<<目次へ 団通信1045号(1月21日)


  松村 文夫 山梨・横内過労死事件 労基署長、労災逆転認定
山崎  徹

次長になって少し驚いたこと(年末、年始)

  榎本 信行 韓国で「日本のシンドラー」と呼ばれるわれらの先達ー布施辰治弁護士
木村 晋介 あの論争から九年を経て(1)
小賀坂 徹 今日までそして明日から  極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその3

山梨・横内過労死事件

労基署長、労災逆転認定


長野県支部  松 村 文 夫


一、一九九六年、二六歳の若き工員(プラスチック成型)が急性心不全で亡くなった横内過労死事件において、伊那労基署長が昨年末(一二月二七日)、九九年の業務外決定を取り消して、労災認定する旨を遺族(父親)に連絡してよこした。

 取消判決も経ないで業務外決定を自ら取り消す決定をしたことは、前例がないものと思われる。

二、横内君は、月に三〇〇時間を越える長時間労働を続けていた。このこと自体、労基署長は認めながら、亡くなる直前の土・日曜日休んだことや、軽作業であったことなどを口実に業務上とは認めなかった。

 審査官決定を経て、審査会に再審査請求をするとともに、九九年一〇月、長野地裁に対して取消訴訟を提起した。一一回の弁論を経て、昨年八月には工場の検証をし、本年二月より集中した証人調が行なわれる予定であった。

 昨年一一月、厚生労働省は労災基準を改訂し、労働状況について、それまで死亡前一週間程度しかみなかったのに対して、半年間についてもみるようになった。

 これによって、厚生労働省は一度業務外決定した係争中の事件についても見直し、大阪では一審取消判決があったのに控訴した事件でも決定を取り消した。

 このように、新基準に基いて過去の決定にまで遡って見直すことはこれまでなかったようである。

三、このような成果を勝ち取った要因としては、新基準によって見直されたという面もあるが、私は裁判で追い込んで行ったこともあったと考えている。

 裁判において、過重労働として量的な面については、労基署長の認定事実によっても過重であったことが明らかになったが、質的な面については、プラスチック成型が機械によって自動的に作り上げられるという単純なものではなく、多くの工程を経る神経を使う作業の連続であることを明らかにした(この工程作業自体は被告も認めざるを得なかった)。これを決定的にしたのが検証であった。

 横内君が最も苦労していたものとして、トライ(試作)作業があった。このトライを工場側に対して検証の際に行うことを求めた。ところが、検証の際にトライを九回試みたが、いずれも失敗し、結局はその原因を究明するために、せっかく仕上がったばかりの金型を解体して点検してみなければならなくなってしまった。この経過が全てビデオカメラにおさめられていた。

 被告も工場側も単純作業と繰り返していたが、そこには神経をすり減らすようなトラブルが付きまとっていることが検証ではっきりした。

 私たちは、この勝利の土台をさらに不動のものとするために、集中して行なわれる予定の証人尋問に全力を尽くして臨むことを確認し合ったところであった。

四、この事件は横内君の両親の強固な信念から始まり、山梨で回りまわって、団外の弁護士を通じて山梨県の団員に相談があり、労災申請が取られ、その後、提訴の際に飯島過労自殺訴訟を担当した長野県団員が加わり、県境を越えて力を合わせて闘ってきたものである。

 私は弁護団長になったものの、これまでは労災申請からの蓄積のある山梨県側の貢献度が圧倒的であり、大した貢献ができていなかった。そのため、これから始まる証人調において、トップバッターとして社長に対する反対尋問を買って出て、この正月休みを利用して準備をしようとしているところであった。しかし、その矢先に勝利の報が入り、何となく機先を殺がれたような気がしている。

 プレス工で量産試作に苦労をし、自殺をした飯島事件の裁判の経験がこの事件でも役に立ち、やはり、裁判の成果の蓄積は大きいと感じている。

 なお、今後の予定として、直接雇用の会社は弱小なので、親会社も共同被告とする損害賠償請求事件の提訴を検討している。
弁護団
山梨  小笠原忠彦・東條正人・関本喜文
長野  松村文夫・和田清二・原正治・相馬弘昭


次長になって少し驚いたこと(年末、年始)

事務局次長  山 崎   徹


こんな表題をつけると、前次長よろしく本部事務局をめぐる「ヒューマンドキュメンタリー」が始まるのかと心配される方がおられるかもしれないが、そうではなく、真面目に少し驚いていることを書きます。

 ひとつは、今の政府の憲法解釈のあまりの無節操さです。私が団本部にきてからの最初の仕事は、昨年一一月二○日に国会に提出された国連PKO協力法の「改正」法案に対する団の反対意見書を作ることでした。この法案の提出の動きは、その一週間くらい前から始まり、審理期間は二週間、一二月三日に団の意見書を出したのもつかのま、一二月七日には国会で「改正」案が成立してしまいました。

 その異例のスピードもそうですが、驚くのは政府の憲法解釈の中身です。この「改正」案のポイントは、PKO法成立の際に「凍結」した自衛隊の国連平和維持軍への参加を「解除」したことでした。しかし、PKO法成立時には、政府は「国連平和維持軍は武力行使が想定されるので、そのようなものには自衛隊は参加できない」と答弁していたのです。凍結は憲法九条のもとではやむをえないと政府も考えていたのです。それを今回は、「PKO参加五原則があるから、日本の自衛隊が平和維持軍に参加しても武力行使には至らない」などと、従来の答弁を覆し、強引に法案を通してしまいました。

 さらに予想されることがあります。今度は次の通常国会でPKO参加五原則の「見直し」をするようです。そこでは、自衛隊が武力行使に及ばないために定められた参加五原則のうち、停戦合意の条項や武力行使の条件が変更されるでしょう。そのとき、政府はそれをどう説明するか。おそらく「日本が平和維持軍に参加して国際的に貢献するためには、PKOの参加も国際常識に合わせることが必要だ。そのために五原則を見直すのだから憲法には抵触しない。神学論争はもうやめましょう」とでも言うのでしょう。

 しかし、年末に参加五原則があるから平和維持軍に参加しても大丈夫だといい、年が明けたら平和維持軍に参加するのに五原則は邪魔だと言ってその原則を変更する。政府の憲法解釈がこんな節操のないものでいいはずがありません。しかも、テロ問題のどさくさに紛れているので、そのことはあまり国民に知られない。国民どころか団員にもあまり知られていないのでは・・・。

 もうひとつ、無節操なこと。昨年一二月一○日に、「日本会議」の新しい会長に前最高裁長官(九五年一一月から九七年一○月)の三好達氏が就任したという。

 「日本会議」というのは、前身団体である「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」とが統合してできた統合右翼団体です。設立趣旨において、「伝統に基づく国家理念を構想した新憲法の制定」を提唱し、明確に憲法改正をめざしています。

 「日本会議」のホームページには、「これまでに明治・大正・昭和の元号法制化の実現、昭和天皇在位六○年や陛下ご即位などの皇室のご慶事をお祝いする国民運動、教育の正常化や歴史教科書の編纂事業、終戦五○年に際して戦没者追悼行事やアジア共生の祭典の開催、自衛隊PKO活動への支援、伝統に基づく国家理念を提唱した新憲法の提唱など、二○有余年にわたり正しい日本の進路を求めて力強い国民運動を全国において展開してきた」とあります。そして、そのトップページでは「日本会議新会長に三好達・前最高裁長官がご就任」と大々的にアピールされているのです。同氏の就任の目的が、日本会議を国民的に認知させるため最高裁の権威を借りることにあるのは明白です。三好氏はすでに退官されているので、正面切って、「それはいけないことだ」とは言えないけれど、しかし、「それはないじゃないか」とは言いたい。

 最高裁は、寺西さんの事件のときに何と言っていたか。口を開けば呪文のように裁判官の「公正らしさ」を唱えていたのではなかったか。

 最高裁の「公正らしさ」論に従えば、裁判所を代表するまさに「顔」であった最高裁長官が、退官後とはいえ、特定の政治団体の代表者となることは、当然に裁判所の「公正らしさ」を疑わせることになるでしょう。それはあたかも、事後収賄にも収賄罪が成立するのと同じ論理で。最高裁はそれを自己矛盾と感じないのだろうか・・・。

 次長になって、驚いたことはまだまだたくさんあるけれど、今回はこのあたりにしておきます。


韓国で「日本のシンドラー」と呼ばれる
われらの先達ー布施辰治弁護士 


  東京支部  榎 本 信 行


 布施辰治弁護士といえば、五〇歳代以上の団員なら誰でも知っていると思うが、若い世代にはあまりなじみがないと思う。第二次大戦前のファシズムの荒れ狂う時代、貧しく虐げられた人々のために苦闘し、あげく懲戒になり、弁護士資格を剥奪されながらも、戦後まで信念を貫きとおした戦前派の先達の弁護士である。

 既に団通信には、石川元也弁護士が御紹介しているが、韓国では、この布施弁護士がテレビ番組で、「日本のシンドラー」として放映され、反響をよんだ。実をいうと私も不明にして、その番組を知らなかったが、最近わが友人の大石進君(日本評論社現会長)から「布施先生記念国際学術大会の記録」という冊子を送っていただいて初めて知ったのである。なお、大石氏は布施弁護士のお孫さんである。

 自由法曹団の仲間達は、みな忙しく、自らの先輩達がどんな活動をしてきたかなど、あまり顧みる暇がないようである。しかし、今自分たちが立っている地平がどのように切り開かれてきたかを知らないと本当の深みのある仕事はできない。

 特に、日韓、日朝問題に取り組んでいる人たちにとっては、布施辰治の事跡は重要な参考になると思われる。この冊子は、駐韓日本大使寺田喜介氏の祝辞、森正教授の解説と大石氏の孫としての思い出が、含まれているが、その他は、韓国の方々によって布施弁護士の生涯全般と朝鮮人の弁護活動などが要領よくまとめられている。特に朴烈事件などについては詳しく論じられている。そして、朝鮮人にとって同弁護士がなぜ日本のシンドラーなのかが記されている。


あの論争から九年を経て(1)


   東京支部  木 村 晋 介


 雑誌「世界」に、「平和基本法の提言」と題する論文が多数の進歩的な文化人・学者の連名で掲載されたのは、九三年四月号。この提言が団内外でも大きな反響を呼んだことを記憶されている方は多いと思う。この「提言」の骨子は、必要最小限度の自衛力の保持を承認しつつ、他方でその自衛力を抑制すべき諸原則(徴兵等の禁止、軍縮義務、非同盟、非核三原則、武器禁輸原則、文民統制の強化、など)を内在させた法律を制定し、憲法規範と現実との乖離を埋めながら、平和憲法の精神に即して歪みを徐々に是正していこうというものだった。

 私はこの提言を、護憲論の立場からも十分検討するに値する勇気ある問題提起としてうけとめ、これを評価する立場から団通信、青年法律家、法と民主主義、世界などに一連の論稿を載せて頂いた。その趣旨とするところは、「革新陣営がその長期方針として安保と自衛隊廃棄の立場を堅持する、というのは結構なことである。しかし、その方針と国民意識(私も含む)の間に容易には修復しえない溝があることを素直に認めるのであれば、その長期方針と国民意識との違いを乗り越えた、短期・中期の、多数の国民の共感を得るに足る平和運動の方針が具体化されなければならない。そうであるならば、今日の平和運動に求められているのは、平和基本法の提言と小沢一郎の構想とを単純に同一視する態度をとるのではなく、国民の多数と協働できる、柔軟で発展的な構想をまとめあげる行動提起者としての役割ではないのか。平和基本法の提言が出されたことは、平和運動再構築のチャンスであり、そうした役割を引き出そうとする有力な試みとして評価されるべきである」ということであった。

 しかし、そのときこうした立場を明らかにしたのは、当時の青法協議長であった田島泰彦氏と私ぐらいのものであり、二人は団内外において手厳しい攻撃にさらされることとなった。

 田島氏は青法協誌上で「安保条約(の侵略性)―注筆者―や資本による搾取と抑圧を度外視した人権論は全く役立たず有害である」(以上大久保賢一氏)と頭ごなしに批判され、赤旗紙上では「敗北の憲法論、現実への追随者、屈服者」と糾弾された。そして私の主張は、団通信では「憲法の平和主義を骨抜きにする議論」(同大久保氏)、赤旗紙上では「護憲と改憲の間に中間はない。木村は転落者」と決めつけられるに至った。私がそう批難された最大の理由は、「世界」論文の中で私が「憲法九条二項は、個別的自衛権のための武力保有を禁ずるという限りでは、最高規範としての効力を失っている」としたことにある。

 私は、平和運動の中にも見解の違いは有りうるので、他の見解を批判することは自由だが、問題提起自体を「追随」「屈服」「転落」と直ちに断ずるのは人格的な誹謗であり、大政党の立場として妥当を欠くとの反批判を団通信に寄せたが、掲載を断られ、反論権を大切にする赤旗紙には反論文の掲載を求めたが、これも拒否された。
ところが時代は変わるものである。

 二〇世紀末に開かれた日本共産党の大会では、A「自衛隊が憲法違反であるという認識には変わりはないが」B「自衛隊解消という国民的合意が形成されるまでは、自衛隊に対する防衛出動命令や災害派遣を有効と認める」という趣旨の決議が採択されたというのだ。憲法は最高法規であり、憲法に違反する命令はその効力を認められないことはいうまでもない(憲法九八条)。この大会決定の主旨が右Bにあることが明らかである以上、日本共産党も、自衛隊解消の国民的合意が形成されるまでの予測不能な相当長期の間、自衛隊の合憲性を認め、個別的自衛権と災害出動に関する限り、憲法九条二項の最高法規性を否定したと見るほかはない。

 これは、日本の主要政党の中に自衛隊を実質上憲法違反とする勢力が皆無になったことを意味する。平和運動の戦略にも重大な影響を与える憲法運動史上の大事件といわれなければならないはずだ。

 それにもかかわらず、団総会、団五月集会などの報告を見る限り、この重大な変化のもつ意義について誰一人触れていないのは不思議でならない。とりわけ日本共産党と共に、団内超少数民族であった私をあれほど攻撃した大久保氏(但し、私と大久保氏は仲良しです)をはじめとする諸兄のこの点に関する見解をぜひお聞きしたいものと思う。その中から、真に国民の多数を結集しうる具体的政策として、平和基本法の提言の正しい再評価が行われることを期待したい。もう遅いのかもしれないが(過去の論争経過について資料を希望される方は、当事務所までFAXで要求されたい)。


今日までそして明日から

  極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその3


神奈川支部  小 賀 坂  徹


 前回の最後に「これを書き続けるのだ」と宣言してしまったものの、これを書き続けていくことには若干の躊躇と抵抗がある。前回の「その2」の前の稿には河内謙策団員の「日本の平和活動家への手紙」という格調高い文章が載っていて、その後にこのヨタ話がダラダラ続くのは何とも気恥ずかしい思いがしてしまったからだ。団通信の中でも、中野直樹事務局長がイワナ釣りの話を何回かに渡って書いていたことがあったが、あっちはきらきらした自然の話であるのに対し、こっちはドロドロした酒飲み話だから比較の対象にもならない。ただ、しかし、ここまで書き始めてしまったものだから、何とか続きを書くしかないのかなあ、でも怒られたらやだなあとかくどくど思いながらも、続きを書いてみることにする。

6、鈴木亜英幹事長のこと
世の中に愛すべき人というのはたくさんいるのだろうが、鈴木さん程そう呼ぶのに相応しい人はいないのではないかと思う。もう還暦を超える年齢でありながら、ホントに少年のような人である。三多摩事務所の富永さんが「うちの事務所で一番精神年齢が若いのは鈴木先生」と言っていたが、なるほどそうなのだろうなあと頷いてしまった。但し、富永には「先輩をもっと敬うように」と言っておきたい。

 彼はよく子どものようなイタズラをした。五月集会が終わって一緒に飲んでいるときに、その店のコースターにいたずら書きをして「さて私は誰でしょう」と書いて、そのまま裏に切手を貼って、専従事務局の薄井さん宛に投かんしたこともあった。そういうときの鈴木さんの顔は、実に何ともイタズラ小僧の顔なのである。

 鈴木さんは絵も上手である。会議中、黙って下をむいているなと思ったら、風景のスケッチをしていて、しかもそれが何ともいい感じの絵なのだ。私などは絵心というものがまったくないので、いたく感心してしまうのである。だいたい筆入れの中に何十色もの色鉛筆をしのばせているのは、鈴木さんくらいだろう。ただ、そのことと会議に集中することを両立させるのはさぞかし難しいのだろうなあと思うのだが、そのことはおいておこう。

 鈴木さんは、会議中よく居眠りをしていた。常幹の厳しい議論ももろともせず、実に気持ちよさそうにこっくりを繰り返していた。最初は随分やきもきしたが、今となっては厳しい視線もものともしない強靱な精神力を称えるべきかもしれない。

 鈴木さんが幹事長をしていた二年間は、司法問題について団内で激しい議論が続いていた時期でもあった。毎月の常任幹事会では執行部の姿勢が問われることもしばしばで、幹事長としてさぞかし苦心したものと思う。そんな中で私が大いに感心したのは、五月集会や総会での幹事長報告だった。こうした節目の時期に幹事長としてそれまでの議論を集約し、運動の展望と方針を示すことは並大抵のことではなかったと思うのだが、鈴木さんの報告は実に的確で迫力のあるものだった。本当に頼もしく、さすがと思わせるもので、かなりの時間を割いて原稿を準備したものだと思う。

 鈴木さんと昆虫とのことは、以前私や専従事務局の森脇さんが団通信に詳しく書いたし、ご自身でも「自由と正義」に書かれたりしているので、それを読まれた方も多いと思う。その後も何度かご自宅に招待していただいているが、その度に大きなリビングが進化していくのである。ベランダが整備されたり、暖炉のような薪ストーブが設置されたり、パラソル付のテーブルが出現したりと楽しいことこの上ない。ホントに人が集まる素敵なリビングなのだ。クリスマスの時期には、鈴木さんがサンタクロースの衣装を着て、おまけにトナカイの着ぐるみまで用意してあって、それを着た何人かが子どもたちにプレゼントを配ってくれる。因みに昨年のクリスマスの時には、私の子どもたちに「地動説の話」という絵本を頂いた。ついでに私も本のプレゼントを頂いたのだが、そのタイトルが「正しい生活の仕方」という絵本だったことだけはどうにも納得がいかないのである。

7、自由法曹団スキーまつり
 この命名は長野中央法律事務所の事務局長の栗岩恵一さんによるものである。その命名のセンスはさておき、毎年、栗岩さんを囲んで一緒にスキーをする企画があるのである。栗岩さんは、海和俊宏などと共にワールドカップでヨーロッパを転戦していた当時の我が国のトップスラローマーで、オリンピックの強化指定選手でもあった人である。不幸にして練習中の大怪我で、オリンピックに出場することはなかったのだが、それはそれは本物のスゴイ人なのだ。北野建設の出身だから、今でも上村愛子のほっぺたくらいは撫でたりできる人なのである。そんな人がどのような経緯を辿って長野中央法律事務所に至るのかは興味深い話ではあるが、ここでは省略する。人生の機微を感じたい人は直接栗岩さんに聞いて欲しい。

 という訳だから、栗岩さんのスキーの腕前はもはや私がごちゃごちゃいうこと自体がおこがましいのである。私はこの栗岩さんを師匠としてスキーを教わったのだから、みるみるみるみる上達したことはいうまでもない(ということにしといてくれ)。

 ここには毎年何人もの団員や事務局の面々が集い、楽しい時間を過ごしている。スキーが楽しいのはいうまでもないが、その後、栗岩さんが持ってきてくれる馬刺などをつまみながら一杯やるのも堪えられない。

 ここに毎年参加してるのが、現事務局長の中野さんである。中野さんは石川の寒村の出身だけあって、スキーは抜群に巧い。確かに巧い。巧いよ。でもうるさいのだ。人の滑りを見ながら、あそこのターンはどうだの、やれ雪にのれてないだの、ストックが使えてないだの、事細かに解説してくれるのである。ある時、久しぶりに滑って筋肉痛に苦しんでいると「あれだけ、余分なところに力が入ってれば、筋肉痛にもなるわな。」だってさ。さすがにむっとしましたね。いいじゃないか、人が楽しく滑ってるんだから。ほっといてくれよ。俺には俺の人生があるんだよ。はぁはぁ。城北事務所の菊池さんなんかは、「中野、中野」といいながらストックで雪を突きまくっていた程である。絶対に上達して「中野君、君の滑りもまだまだだね。」といってやるのだ。ねぇ、菊池先生。

 栗岩さんのことを書こうと思ったら、思わず横道にそれてしまった(中野君、君は横道なのだよ)。栗岩さんは、実に穏やかな好人物で、スキー以外でもよく一緒に飲んだ。というもの、栗岩さんと出会ってから、丁度長野家裁で事件が始まって毎月長野に通うことになったからだ。最初の頃は、その日の新幹線で帰ってきていたのだが、ある時「まぁいいじゃないですか」ということになって駅前のホテルに泊まってしまった時から、長野に行くときは栗岩さんと飲んで、泊まって翌朝の新幹線で帰ることが定着してしまった。新幹線に乗ってしまえば二時間足らずで東京に着いてしまうので、朝出ても十分午前中の弁論に間に合うのだ。思えば随分長野中央事務所のボトルも飲ませてもらった。

 栗岩さんは、参議院議員の候補者もしている人なので、この国のスポーツの現状と未来について、サッカーくじについてなどなど、多くのことを話した。妙に気があって(と私は思っているのだけど)会うたびに話がはずんだ。栗岩さんは酔うと飯山弁の「神田川」を歌った。「たーだ、ワレのやさしさがー、おっかながぁったー」という歌で、それを聞いた店のお姉さんが「私も飯山の出身なの。懐かしいわぁ」という話で盛り上がったこともあった。もちろんその時私は置いてきぼりである。

 どういうわけか、私がカラオケの師匠ということになり、一緒によく歌った。「師匠界」の中でも、栗岩さんのスキーの師匠が横綱だとすれば、私のは新弟子検査の前の準備体操みたいなものである。ある時、二人で狩人の「あずさ二号」を歌ったことがあったのだがうまくハモれず(それにしても中年男二人であずさ2号を歌ってるのも、何とも間抜けではあるなあ)、その後栗岩さんから、「狩人は無理でも木こりくらいにはなれるよう努力します」というファックスが届いたりもした。
 今年もまたスキーの季節がやってきた。今から楽しみである。

8、「自由法曹団への招待」の改訂
 「『自由法曹団への招待』もだいぶ古くなったから、今の修習生向けに新しくしてくれないかなあ」
 当時の小部事務局長からの指示はたったこれだけだった。この仕事はホントに迷った。一体何をどうしていいのか、さっぱりイメージが湧かなかったからだ。というのも、現在の自由法曹団を紹介するといった時に、何をどうしていいのかが分からなかったのだ。逆にそこから、団員からアンケートをとったり、座談会をするという発想が生まれてきたのではあるけれど、内実は試行錯誤の連続だった。このあたりの経過は、その当時団通信にも書いたとおりである。

 「自由法曹団への招待」の仕事をすることは、私自身が団の役割や団員の姿を再認識していく過程でもあったので、あらためて団の存在意義のようなものを感じることができた。私が担当ではあったけれど、これができるまではホームページ広報委員会の平さん、松島さん、工藤さんらと議論を重ねてきた。ただ、最後は私がデザイン会社に通ってインクの色、紙の質、表紙のイメージ等を打ち合わせて、かなりワガママを通させてもらった。だから、最初にできあがってきて、まだピリリと音がするような冊子を開いた時は本当に嬉しかった。これができあがってきたのは、二〇〇〇年二月の沖縄名護での常任幹事会の時だったので、その名護の美しい景色と相まって今でも忘れられない思い出である。

 この仕事の中で、一番やっかいな原稿の催促、写真集め、校正では、専従事務局の皆さんの手を大幅に煩わせることになった。「自由法曹団への招待」が、それなりの水準のものにできあがったとすれば、こうした皆さんの功績によるものである。この場を借りてあらためて感謝したいと思う。

 それから二年がたってあらためて見直してみると、さらにリニューアルしてみたいという衝動に駆られる。それだけ、この二年間は激動の時代だったことをしみじみ思う。そして、団はこの激動の時代にくらいついて活動してきたことを思うと、あらためて気持ちが引き締まる感じがする。(つづく)