<<目次へ 団通信1047号(2月11日)


  アフガニスタン調査団報告特集(2)
大久保 賢一

アフガニスタニズムに囚われて

  神田  高 パキスタン訪問記ー"人間の尊厳"の回復を求めてー
仁比 聰平 私がパキスタンに行ったわけ
四位 直毅 凍てつく大地に春のめばえが
鶴見 祐策 裁判所速記官制度に関する 最高裁の新たな動き
盛岡 暉道 緑色韓国連合、クンサン米空軍基地そしてハノイで
「アンニョンハシュムニカ(こんにちは)、韓国米軍基地反対運動」(五)
小賀坂 徹 今日までそして明日から極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその4
後藤 富士子 改革審意見書の法曹一元への射程〜「判事補の他職経験」について
井上 洋子 市民むけのわかりやすい 司法改革のパンフレットができました
前川 司 パンフレット「司法改革 市民のための司法をめざして」のご活用を

アフガニスタニズムに囚われて


埼玉支部  大 久 保 賢 一


 アフガニスタニズムという言葉があるらしい。遠い自分に直接関係のないアフガニスタンの事は考えるが、身近なことには無頓着な姿勢をいうようである。この言葉には、多少なりとも、皮肉が込められているようである。

 今回のパキスタン行きが、このアフガニスタニズムに囚われたものであるかどうかは判らないけれど、私は、なぜか行かなければいけないような気分に囚われていた。

 私は、九月一一日の事件をTV映像で繰り返し見せられながら、「対テロ戦争」を煽るアメリカ政府や千載一遇の機会とばかりに自衛隊の海外派兵を進めようとする日本政府に、そこはかとない不安と怒りを感じていた。テロリズムが許されないことであり、犯罪者が処罰されることは当然である。けれども、このことと「武力行使・戦争」とは別次元の問題であると思われたからである。テロも戦争も個人的な恨みや欲望に基づかない殺人が行われるということでは共通している。しかし、国家意思に基づくかどうかという点では、全く異なるのである。テロは私的グループの犯罪である。戦争・武力行使は国家の行為である。犯罪は、正統性のある権力によって処断できるし、またそうしなければならない。国家の行為は、伝統的な国家主権論によれば、他の権力によって処断することはできない。従ってそこには、剥き出しの暴力での決着が必要となり、より多くの人命と財貨が犠牲となる。人間社会に犯罪対策が必要であるとしても、戦争が如何に凄惨な被害をもたらすかも忘れてはならない。犯罪対策は社会の安全を維持するためである。犯罪対策のために、社会の安全を破壊するとすれば、それは本末転倒であろう。犯罪対処のために、その犯罪以上の被害を社会に与えてはならないことは事柄の性質上当然である(アル・カポネを逮捕するためにシカゴを爆撃するなんて事は、誰も想像しなかっただろう)。

 ところがアメリカは、アフガニスタンに対する軍事行動をためらいもなく開始したのである。アメリカの「自由と正義」を実現するために、アフガニスタンの国土の破壊と(「誤爆」というベールをかぶせながら)人民の殺戮とタリバン政権の転覆にかかったのである。国家の構成要素が、土地と人民と政府であるとすれば、アメリカはアフガニスタンという国家の土台を攻撃したのである。アメリカのこの行動を正当化する法的根拠はない。剥き出しの暴力である。

 私は、テロも含めて犯罪は恐ろしい。けれども、国家の剥き出しの暴力の方が更に恐ろしい。国家の暴力をコントロールする力を構築しない限り、言葉の本来の意味での自由も人権も実現できない。私は、アメリカの「自由と正義」の枠組みの中で生息するのはお断りしたいのだ。

 アフガン難民の子どもたちには笑顔が似合っていたし、大人の男たちには威厳があった。国連職員もNGOの人たちも悩みを持ちながらも誠実であった。パキスタンで会った人たちも、何が問題であるのかをよく理解していた。私がパキスタンにいってアフガン難民の子どもたちにキャラメルを配りたいといったら、何人もの人たちが多額のカンパをしてくれた。私は、こういう人たちを信ずるし、こういう人たちと共生したい。

 アメリカという大樹の陰に隠れながら、人間の生命と尊厳やひたむきな努力や誠意を軽視するようなことは、きっと恥ずかしいことなのだと思う。そんな思いの残るパキスタン行きであった。(二〇〇二・一・三一)


パキスタン訪問記
 ー"人間の尊厳"の回復を求めてー

東京支部  神 田   高


1、現地、難民調査に重点をおいた二班は、一月八日にイスラマバードに着いて、市内訪問先を経て、直ちに南西部バロチスタン州の州都クエッタに向かった。インダス川を越え、やがて一面山岳地帯となるが、飛行機の窓から見える大地は地図の色どおり全面白味がかった茶色である。四年間全く雨が降らなかったという中央アジアを襲った大干ばつの凄まじさが感じられる。飛行約一時間、東京と鹿児島くらいの距離があろうが、クエッタ空港に降りたつと、銃をもった警備兵が出迎え、軍事的な緊張感が漂っていた。真っ黒なブルカを頭からすっぽりかぶった三人の女性の姿はいかにも伝統的なイスラム社会を感じさせた。翌日、新しい(一〇月七日の空爆以降の難民を対象にした)難民キャンプを訪問したが、国境に近づくにつれ、沿道の建物にタリバンの旗が掲げられているのが目立つようになる。これは、北部の都市ペシャワールでは見られなかったものである。タリバンは、古くからの因習を持つイスラム農村社会を政治的基礎にしているとのことだが、マイクロバスの車中からもそれは感じられた。

 地方部族が支配権をもっているチャマンの先の山岳地の麓に、UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)の文字が印字されたテント群(Landikarez)が見えてきた。「クエッタはマイナス二〇度になるぞ」とある団員に脅かされて、スーツケースの半分に防寒用衣類を押し込んできた割には暖かく拍子抜けしていたが、山地からのふきっ晒しの大地に並ぶテント群を見て、厳冬期のここでの生活の厳しさが伝わってきた。

 急遽、一つのテント内に青ビニールが敷かれ、私たちの聴き取り場となった。空爆を逃れてアフガン北部の要衝マザリシャリフから六〇〇キロ以上を二〇〇家族で移動してきた難民の人たちの声を聞き終わって、テント外の女性(戦火を逃れるための長距離の逃避行と寒冷のテント生活の疲れが伺え、四〇代に見える)にインタビューを申し入れる。写真撮影は拒否されたが、彼女の言葉は全く衝撃的だった。「家に帰って、平和に暮らしたい。尊厳(dignity)を取り戻したい。」私たちと同じ人間の心からの叫びだった。この言葉に圧倒された自分の無知さに恥じ入る思いだった。

 キャンプは国連の機関であるUNHCRと共同して、現地NGOが運営に参加している。前日に訪問したガーディアンは、アフガン人を中心にパキスタン人も加わったNGOだが(女性も三分の一いる)、地雷除去の活動とともに、難民キャンプの支援活動もしている。メンバーの話だと、一〇〇〇万個あると言われる地雷除去を少しずつ、少しずつやってきたが、一〇月七日以降の米軍等の空爆で台無しにされ、クラスター爆弾など一層の負の遺産を背負わなければならなくなったそうである。いささか酷な質問だとは思ったが、メンバーはアフガンの将来の夢を語り合うことがあるのか、との質問に真正面から答えてくれた。

 「たまには、夢を語り合おうよ、と言って話し合う。互いの民族が抗争しあうことなく、対等、平等で国造りに参加していけるような、言語、宗教の違いを超え、一つのアフガンをめざす政府をつくりたい。非常な忍耐と努力が必要だが」。この事務局長格のバヤク氏は三四才。祖国への熱い想いを抱く彼らとそれに続く若者たちは、必ずや彼らアフガン人の力でアフガンを復興するだろうと思った。

2、一〇月二七日の八〇年目の団の総会以来、私や調査団員は、アフガン調査のためのパキスタン入りの件に突入することになったが、現地での多くの?友人?(!)との話しあい、聴き取りは、むしろ私たちに勇気を与えてくれるものであった。九・一一テロ、空爆開始、あっという間のテロ対策法成立と続き、米軍の出撃基地である沖縄への観光客の激減など日本の世論にはやや萎縮したムードが流れた。武力によらない平和を追求する日本国憲法の真価が現実の事態の中で問われることになった。しかし、パキスタン行きで確信を持つことができたのは、米軍らの空爆は明らかな戦争犯罪であり、それに加担した日本政府も同罪であり、これを暴露、告発し、日本での戦争体制つくりを断固阻止する闘いを、しなやかに展開すること、それが彼の地の友人らに答える最大の返礼であるとの思いである。


私がパキスタンに行ったわけ


福岡支部  仁 比 聰 平


 団員諸兄の中にも「同志」がおられるのでは?と思いたいが、九月一一日のテロ・一〇月八日の空爆開始以降の情勢は、私の心神を焦燥感であぶり続けてきた。法と理性・国際ルールに基づく平和的解決の道筋を唱えながらも、とりわけ空爆による地雷撤去NGOスタッフの犠牲以降、無辜の市民・こどもたちの殺傷、破壊、クラスター爆弾にデイジーカッター。地上部隊の投入。目の前で次々に生起する「戦争」の現実に、徐々に神経の平衡を奪われていくのを感じていた。

 日本政府とつくられた世論の、戦争への大合唱がこれに拍車をかけた。余りにもバカげた自衛隊機での物資輸送。「調査・研究」で自衛艦、ましてやイージス艦を派遣できるなどと云う強弁。そして「憲法前文と九条の間にはすきまがある」といって強行されたテロ対策特措法・PKO法改悪。有事法制が現実課題にされるに至ってもなお七〇%を超える内閣支持率とは何だ?唯一の被爆国として、憲法九条・平和主義を守り育ててきた筈の日本国民の世論は、一体どこに解体され、武装解除されてしまったのか?

 出国前に訪れた旅行用品ショップの店員から「(パキスタンは)危険度1ですかね」と訊かれたとき、私は答える意欲すら失う絶望感に苛まれた。とんでもない。外務省に云わせれば、首都イスラマバードで3、ペシャワールで4、私たちが先ず訪れようとするクエッタは5。「退避勧告」である。だが、この「危険度」というのは一体なんだろうか。アフガン人やパキスタン人が「危険」なのではない。彼らはマフィアでもやくざでもなく、干ばつ下も、空爆下でも、難民キャンプでも、電気も水道もガスもなかったにしても、そこに現実の生の営みを続ける人々ではないか。

 私は、ドイツのNGO「平和村」とアフガンの子どもたちのことを思い出していた。昨年暮れにTV放映されたので御覧の諸兄もおられると思う。そこでは、アフガンで内戦に巻き込まれ地雷の被害に遭って手足を失うなど、深刻な障害を負った子どもたちが、民族や地域の違いを超えて治療とリハビリのために集まり、諸国の子どもたちと友情を育んでいる。戦乱で帰国便の競争率は厳しい。治療を終えた彼らの中から親元に帰国できる子が発表されたとき、その選に漏れた子ではなく、帰れる子どもたちが突っ伏して泣くのである。各国から集まっている友達ともう会えなくなる。そしてアフガンの友達とは、民族・部族、地域が異なればたとえ同じ国に帰っても、もう絶対に会えないのだ。そんな悲しみで別れを惜しむ涙は、私の胸を引き裂いた。

 そんな人間の現実の営みやその破壊、民衆に寄り添って努力するNG〇や戦乱のない平和なアフガンの復興を願い活動するアフガン人自身の姿。これらを、全く視野の外に置こうとする日本の政権と報道に、私はきっぱりと対決する。そんな政治と報道に混乱させられた世論に、生き生きとした平和への魂を取り戻すために全力を尽くす。その決意を具体的行動で確認するために、私はパキスタンに向かったのだと思う。

 もちろん「戦場」へ向かうのは初めてである。湾岸戦争のときも、コソボ空爆のときも、そういう機会に巡り会わなかった。自衛隊が戦後はじめて参戦した戦場に私も初めて向かう、これも巡り合わせというものではないか。

 パキスタンでの体験は、この私の少々センチで悲壮な「思いこみ」を裏切らなかった。バザールの雑踏はにぎやかであり、子どもたちは人懐っこく、人々の笑顔で心が通う。街には女性の姿こそないが、厳しい自然条件と当地の文化の中で働く人たちの姿がある。生活手段も家族も奪われた難民たちも、怒りの中で復興と参加を熱望している。「この人々と共に歩んでこそ平和を拓くことができるのだ。」私は自分の心がほどけていくのを感じていた。

 イスラマバード空港で帰国便のチケットを眺めて、「ああ、パキスタンと日本はつながっているんだ。」と痛感した。疲れ果てて自宅にたどりつき、暖かい布団に躰を伸ばして隣に眠る子どもたちの寝息を聞いたとき、「今あのテントの子どもたちは、土にまみれた裸足のまま毛布にくるまって寒さに耐えているのだ」と、思わず涙がこぼれた。

 情勢は日々激動している。が、アメリカ覇権主義の先兵となって、この国の基地を拡大強化し、「東アジア拡大共同体」構想をブチあげ、自衛隊海外派遣と有事法制を企図する日本の政治が、アジアの民衆と歴史の本流に逆らうものであることは、余りにも明白である。もしこの日本が、日米同盟のくびきを断ってアジアに顔を向けた国に変わったとしたら。これを「夢」だと笑わう人もいる。だが、夢を現実に変えるのが民主主義と私たちの力ではないか。そのために全力を尽くすことを、私は改めてここに誓いたいと思う。


凍てつく大地に春のめばえが


東京支部  四 位 直 毅


 ブッシュ、小泉らの傍若無人の跳りょうで、一段と厳しい冬である。が、眼を大衆の側に転じると、別の光景が見えてくる。

 元旦。関西のとある駅でキオスク店頭に「非戦」が積まれているのを手にした。坂本龍一監修、六〇余編収録、全四〇一頁、二〇〇二年一月一〇日幻冬社刊。坂本の他、マドンナ、村上龍、オノ・ヨーコ、TAKURO、バーバラ・リー、梁石日らの知名人のみならず無名の人びとをふくめて、九・一一以降の意思表明を中心に「ほとんどお互いに顔を合わせたことのないメンバーたちが、主にEメールだけで編集作業に突入した。」こうして、国境をこえたこのしごとが三ヶ月足らずで、この国の街頭に一冊の本として姿を見せた。

 扉に続く頁には、ニューヨークで凶弾に倒れたジョン・レノン作の歌詞の一節が掲げられている。
      WAR IS OVE
       IF YOU WANT IT
 (NHKテレビのジョン・レノン特集でも、この一節を胸に横書きしたTシャツ着用の若手人気ミュージシャンたちが、この曲やイマジンを合唱していた。)
 この本のあとがきには「人を殺すな」「子どもたちの生きる権利を奪うな」の思いは共有、と書かれている。

 一月半ば。「千と千尋の神隠し」を観た。
 宮崎駿のジブリ作品で今、全国各地で空前の観客を集めている。「天空の城・ラピュタ」や「紅の豚」などの旧作を思わせる映像も散見されるたのしいアニメだが、訴えるテーマはただ一点「愛が人間を救う」ことと命の大切さーつまり人間賛歌だ。

 宮崎はこのテーマをこどもたちへのメッセージとして、制作に渾身の力をこめた。だが、童心は人としての初心でもあり、原点でもある。このメッセージの名宛先はこどものみに限られるものではないと、観て思った。私が繁華街の裏手にあたる小劇場に出かけた日曜日の朝、会館前の行列には親子連れはもとより、若いカップルや年輩者の姿が少なくなかった(私も大学卒業間近の娘と連れ立っていた)。人心の荒廃や干燥などがしきりにいわれる今、このことをどうみるか。

 一月下旬にかけて。最上敏樹著・岩波新書「人道的介入」を読んでいる。著者は国際基督教大学教授で同大学平和研究所長、国際法。

 数々の歴史的事例と国際法理に基づく緻密な検討と論証が展開されている。

 著者はそのうえで、ルイ・パストゥールのいう「相反する二つの法則」のひとつである「襲いかかる災禍から人類を救うことのみを考える、平和と労働と救済の法則である。」の引用に続けて、次のとおり述べている。

 「そこにおける勘所は「救済」であって、懲罰や報復ではない。救済されるべきは「人類」全体であって、一部の国々や人々ではない。またそのための手段は「平和と労働」、すなわち暴力に対置されるものでなくてはならない。それこそが、世界における非人道的なるものを克服するための、変わらぬ要諦なのではないだろうか。」

 そして下旬。帰宅途次に書店で、最新刊の小倉寛太郎著「自然に生きて」新日本出版社刊をさっそく買い求めた。

 ご存じ「沈まぬ太陽」のモデルである著者は、なにげない題名に託した二様の思いと「余裕とユーモアと、ふてぶてしさ」を兼ね具えた生き方を淡々と語っている。そこには、この国とアジア・アフリカと世界の春を招く力は何か、が示唆されている、と私はうけとめた。

 新春。アフガン、パレスチナ、有事立法など、あわただしく緊迫したうごきのなかで、あれこれと思いをかさねた。折も折、これらの光景が昨夏の教科書採択のたたかいとかさなりあって、心の琴線と核心にふれた。

 そういえば、庭の沈丁花の蕾が厳しい寒気にもめげずにだいぶふくらんできた。パンジーも、霜柱と固い土を押しのけてあざやかなはなびらを開きはじめている。


裁判所速記官制度に関する
最高裁の新たな動き


東京支部  鶴 見 祐 策


 昨年一二月、最高裁は従来の頑強な姿勢を変えて速記官がステンチュラを法廷に持ち込むことを認めた。これだけでは何のことかわからない人が多いと思う。速記タイプのことである。もともとはアメリカ製のステノタイプを模して日本タイプ社が製造して最高裁に納入してきものだが、半世紀近くたつのに性能的には目立つ進歩はなかった。相次いだ腱鞘炎の原因と疑われたほどだ。ところが、本家のアメリカではコンピューターを組み込むなど多くの改良がほどこされ、世界各国の言葉に対応するものができた。日本語版も開発されている。それがステンチュラである。先年、速記官の有志が渡米して性能を確かめてきた。使い勝手がよく、疲労度が格段に少ない。アメリカからも社長が来日して最高裁にも出向いたが、こちらは歓迎されなかったらしい。このタイプと速記官が開発した「はやとくん」を組み合わせるとリアルタイムの文字化も夢ではない。法廷の供述が間をおかずに当事者の手元に届くことも可能となる。各地の速記官たちが、これを自費で輸入して実務で使おうとした。これを当局が目の敵とした。ある地裁では裁判官が見とがめて法廷が中断したという。法廷に持ち込んだら処分も辞さない構えだった。しかし優れた機械の使用を排撃する理由はない。理不尽な態度に抗議が集まった。司法総行動でも最高裁に是正を求めた。全司法も団体交渉で取り上げた。その結果、最高裁はステンチュラの性能検査をせざるを得なくなり、ずいぶん時間を要したものの今回の方針変更となったわけである。内情精通者の話では最高裁としては近頃珍しいことだという。速記官の養成中止の理由として機械の安定的供給の困難を挙げていたが、少なくともその論拠が失われたことは確かといえよう。

 今年も速記官の定年退職が相次ぐが、すでに本庁に速記官が皆無という事態も生まれている。東京地裁でさえ医療過誤訴訟でも録音反訳に頼らざるを得なくなっている。記録の客観性と正確性が裁判の公正を保つよりどころであることを思えば、まことに憂慮すべきことと言わねばならない。

 速記官制度を守る会では左記の要領で総会を開くことにしている。作家の佐野洋さんと司法改革審議会委員の吉岡初子さんをお招きして「国民のための司法」に関する講演を予定している。多数の団員の参加を期待したい。

記   
日  時   二月一六日(土)午後一時
場  所   全労連会館(東京お茶の水駅下車徒歩一〇分)
講  演 佐野洋氏 吉岡初子氏 
総会議事 活動報告と方針


緑色韓国連合、クンサン米空軍基地そしてハノイで

「アンニョンハシュムニカ(こんにちは)、
韓国米軍基地反対運動」(五)


東京支部  盛 岡 暉 道


こうして、クンサン基地と闘う人々との現地での交流はすべて終わり、牧師さんと女性のキム・ミンアさんにお別れの挨拶をして、私たちは、午後二時頃、今度はグリーンコリア事務局員のパクさんが運転する例のウー・キョンソン弁護士が彼のボスから借りてくれた外車で、西海岸高速道路を逆にクンサンからソウルへ向けて北上する帰途につきました。
 ところで、昨年一一月一七日付の「しんぶん赤旗」が「在韓米軍二〇基地など返還へ 総面積の五四・三%、交渉開始で合意」と、また同日付の朝日新聞も「在韓米軍基地 過半数を返還へ」と報じ、そのうえ朝日の方は「在韓米軍基地・施設の返還」と題を付けた韓国内の米軍基地の配置図では、このクンサン基地の場所を(基地の名前を書かないで)「返還される主な基地・施設の所在地」だとして示しています。

 しかし、他方、この「しんぶん赤旗」や朝日新聞は、住民の激しい閉鎖運動の続くメヒャンニ基地は返還リストから除外されていること、米軍基地を監視する市民団体からは、今回の返還計画は「重点を陸軍から空軍に移した改編で、むしろ基地の強化につながる」と批判しているとも報じており、また、私たちが、実際に目撃し、住民の人たちが何よりもその阻止を求めているクンサン基地の弾薬庫の増強ぶりも合わせて判断すると、このクンサン基地を「返還される主な基地」としている朝日の米軍基地の配置図は、明らかに、誤りではないかと思われます。
スタンドの店員さんが間違えて軽油を満タンにしてしまった

 さて、あとはソウルのホテルで最後の夜をゆっくり過ごすだけと、快調に西海岸高速道路をとばしているはずのウー・キョンソン弁護士のボスの外車が、一時間も走らないうちに、急に調子が悪くなり、とうとう高速道路を下りなければならなくなってしまいました。

 途中でガソリンスタンドに寄った際に、スタンドの店員さんが間違えてガソリンではなく軽油を満タンにしてしまったらしいのす。 パク事務局員さんは、可哀相に、頭をかかえてしまいました。八王子の原告の鈴木さんは、この日の夕方の飛行機で日本に帰らなくてはならないので、まず、彼一人がタクシーで直接インチョン空港に向かうことになりました。

 しかし、残った私たちは、お陰で、韓国の「くるま業界」も、日本のJAFだかなんだかと同じような緊急サービスシステム(私は車を運転できないのでよく知りませんが)を持っていて、このような事故にけっこう迅速に対応する様子を目の当たりにするという、思わぬ貴重な体験をすることが出来ました。ところが、せっかく来てくれたこの土地のJAF(KAF?)屋さんは、車を見るなり「こりゃ外車だ。外車はうちでは手に負えない」というので、パクさんは、またもや頭を抱えた挙げ句、仕方なしにウー・キョンソン弁護士だかそのボスだかに連絡をとって、この外車の専属のサービス屋さんの方に来てもらわざるをえないことになってしまいました。これからまだまだ時間がかかりそうな具合になったので、しきりに恐縮するパクさんを一人現場に残して、私たちは、もう一台タクシーを呼び、ここでも韓国の交通料金が日本と比べて断然安い(半値以下?)ことを確認しながら、予定よりも約二時間遅れで、折から俄然激しくなり始めたソウル市街の車の渋滞の中を、ようやくミョンドンのメトロホテルに辿り着きました。ヤレヤレ…。

 そのメトロホテルに、午前、クンサンエアポートから民間機で一足先にソウルに戻っていたリー事務局長さんが、「大変でしたねえ」とにやにやしながら来てくれて、近くの焼き肉屋さんで韓国最後の食事をおごって(ご存じのように、韓国ではワリカンの風習はありません)くれました(美味しかった)。

 ところが、約一時間後に、その席に、ヒョッコリと、一人で事故現場に残ったはずのパク事務局員さんも姿を現したのには、まったく驚いてしまいました。あれから程なくして外車のサービス屋さんが来てくれて車の修理が出来、先程、無事、ウー弁護士のボスに車を返してきたというのです。私なら、くたびれ果てて、そのまま真っ直ぐ家に帰ってしまうところなのに、まあなんとタフでなんと律儀な人たちなのでしょう。

 こうして翌一〇月一一日の朝、私たちは、結局、ソウルでもどこでもいわゆる名所見物はまったく出来ないまま、すぐ近くのホテルロッテの前からバスでインチョン空港に着き、空港内の食堂でゆっくりと朝食をとってから成田行きの便に乗って、グリーンコリアの弁護士さんたちや事務局の人たちや通訳兼務のキム・テヒョンさんたち、クンサン基地周辺を案内してくれた牧師さんやキム・ミンアさんや強い風の中を私たちを待ち受けてくれた女性たち、その他の韓国の人たちに、それから通訳で大奮闘をして、帰りの成田行きの便のなかでもしつこく質問責めにする私に少しも迷惑顔を見せずに(実は大いに迷惑だったらしいのですが)丁寧にこたえてくれた松浦信平団員に、感謝感謝をしながら、あわただしいが結構収穫の多かった韓国訪問を無事終えることができた次第です。

(付)ハノイのCOLAP?で韓国のユン・ヒー・リー弁護士が「在韓米軍と地位協定」を報告
私は、更にこの八日後の一〇月一九日から、ベトナムの首都ハノイで行われた「第三回アジア・太平洋法律家会議」(COLAP?)に参加して、その第一分科会「平和」に出席しました。
 そしてそこで配られた資料から、韓国のユン・ヒー・リー弁護士が「在韓米軍と地位協定」という報告をする予定であることを知りました。この報告は、A4版で七頁、約四〇〇〇語のかなり長文のもので、その項目は
 1韓国における米軍の配備とその法的バックグラウンド
 2「施設及び区域」(基地)関係
  (A)施設及び区域の許容過程での所有権侵害
  (B)施設及び区域管理権の濫用
  (C)土地の交換及び返還過程における諸問題
  (D)施設及び区域の運用費用の負担
 3刑事司法手続関係
 4環境関係
というかなり包括的なものです。

 そして、例えば、この「2(D)施設及び区域の運用費用の負担」の箇所では、「防衛費用分担特別協定では、一九九一年に、韓国は駐留費の基本的な部分を負担しなければならなくなった。その上、この額は一九八九年から一九九六年にかけて、年々増加し、三二・三%までなった。一九九九年までには韓国市民一人当たりの負担額は五四・二米ドルに達した。この額は日本での五〇・一米ドル、ドイツでの二五・七米ドルを上回る。経済力と生活費のことを考えると、これは韓国の民衆にとって非常に大きな重荷である。」というような、やっぱり日本にいてはわからないようなことが書かれているのです。

 それで、この「在韓米軍と地位協定」を報告するユン・ヒー・リーというのはどんな弁護士かと思っていると、名前を呼び上げられて登壇したのは、日本の司法研修所で言えば五二、三期ぐらい、どうみても二〇歳台の大変若い女性の弁護士でした。

 この第一分科会には、韓国の弁護士が他にも男性が二人、女性が三人ほどいましたが、女性の方はみんなユン・ヒー・リーさんと同じとても若い弁護士ばかりでした。

 ソウルで会ったグリーンコリアの人たちばかりでなく、今、韓国の米軍基地反対運動を担う人たちは、本当に若いなあという思いを更に強くしたことでした。彼女は、この報告文を、堂々たる英語で読み上げたので、私は、休憩時間に、彼女の席に近づき、恐る恐る、私は日本の横田基地公害訴訟の弁護団だが、我々の訴訟について英文の資料を持ってきたのでお渡ししたいと話しかけました。そしたら、おお、みなさん。こういう会議で、流暢な英語で報告文を読み上げる人たちを決して恐れ過ぎてはなりませんぞ。現に、彼女は、意外にもそんなには流暢でない英語で、それは大変有り難い、と喜んでくれました。つまり、何語につけ、読みと会話とは、元来別個の能力のようでありまして…

 この日の夜は、COLAP?参加者の全員が集まって、楽しいレセプションがあり、私は韓国や北朝鮮の代表たちに、例によって「アンニョンハシュムニカ」「アンニョンハセヨ」とだけ挨拶をしてまわりはしたものの、第一分科会の会場にカメラを忘れてきてしまうというドジをやらかしていて(その会場はもう鍵がかけられていて翌日じゃないと捜し物は出来ないというつれない返事にも少々腹が立ち)、各国の参加者たちの姿を自分のカメラに写すことができなかったのは、返す返すも残念でした。

 さて、今年の七月か八月に、韓国で、日本の公害弁連と韓国の公害問題に携わる弁護士団体の共催で「日本と韓国の米軍基地公害に反対するシンポジュウム」が開かれます。
 どうぞ、どうぞ、みなさん、こぞってご参加下さい。(完)    


今日までそして明日から
  極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその4


神奈川支部  小 賀 坂  徹


前回の「その3」は、本部の指摘によって内容を一部削除したものになっている。といっても、事務局長から「この部分の内容はいかがなものか」といわれて「おっしゃるとおりでございます」とあっさり引き下がっただけのことだから、それを糾弾するような意図はまったくない(「品位に欠ける」といわれてしまったのだから仕方ないでしょ)。むしろ、こんな原稿をいつまでもよく載せてくれてるなあと感心しているのが正直な思いだ。かつて「青年法律家」に書いた原稿がゲラができあがった後でボツにされたので、その原稿を「青法協かながわ」に載せてもらったことがあった。その時はそれなりに「コンチクショウ」という思いが湧いたが、今回はそんなことは全然思っていない。だから、幻の原稿が支部ニュースに載ることもなく、永久に日の目をみることはないのだ。このように団通信の編集も大変な仕事なのだ。何せ一〇日に一回の発行だから、担当者の苦労も相当だ。本部にいて、このことを痛感した。みんなで担当者の労をねぎらってあげましょうね。

9、「日の丸・君が代」子ども向けアピール
 一九九九年夏、新ガイドライン法が成立した後、「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌とする「国旗国歌法」が成立した。新ガイドライン法は大問題だったけれど、感覚的に私には「国旗国歌法」のような内心をコントロールしようという法律の方が不気味であり、もの凄い抵抗を感じた。だから「強制反対」というスタンスを超えた運動はないものかと思い、当時「スタジアムから見た日の丸」という原稿を団通信に書いたりもした(話はそれてしまうが、「つくる会」の中学公民教科書には、「国旗・国歌」の項目で、日の丸を掲げてサッカー日本代表チームを応援するサポーターの写真がいくつも使われていて、思わず「やられたっ!」と思った)。

 翌二〇〇〇年の卒業式シーズンを迎えて、この「国旗国歌法」の影響がどのように出てくるのかが懸念されていた。本部では、「日の丸」「君が代」を強制することのないよう、文部省(現・文部科学省)に申し入れも行った。しかし、こうしたことだけでは何かが足りないという思いを払拭できないでいた。こうした中で、式典の主役である子どもたちに向けて、私たちの思いを伝えることが大切ではないかと思い、子ども向けアピールを出すことを提案した。新しいことを提案すれば「じゃあ、お前やれ」というのが世の常であり、その起案を私が担当することになった。高校の卒業式は大方終わっていた時期だったので、小学六年生と中学三年生を対象にした二種類のアピールを起案した。しかし、こうした年代を対象に文章を書くことは普段はまったくないし、この年代の子どもたちと話をする機会さえほとんどないから、何をどう書けばいいのか途方に暮れていた。とりあえずの起案をして事務局会議に持っていくと「こんなの難しくて分かんないわよ」という声が圧倒的で、抜本的な修正を迫られた。参考に読んだのが、芦部教授の教科書だったからあたり前だったかもしれないが、呼びかけるように、優しくやわらかく、ささやくように(これはウソだけど)書いたつもりだったんだけどなあ。

 という訳で、本部事務局の多くの人の意見(事務局の子どもに読んでもらって意見も聞いた)を採り入れて、二種類のアピールが完成した。これには思いのほか反響があり、団本部にも多くの問い合わせがあった。そんなことから、私がこの問題で「赤旗」の「ひと」欄に載ることにまでなった。その記事の写真を見た鈴木亜英前幹事長から「あなたもスーツもってんだ」といわれたが、俺だってスーツくらいは持っている。そりゃ、夏の暑い時に短パンで本部の会議に行ったことはあるけれど。そういうことだから「正しい生活の仕方」という絵本を贈られたのかなあ。
 この取り組みが、単発のアピールで終わってしまったことは、今思えば残念である。今年、開催されるワールドカップでは、スタジアムで多くの「日の丸」の旗が振られるのだろう。

一〇、浪速の商人・財前登場
 二年目になると、次長の一部が入れ替わり、大阪支部から財前さんがやってきた。当時の鈴木幹事長が大阪支部総会に行って、何回も握手をしたら、本部に来ることが決まったという不思議な人ではあるが、私と一緒に二年間司法改革の課題に取り組んできた「同志」であり、格別の思いがある人でもある。とにかくよくしゃべる人だなあというのが第一印象で、息をしてるのかしゃべってるかどちらかという感じがした。現在の篠原幹事長も辟易とする程よくしゃべるので、この二人がそろった時にはどうなることかとまじめに思った。けれど、篠原さんは人の話をほとんど聞いてないから、二人がかみ合って話をすることはそうは多くはなかった。

 財前さんとは実によく飲んだ(何だか飲んだ話ばかりだけど、事実だから仕方ないのだ)。最初のころはそうでもなかったのであるが、いつしか会議の後は、午後九時二〇分ころの最終の「のぞみ」で帰るのが決まりとなり、さらに本郷三丁目に常宿を設けるようにもなっていったのである。断っておくが、これはすべて彼の意思である。丸の内線で寝過ごして新宿まで行って「のぞみ」に間に合わなかったことが何度かあったのは、完全に彼の責任によるものである。天王寺事務所の事務局からは「財前先生は毎回毎回何をやっているのか」という不審の目で見られていたようであるが、少なくとも私の知っている限りでは怪しいことはなかった(ようである)。知らないところで何をしていたかまでは、私は保証できないけれど。

 ただ事務局会議や常幹、各委員会の会議などに大阪から通ってくるのは、並大抵ではなかったと思う。彼の事務局次長退任の挨拶の文章(思えば、この原稿もそうだったのだなあ)の中で「もう一年やってもいいかなと思った時期があ」ったと書いていたが、そうだとすればホントに団の仕事に愛着とやりがいを感じていたのだと思う(それにしても「残って小姑臭くなるのもいやだと思い直し」たってのはオレのことか?)。

 財前さんは、普段しょうもない冗談を連発して顰蹙をかっていたが、仕事になると極めて優秀であった。しかも彼は凝り性なので、多くの文献や資料を取り寄せ、水準の高い文章を書き続けた。司法問題についての意見書などは、財前さんのこうした能力が最大限発揮されたもので、一緒に担当していて本当に頼りがいがあったし、また彼と仕事をするのは楽しかった。司法問題のことはまた別に書かなければいけないと思っているが、担当次長として財前さんとはホントによく議論し、相談した。時には愚痴をこぼしながら傷口をなめあうようなこともなくはなかったが(ホントに大変だったんですよ)、団の議論をどのようにまとめていくのかについて二人で真剣に考えてきた。私も随分生意気なことを言ったと思うが、それを受けとめてくれたのは彼の度量だろう。財前さんは、今後ロースクールで刑事法を担当することになる話もあるそうだ。カリキュラム作りなど、また多忙な日々を送っているのだと思うが、財前さんなら適任だろう(但し、しょうもない冗談は学生には絶対うけないからね)。財前助教授の講義を受けた裁判官や検察官が誕生することは、何ともワクワクするほど素敵な話である。(つづく)


改革審意見書の法曹一元への射程
      〜「判事補の他職経験」について


東京支部  後 藤 富 士 子


1 給源の多様化・多元化
 裁判官の選任について、法曹一元制とキャリアシステムとの根本的違いは、前者が選任時の適格性判断によるのに対し、後者は法曹資格取得の最初から裁判官の身分を与えて裁判実務に携わることによって「一人前のよい裁判官」に育てるというものである。そして、このような違いは、裁判官の地位(権限と処遇)を単一のものとするのか、それとも昇進制の下に置くのかという、「裁判官像」の違いに直結している。

 前者は、選任時の適格性が判断材料であるから、それまでの履歴は多様である。例えば、弁護士経験者に限らないし弁護士でもどのような仕事をしてきたか、顧客層がどうであったか、等々は選別のための材料にすぎず、「弁護士でなければだめ」とか「ビジネスロイヤーだからだめだ」とか、レッテルで排除することがない。ビジネスロイヤーであれ、検察官であれ、行政職であれ、要は選任時に「この人なら」という人物が選任される。レッテルは、複数の候補者がいる場合の選別評価要素として相対的意味をもつに過ぎない。

 これに対し、後者は裁判官を昇進制の下に置いて、均質性を保障するやり方である。キャリアシステムを取っていた戦前の日本では、司法官試補としての修習終了後2回試験にパスすれば、最初から判事に任命される。そして、定年まで全国各地を転勤しながら裁判実務に従事するのだから、仮に「良い裁判官」たちであったとしても、多様性は望むべくもない。

 現行法で「判事補」が出現したのは、キャリアシステムから法曹一元に飛躍しようとしてできなかった残滓である。このことを踏まえて、改革審意見書は、「多様で豊かな知識、経験等を備えた判事を確保するため、原則としてすべての判事補に裁判官の職務以外の多様な法律専門家としての経験を積ませることを制度的に担保する仕組みを整備すべき」ことを提言している。

2 「他職経験」は判事任官の要件
 前記提言の文言から明らかなように、判事補に「他職経験」を積ませる目的は、「多様で豊かな知識、経験等を備えた判事を確保するため」である。

 弁護士からの判事任官が現時点で数的に充分であれば、判事補廃止は可能である。しかし、それが不可能なために、改革審意見書は、法曹一元の本旨に照らし、判事に任官する時点で判事補しか経験していない者をなくす(「すべての判事補」が他職経験を要するのだから)ことにしたのであろう。換言すると、「他職経験」は、判事任官の要件とされたのである。

 このことがもつ意味は重要である。すなわち、ロースクールから「普遍的法曹」が輩出され、「完成された法曹」が判事に任官していく条件が成熟するまでの間は、現行判事補制度を前提とせざるを得ないところ、その判事補に判事任官の要件として「他職経験」を課すことは、現在の「純粋培養と自動昇格」に楔を打ち込むものである。そして、「他職経験」は「判事補」に採用された者を対象にしているのだから、「すべての判事補に裁判官の職務以外の多様な法律専門家としての経験を積ませること」は、最高裁の責務として課せられたものである。

3 「制度的担保」について
 ところで、この実施を具体的に考えてみると、未特例判事補に限っても五〇〇名を超えるだろうし、その全員について最低三年間の「他職経験」をさせることとなると、大部分を弁護士に受入れることになる。

 一方、「三年後に裁判官に戻る」ことが約束されている判事補を弁護士が喜んで受入れるはずがない。判事補の個人的キャリア・アップのために弁護士が協力できることには限度がある。五〇〇人の判事補に「弁護士経験」を弁護士側から提供することは、殆ど不可能である。

 そうすると、「どうしたらすべての判事補に相当期間他職経験を積ませることが可能になるか」を考えることになる。この点について、私は、次のように考えている。

 まず、「他職経験」のない判事補は判事に任官できないことを確認すべきである。そのうえで、「他職経験」を制度的に担保することを検討すると、「他職」の獲得は当該判事補の責任においてなされるべきものであることが自明となる。それすらできないのであれば、判事になろうなどおこがましいのではなかろうか。具体的にいえば、弁護士会は求人情報を提供し、あとは判事補と求人側との個別契約である。そして、最高裁の役割は、判事補の尻を叩いて「他職」へ押し出すことである。最高裁にとって、判事補は「可愛い子」なのだから。

 これは、判事補にとっては相当厳しいものであろう。しかし、法曹一元制では、最初から裁判官になるなどということはないのであって、自力で法律職を獲得していくのが当然なのだから、これができないのでは話にならない。

 また、こういう厳しい試練を判事補に課すにあたっては、そのような厳しい試練を経ない者と同じ処遇というのでは不公平である。したがって、「他職経験」について優遇措置(例えば、判事補に戻ったとき、「他職経験」のない同期判事補よりも報酬一割増)を講じるべきである。それは、「他職経験」へのインセンティブにもなろう。

 いずれにせよ、「すべての判事補に他職経験を積ませる」ことの第一義的主体的責任は最高裁・判事補にあることを明確にすべきである。そうすれば、私たち弁護士も、通常の弁護士求人と同様のレベルで判事補を歓迎する。法曹一元は、「裁判官に弁護士経験を求める」のではなく、多様な法律職経験者の中から優れた法曹を裁判官に選任する制度なのである。


市民むけのわかりやすい
  司法改革のパンフレットができました


担当事務局次長  井 上 洋 子


 「私たちのめざす司法改革」という題名で市民向けのパンフレットを作りました。
 司法改革なんて考えたこともないし、何がなんだかよくわからないというごくごく普通の市民に、とにかくこのパンフレットを手にとってもらいたい、という気持ちで作りました。ですから、なるべく興味をもってもらえるような視点で目次や表題を工夫し、流れを大切にしました。イラストとグラフを用いて、親しみやすさや目から入る情報を大切にしました。また、コラムで判検交流や敗訴者負担制度、裁判員制度などを説明し、そこだけ拾って読んでもらっても問題点の一つがわかるように工夫しました。

 見た目は軽いですが、中身は自由法曹団の司法改革に関する意見書のエッセンスを書き下ろしたものですから、十分しっかりしています。ただし、市民向けのパンフレットですので削るところは削り、司法の現状、その根底にある問題点、司法改革に二つの流れがあってせめぎあっていること、など総論的なものに主として光をあてています。

 限られた時間のなかで、さまざまな人の意見をすりあわせて書きました。不十分な点も多々ありますが、団員の皆様には、事務所、地域、各団体などで活用し、広く普及させていただきますようお願いします。

 なお、パンフレットは全三色刷り、四〇頁、B5判で一冊三〇〇円です。(一〇〇冊以上のご注文の場合は二五〇円になります。送料別)
ご注文は、FAXにて団本部あてにお願いします。


パンフレット
「司法改革市民のための司法をめざして」のご活用を


東京支部  前 川 雄 司


昨年一〇月の団総会で東京合同法律事務所発行のパンフレット「司法改革 市民のための司法をめざして」の宣伝をさせていただきました。このパンフは「井戸端会議で使えるパンフ」を、というコンセプトで作ったもので、文字を少なくし、イラストを中心に構成したものです。イラストを描いてくださった方は変額保険の裁判を自ら闘った方で、このイラストがこのパンフの最大の魅力となっていると思います。

 このパンフは今までに合計一五〇〇部出ています。団総会で見本として配布した約四〇〇部を除き、約一一〇〇部が一般の方々の手に渡ったことになります。

 司法改革推進本部が設置され、法案化に向けての作業が急ピッチで進められることが予想されます。このパンフで少しでも多くの方々に司法改革を語り合ってもらい、大きな運動につなげていきたいと考えています。

 団本部でもパンフレットを作成したと伺っていますが、当事務所のパンフにも興味をお持ちいただけるようであれば、ぜひ購入してご活用いただければ幸いです。

 パンフはA五判二四ページで、頒価二〇〇円ですが、五部以上ご注文の場合は一部一五〇円です(送料は別途いただきます)。

 ご注文は左記までお願いします。
 〒一〇七ー〇〇五二 東京都港区赤坂二丁目二番二一号 永田町法曹ビル二階 東京合同法律事務所