当班は法務省、検察庁、警察庁、裁判所の出身者で占められ、弁護士出身者が一人もいないことを批判し、改善を強く要求した。
これに対し、松永参事官らから、「検討会の構成は変更できない」「検討会のテーマ設定がこうだから審議が先送りされるとかということはない」「事務局は各省庁の利益代表ではない」などと弁明があった。弁護士出身者を増やすことについては身分が特別公務員になることから予算上公務員の定数を増やせないなどとの「予算の制約」を強調していた。また、検討会の審議の公開はできる限り行なうとしつつも傍聴やリアルタイムの公開については委員の了解が必要と消極的な姿勢を示した。ただ、国民の理解と支持なくして司法改革は実現できないことは同参事官らも同意せざるを得ず、可能な限り審議を公開し国民の意見や批判を反映させることの重要性は確認した。
今後の審議については、顧問会議、検討会を早期に発足させ(一二月二八日までに発足済み)、本年三月までに推進計画を決定する、検討会は一斉にスタートするのではなく、体制と準備が整ったところから開始するということであった。懇談の中で、こちらの「官僚主導」との批判について、参事官側が感情的な反発を示す場面もあったが、これも「官僚批判」に対する「免疫」のなさかとも感じた。いずれにしても、一二月二八日に検討会メンバーが正式決定したが、亀井時子団員が司法アクセス検討会に選ばれ、労働弁護団や日弁連役員経験者からも検討会メンバーが選ばれている。検討会の審議の内容がきわめて重要であり、監視批判を強めていく必要がある。
事務局次長 馬 屋 原 潔
一二月の常任幹事会で事務局次長就任が決まりました千葉中央法律事務所の馬屋原潔(うまやはら きよし)と申します。今後ともよろしくお願いします。このように自己紹介に際して苗字や出身について聞かれることが多いので、その点について申し上げます。私自身は千葉出身ですが、父方の祖父が山口出身です(父は福岡出身)。そして現在この苗字が多いのは、山口・広島・岡山方面です。
さて、期は五三期です。登録後二年目に突入したばかりで、まだ弁護士としての経験も団員としての活動の経験も豊富とはいえません。しかしながら、団の総会で、千葉支部から団の事務局次長を出してほしいとの幹事長のお言葉もありましたし、確か小賀坂前事務局次長の退任のお言葉の中だったと思いますが、二年目でも団本部に飛び込んできてほしいとのお話もありましたので、周囲の不安をよそに思い切って団本部に飛び込むことになりました。経験が浅いかわりに、今まで積み上げてきた名声などがあるわけでもなく失うものがありませんので、失敗をおそれず、事務局次長としての仕事に全力を尽くして邁進していきます。
団で担当することになった委員会は沖縄・改憲対策本部、市民問題委員会、ホームページ広報委員会です。いずれも重要な問題が山積しています。諸先輩方のお知恵をお借りしながら、運動を作り上げていき、私なりの貢献をしたいと思っています。
諸先輩方の厳しい指導を受けながら、任期を終える頃には一回りも二回りも成長したいと思っていますので、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
神奈川支部 篠 原 義 仁
□1一九六七年六月一二日、新潟水俣病、六七年九月一日、四日市公害、六八年三月九日、イタイイタイ病。そして六九年六月一日に熊本水俣病が提訴され、世にいう四大公害裁判が出揃った。
これは、戦前、戦後を通じて加害者に果敢に闘いを挑みつつ敗北の歴史を重ねた公害被害者が、勝利の途を歩み出した第一歩として、深く、広く民衆の心に刻みつけられている歴史の一コマとなっている。
六八年四月、私たちは司法修習生となり、各地で公害闘争に触れながら、次いで、六九年七月にイタイイタイ病発生の地・富山で開催された青年法律家協会主催の第一回公害研究集会に大挙して参加した。
私たちの仲間は、青法協に結集して、労働事件、刑事弾圧事件、恵庭・長沼闘争に象徴される憲法と平和の課題にも学びながら、全国共通の取組みとして公害反対運動に参加するなかで団結を強め、弁護士(七〇年四月)となり当然のごとく自由法曹団に入団した。
青法協の会員が修習生の過半数を越え、調子にのった私は、佐々木秀典議長と鷲野忠雄事務局長(当時)の前で、その勢力を誇って「空前絶後」と自賛し、「篠原君、絶後は余計だ」とたしなめられた。
私たちは、この年になりながら、今もって多くの部分が旺盛に活動を展開しているが、まさに「公害の世代」が、そのときもらったエルギーをまだ使い続いているのかもしれない。
□2四大公害裁判は、裁判のレベルではイタイイタイ病訴訟、四日市公害裁判とも早期に結着し、他方、水俣の闘いは長期化した。なかでも熊本水俣病では運動を分断、攪乱する者との闘い、そして何よりも国との壮大な闘いのなかで苦難をしいられた。
その関連で「全史」をふまえて、私の実感をひと言したい。
一次、二次訴訟は被告企業チッソを相手として闘われた。そして、いずれの裁判も原告勝利で終結した。賠償協定もかちとられた。しかし、不知火海全域にわたる、そしてその地域から全国に居住を移した被害者の全面的救済の途は遠かった。
十分、不十分は別として四日市判決(七二年七月二四日)を契機に七三年九月に健康被害補償法が成立し、翌七四年九月一日から大気汚染系被害者の救済は開始された。
水俣病についても行政の責任を明確にして被害者救済制度の確立が強くのぞまれた。そうしたなかで、全国公害弁護団連絡会議(七二年一月結成。初代幹事長近藤忠孝、初代事務局長豊田誠弁護士で、以後、幹事長は板東克彦、木村保男、野呂汎弁護士とつづき、事務局長には七七年三月から私が就任していた。何と、生意気ざかりの三二才)で、豊田弁護士が議論をリードして水俣病国賠訴訟提起の可否の議論が闘われた。私の記憶が定かであれば、その議論は公害弁連として先行し(なお、公害弁連がその議論を深める前提として大阪市大教授宮本憲一編「公害都市・水俣の再生」が基本にあり、関西大学教授沢井裕論文が基礎にあった)、水俣病弁護団(当然、当該弁護団もそのことについて深めた議論をしていた)と今後の方針を真剣に討議しようとその交流をもちかけた。
もちろん公害弁連側は少数で、当該弁護団の意向を尊重する形で企画された。
こうして七九年七月、阿蘇山の会場で拡大水俣病弁護団会議が開催された。公害弁連側からは、豊田さんと私が参加予定だったが、例によって豊田さんは飛行機(?)に遅刻し(あとから考えると同期の千場茂勝さんへの配慮だったのかもしれない)、公害弁連としては私だけの参加となった。学者では関西大学の沢井裕さんが参加し、何とその席に自由法曹団代表として当時幹事長だったでしょうか、四位直毅さんが参加していた(一次訴訟での結審時の岡林辰雄団員の応援弁論以来、水俣弁護団の自由法曹団への信頼が厚かったのでしょう)。
会議では、二次控訴審の取組み、公害病認定闘争、被害者全体への闘いの拡大、ヘドロ除去等の環境復元事業で忙殺されている状況が生々しく報告された。「その上、国賠か」、という雰囲気が私にとっては強く感じられた。そのなかで恐るおそる(沢井さんもそのようだったが)、私もこれは話さなければいけない私の任務と少し思いつめて国賠訴訟の意義と重要性を訴えた。議論のなかで、一次、二次訴訟のような個別救済の裁判の連続では、今の弁護団の子や孫が弁護団体制を組んでも被害者の全面救済は実現するはずはない、法律を作らせ制度的解決を図るしかない、そのためにも国賠訴訟ではないか、という趣旨の生意気な発言をくり返した。
四位さんが、自由法曹団としてどんな発言をしたかは、全く記憶がない。
一方、千場さんの発言は何回か聞き、鮮明に記憶しているものの、わが尊敬する論客馬奈木昭雄さんの当日の「存在」について全くおぼえていない。むしろ、私の記憶では、重要な用事が重なり、欠席したのではなか、とさえ思っている。
ともあれ、議論は深まったものの、「ヨソ者」の参加した拡大弁護団会議では、国賠提訴の結論には至らなかった。
そして、しばらくして、現地の被害者の会、弁護団、支援の討議のなかで国賠提訴が決り、八〇年五月二一日、第三次訴訟は、国をも被告とする国家賠償請求裁判として提訴された。その報告を聞き、なぜかホッとした気持ちになったのを今でも覚えている(七九年一二月には暮れも押し詰まった二九日に、雪のなか新潟に行き、坂東克彦さん、中村洋二郎さんに会い、新潟での国賠訴訟の可能性について議論したのも、この頃のこととして思い出される)。
□3国賠訴訟の提起により、水俣の闘いは大きく局面展開がはかられた。
東京、関西、名古屋への闘いの拡がり(いわゆる「被害の掘り起こし」)、水俣全国連とそこに結集しての闘いはめざましい。
水俣の闘いに励まされて、私たちが関与した大気汚染公害の闘いも大きく発展した。大気の闘いはきわめて強力な全国患者会が中心に座り、千葉、西淀川、川崎、倉敷、尼崎、名古屋(のちに東京も参加)の各地で裁判闘争が追及された。
そして、この大気の闘いをもう一段高めるために、組織的団結と全国的な運動方針の提起、裁判闘争の協力体制の強化をめざして、兄貴分水俣全国連(豊田誠終身事務局長)に学んで大気全国連(ことのなりゆき上、私が事務局長就任)が結成された。水俣全国連の取組みは「全史」に詳しく紹介されているが、私たちがその時々に学んだ闘いが、こうしたひと筋の流れとしてまとめられると先輩弁護団の後輩弁護団への教訓の継承は、今さらながら貴重なものとして実感できる。
それは、私が修習生時代以来関わってきた安中公害弁護団が、大先輩弁護団のイタイイタイ病弁護団に叱咤激励され、導かれて成長していったのと同じように思われる。
さて、私の原稿の目的は、豊田さんに言われ、「水俣病裁判全史」についてコメントし、宣伝しろということにあった。その目的を果たせず紙数を重ね、ついつい思い出ばなし中心となってしまった。
いずれにしても「全史」が全て通読されることはないように思う。イタイイタイ病全史、大阪空港全史、スモン全史など(もれ落ちがあったらすいません)、数多くの総括文書を頂いた。しかし、私として完読したものはない。が、しかし、裁判の促進の工夫をどうするのか、検証はいつの時期に何を目的としてやるのか、鑑定論争にどう対処するのか、などの課題が出たとき、こうした「全史」はきわめて教訓的で、大いに役だった。
水俣全史についていえば、「分裂」「妨害」策動が続くなかで、運動をどう統一的に発展させ闘うのか、原告団、被害者組織の団結と強化をどうはかってゆくのか、国を相手とする裁判闘争にどう勝ってゆくのか、全国展開の取組みをどう構築してゆくのか、という視点からみるときわめて貴重で教訓的である。
九州の、熊本の、その一地方の水俣の闘いが―東京に上京し大行動を組むのも大変な地域の闘いが―どのような道筋をつけて闘われ、解決したのか、大衆的裁判闘争をめざす私たちにとってきわめて興味深い。
豊田さんの要請(命令?)に抗しきれずつづった文章が、要請者の意のとおりになっていないのを気にしつつ、ここらあたりで「むすび」にすることとする。
水俣闘争の関係者の長年にわたる労苦に敬意を表しつつ・・・。闘いの上で、何か困った時にこの「全史」がきっと光り輝くことを祈念して。
東京支部 盛 岡 暉 道
翌朝、即ち三日目(一〇月一〇日)の朝八時頃、みんなでこのモーテルのすぐ隣の大衆食堂で、韓国の人たちが普通に食べる朝食と同じというメニューの食事をとりました。あっさりした幾種類ものキムチが出て、あとは何だったか、もうよくは覚えていませんが、とにかくこれも安くて美味しかった。
それから、車で、同じようにソウルから夜を徹してクンサンに戻って来てくれていた地元の小柄な牧師さん(男性、四〇歳台?)と「クンサン基地の土地を私たちに返せ市民の会」のキム・ミンアさん(女性、二〇歳台?)と途中で合流して、人口二八万人の都市クンサン郊外の黄海の海岸沿いの農漁村地帯にあるクンサン米空軍基地に向かいました。
この基地は、旧日本軍がこのあたりを干拓地にしてその中に飛行場を作っていたものを米軍が接収して、二四〇〇メートルの滑走路(横田基地は四〇〇〇メートル)を持つF一六戦闘機が約六〇機(機数は公表されていない)が配備されている空軍基地で、米軍人は七〇〇人ほど、韓国人基地労働者は二〇〇〇人ほどだそうです。
基地では、米国でのテロ事件とアフガンへの報復作戦の開始で、検問が厳しくなり基地従業員は正規の従業員しか入門を認められず、臨時の従業員は困っているという話でした。
前の日に、グリーンコリアの事務所で、松浦団員が「基地の写真はとっても大丈夫ですか」と質問すると、この四月に資格を取ったばかりのウー・キョンソン弁護士は「よした方がいい」といい、リー事務局長たちは「平気、平気」といっていたそうです。
まもなく基地だというので、私は、韓国の弁護士が一緒についていて、写真などのことで日本から来た者たちに万が一のことがあったらというウー弁護士の忠告もよくわかる気持がしたので、写真をどうしたものか迷っている内に基地正門の前を通り過ぎてしまいました。
原告の大野さんは、横田基地と同じように銃で武装した韓国の警官たちが物々しく警備しているのが見えたと言っていました。
しかし、松浦団員はバッチリとこの正門の写真をとっていて、あとでそれを見ると、丁度沖縄の米軍基地には大きな鳥居が立てられているように、この正門は韓国風の城門を模倣したものになっており、その奥の守衛所らしいところは韓国風の屋根瓦葺きの建物になっていました。米軍の尊大さは、韓国でも日本でも変わるところはありません。
やがて「着いた、着いた」といって車を降りたところは、なんと「クンサン・エアポート」と標識のあるこじんまりした民間空港でした。つまりここは、クンサン米空軍基地の滑走路を韓国側が米軍に賃借料を払って借用している、ソウルへは一日二便程度の民間機用の空港なのでした。
ソウルから徹夜で私たちを車で運んできてくれたリー事務局長とウー弁護士は、最初から、この午前一〇時の便でソウルに戻るということになっていたらしいのです。それにしても、リー事務局長は運転手役だったからわかりますが、ウー弁護士の方は、ただ真夜中に同じモーテルに泊まり一緒に朝食をとるそれだけのために、ニコニコと笑顔を絶やさず私たちについて来てくれていたわけで、私たちはウー弁護士の呆れるばかりのつきあいの良さに、ほとほと感心してしまいました。
搭乗口へ向かったリーさんとウー弁護士と別れた後、また車に乗って、牧師さんとキム・ミンアさんの二人の案内で、左手に基地まで稲田が続き、右手に干潮で海底が現れた干潟の広がる地点まで行き、そこで車から降りて基地のフェンスの方へ伸びている堤防の上を、堂々とカメラを手にしてどんどんと先を歩くキム・ミンアさんの後を、みんなでついて行きました。
途中でキムさんが指さす稲田をみると、はっきりと稲の黒ずんだ部分があります。機体を洗浄した油が基地から流れ込んでいるため稲が汚染されて変色しているのだという説明でした。勿論、この稲は食用にはならず、そのため米軍から極めて低額の補償金が出ているが、その補償金を受けるために農家は敢えてこの食べられない米を作り続けているのだと言っていました。「ひどいなあ」といいながら松浦団員はその様子をしきりに写真にとっていましたが、このあたりからは、私も、遠慮なしにどんどん写真をとりました。
すると、猛烈な爆音とともにF一六が続けざまに三機四機と基地から飛び立ち、海面の上空で旋回したり、大きく両側に別れたり、激しい訓練飛行を始めました。
私たちが、基地のフェンスの所まで来て、堤防から海岸側の方へ下りて、基地の排水溝から油で汚染された排水が、直接、干潟の上に流れ出している様子を見ていたときには、まるでその私たちを狙っているかのようにして、低空をF一六が何度も飛んできました。
松井団員は「嘉手納基地でもこんな低空の飛行はお目にかからなかったよ」と驚いていました。確かに、耳を両手で塞がずにはいられない猛烈な爆音です。それでも、あっと言う間に飛び去るF一六
に向けて、何度かカメラのシャッターを切りましたが、素人の悲しさ、映っていたのはとてもとても小さなF一六の姿ばかりでした。
「クンサン・エアポート」にいる間に、キムさんに「クンサン基地の米軍機の一日の発着回数は」と聞くと、彼女は「午前一〇時から飛び始めて夜は何時でもかまわず飛ぶ。一日に五〇回から二〇〇回くらい」とこともなげに答えましていました。
横田基地では、朝は大体六時から夜は一応一〇時まで、それでも一日平均せいぜい三〇回から四〇回。多くても一二〇回というところなので、私はそれを聞いたときは、正直な話、直ぐには信用できませんでしたが、いや、本当に三〇回ぐらいは、あっという間でした。しかも、横田基地の場合は、旋回訓練やタッチアンドゴーといってもいくらかはコースを守って遠慮気味であるのに、ここのF一六たちときたら全くの縦横無尽、猛烈なスピードで我が物顔に飛び回るのです。
しかし、遠浅の海の方へ広がっている干潟の中には、このF一六たちをまったく気にしないで働いているらしい人々の姿が、ぽつんぽつんと見えます。「あれは何をしてるんですか」と尋ねると、「貝をとっているのです」という答でした。「基地の排水で汚染されているのじゃないですか」といっても「貝はとってはいけないと規制されているのだけれど、生活がありますから」という返事でした。(すでに我国の各地でも上映されているらしい、米軍基地と闘う韓国の住民たちを描いた日本のドキュメンタリー映画「メヒャンニ(梅香里)」を、私も去る一一月一七日に日野市の七生公民館で見ましたが、この射爆場に接する海岸でとれる牡蠣はとても美味しいのだそうです。ということになると、あのクンサン基地の海岸で住民の人たちがとっていたのも「美味しい牡蠣」だったのでしょうか)
とにかく、このクンサン基地のまわりの土地が、基地から垂れ流される排水で汚染され荒廃させられている様は、つい三〇年程前までの横田基地周辺の地域の姿そのままでした。
チョヌン 横田キジコンヘソソンピノサ イムニダ
このクンサン基地のおそらく北西側の海岸沿いの場所に一時間ほどいて、また車に乗り、次は、基地のおそらく北側を回って基地のおそらく東側の方へ向かいました。
私が、こんなに「おそらく」を連発するのは、日本では、米軍基地の周辺を案内するときには、私たちは必ず、視察に来た人たちに米軍基地の中の施設や周辺の様子がわかる、市や町の自治体などが作成しているかなり正確な説明図を配っておくのに、キムさんたちはクンサン基地についてはそのようなものを(まだ)持ちあわせてはいないようで、私たちはクンサン基地の位置と形や内部の施設の配置などがわからないまま行動していたからです。
このように韓国での周辺自治体と米軍基地との関係、住民側の運動体と米軍基地との関係は、反共法のために、日本と比べてまだまだ遙かに厳しいもののようです。
途中、車の右手(おそらく南側)に基地が広がっており、丸い屋根のF一六の格納庫の列や、新しく増やされている最中だという弾薬庫の列が見えてきました。
この新設の弾薬庫が間近に建てられている場所あたりで車を降り、横田基地でいうと、丁度、新横田基地公害訴訟の検証で裁判官たちを立たせた瑞穂町のS建鉄の三階建ての建物のように、基地のフェンスすれすれの位置にある見晴らしのよいコンクリートの三階建ての展望台のようなところに案内されました。
牧師さんの説明では、これは「憩いの場所」で、「区」(?)(町会のような行政の下部組織のようなもの?)が住民の憩いのために建てたもので、例えばあの自衛隊百里基地に立っている平和運動のための基地監視の展望台などのようなものではないということでした。
しかし、それでもこれは、私たちのような米軍基地反対運動の者が住民の人たちと交流するには、とにかく、格好の場所であることには間違いありません。
直ぐそばには、横田基地にもよく姿を現す新型の大型輸送機C一七(これは二四〇〇メートルという短い滑走路でも発着可能)が一機駐機しており、複数の小型ミサイルを同時に発射できるランチャーが二、三台配置されているのも見えます。
ここに、この地域に住む大体二〇歳台から三〇歳台ばかりの主婦らしい女性たちが六、七人で私たちを待っていてくれていました。
もう一二時頃だったと思うのですが、早速、この展望台の二階で立ったままの交流会を始めました。
私は、勿論、松浦団員の韓国語での紹介があった後ですが、ここでも、メモを見ながら、松浦団員に教えてもらったとおり、「アンニョンハセヨ(今日は) チョヌン 横田キジ(基地)コンヘソソン(公害訴訟)ピノサ(弁護士)イムニダ。 クリゴ(そして、また) ウォンゴ(原告)イギド ハムニダ。」と挨拶しました。これを聞いて、女性たちは、特別感心した様子はなく、ただ、にやにやしていました。しかし、まあ、いくらか親しみは増したことは確かなようで、松井団員もあとで「今度来るときは、私も、もっとハングル(正確には韓国語と言わなければならない)を覚えてこよう」といっていました。 (続く)