<<目次へ 団通信1048号(2月21日)
ブッシュ政権が報復戦争・空爆を開始し、小泉政権が自衛隊参戦に踏み切って四か月、アフガン復興が国際社会の課題になろうとしている一方で、南部山岳地帯では米軍による空爆・掃討作戦が継続され、インド洋の「日本艦隊」は米軍支援を続けています。
「二〇〇二年は戦争の年」と公言し、「悪の枢軸」への「討伐」を掲げるブッシュ政権の路線が、果てしない暴力の連鎖を生み出すことは明らかです。いま求められているのは国際的紛争の平和的解決と復興の道筋を確立することであり、これは日本国憲法が宣言した理念にほかなりません。
まさにそのいま、平和憲法を持つこの国で、小泉政権は有事法制の制定を叫び、防衛庁・自衛隊が二〇年来準備を進めてきた「第一分類」「第二分類」に包括法をつけて、通常国会に提出しようとしています。有事法制は本格的な軍事行動のための兵站法制(あるいは情報管理法制も)を整備しようというもので、国民の強制動員を可能にするばかりか、世界・アジアの軍事緊張をいやましに高めることになるでしょう。これが、日本国憲法を蹂躙し、国際社会の平和への努力に真っ向から逆行することは言うまでもありません。
自由法曹団は、一月二六日の常任幹事会で、有事法制阻止のために総力でたたかうことを決定するとともに、有事法制阻止闘争本部の設置を確認しました。闘争本部は、緊急出版や宣伝行動・関係団体との懇談などすでに活動を開始しています。
ブッシュ・小泉政権の軍事突出路線や改憲策動と真っ向から対決して平和憲法を世界に広めるために、すべての支部・法律事務所・団員の皆さんが、有事法制阻止の闘争に立ち上がることを心から呼びかけます。
二〇〇二年二月一五日
東京支部 大 森 顕
昨年九月一一日の同時多発テロは、全世界の人々に大きな衝撃を与えた。ニューヨークのWTCに大型航空機が真正面から突っ込み、二つの超高層ビルが崩落する様子を、我々はカメラのレンズを通して連続的な映像により目の当たりにしたからである。
ところが、それに対するアメリカとイギリスの「報復のための空爆」は、距離的離隔と通信手段の欠如そして厳しい報道統制から、現地で何が起こっているのか正確に掴むことはできなかった。「ピンポイントな爆弾の投下」「タリバーンの遁走」「女性が解放され音楽があふれるカハンダハル」という断片的な報道をつなぎ合わせれば、それはアメリカの「正義のための戦争」がアフガニスタンに平和をもたらした、という認識をもつ。
しかし、彼の地に本当に正義がもたらされたのだろうか、捉えどころのない疑問があった。疑問があれば自分の目で確かめる、正にこれを実践したのが自由法曹団パキスタン調査団の七名の団員弁護士であった。
東京支部では、八日間に及ぶ現地調査を終え帰国したばかりの調査団らの協力を得て、去る二月六日、東京・市ヶ谷の全国教育文化会館・エデュカス東京において、「緊急集会 アフガン軍事報復の裏側で…!ー現地調査報告からその本質を問う」と題し、自由法曹団パキスタン現地調査団の報告集会を開催した(東京憲法会議、国民救援会都本部共催)。パキスタンまで行って自分の目で確かめてきた団員の報告がなされたのである。
この問題に関する市民の方々の関心は高いはずだとは思っていたが、当日は主催者の予想を超える一九〇人もの方々に会場まで足を運んでいただいた。そのため会場は一杯になり急遽椅子を出さなければならないほどであった。中には、こちらから積極的には参加を呼びかけたのではないが、インターネット上でこの集会のことを知り参加した方もいらっしゃった。
集会では、パキスタン調査団に参加した弁護士のうち、田中隆団員、神田高団員、伊藤和子団員そして山本真一団員がそれぞれ報告を行った。田中団員が、冒頭で今回のパキスタン調査の目的、概要及び現地のNGOとの会談などで得られたものを報告した後、神田、伊藤両団員が、訪れた難民キャンプの様子や難民の方々との対話を報告し、最後に山本団員が今後のアフガン復興のために我々がなすべきことを力強く報告した。また、我々のパキスタン調査団とほぼ時を同じくしてアフガニスタンまで行き、まさに爆弾が投下された現地を調査してきたNGO日本国際ボランティアセンターの事務局長谷山博史氏から、空爆後のアフガニスタンの現実とその後の復興を巡る情勢について報告を頂いた。
そして、青山学院大学教授の新倉修教授から、軍事報復という実力行使ではない理性による解決としての国際刑事裁判所の設置実現に向けて講演をしていただいた。また、フォークソング歌手で人権問題などに積極的に携わっている横井久美子さんが、アフガニスタンの平和を願って作ったオリジナルソング「おなじ空、おなじ子ども」を会場も交えて熱唱された。
調査団からはそれぞれ、実際にパキスタンの地を踏み、アフガニスタン国境の難民キャンプにまで行った者だけが語ることの出来る生々しい事実の報告があった。数年間もの間まとまった雨が降っていない荒涼とした泥の大地、そこで裸足で水を汲みに出る難民の少年、空爆で夫を失った女性、空爆による爆音で扉が閉まる物音にさえ怯える子ども、みな空爆で故国アフガニスタンから避難せざるを得なくなった人々であった。タリバーンが逃走した後に、またはタリバーンの軍事施設などないのに連続して空爆がなされ、多くのタリバーンとは無関係な市民が犠牲になったという。
軍事報復の裏側では、さらなる「戦争」被害者を生み、地道な努力を重ねてきたNGOなどのアフガン支援の道を閉ざし、複雑な民族構成を持つアフガン市民を再武装化させた。ソ連のアフガン侵攻・撤退、それに続く内戦の激化、タリバーンの支配そしてこの空爆と二三年間もの間戦乱に巻き込まれてきた人々の心を支配しているものは再び内戦が起こるのではないかという恐怖である。その中で人々は平和を求め、人間としての尊厳を回復したいと願っている。あたかもアフガニスタンでは暫定行政機構(内閣に相当)が発足し、ハミド・カルザイ氏がその議長(首相に相当)に就任したことにより、アフガニスタンは既に「報復戦争」から「復興」に向け歩を進めているようにも見える。しかし、現実には今でもアフガニスタンには空爆が続き、あらたな避難民を生み出していると谷山氏は報告した。
これらの報告はあの九・一一の映像にも勝るとも劣らないリアリティーと衝撃を持ったものであった。それらを具に述べたいが紙幅がない。詳しくは調査団による報告集をご覧頂きたい。参加した人々は皆、正に食い入るような眼差しでスライドを見つめ、報告を聞いていた。
今回、この二・六アフガニスタン緊急集会に参加して、「彼の地で行われていることは『正義』ではない。戦争では何も解決しない。」と確信するに至った。あの疑問は解けた。しかし、それはかつてあの敗戦により日本の国民の誰もが学んだことであったはずなのに、今回我が国は自衛隊を派遣しただけでなく、これを機に有事法制制定の準備が進められており、戦争の放棄をうたった憲法九条は今、かつてない危機にさらされている。集会では、二一世紀を「戦争の世紀」ではなく「平和の世紀」とするために、アフガンに対する軍事行動とそれに対する日本政府の軍事支援をやめ、国際法に基づく解決を図ること等を参加者一同で決議した。
最後に、この集会に参加してくださった方々、そして危険を承知の上、時には自動小銃で武装したポリスに守られながらも自分の足でパキスタンの大地に降り立ち調査をして、このような貴重な報告をしてくれた調査団の団員に改めて敬意を表したい。
担当事務局次長 伊 藤 和 子
アメリカは昨年同時多発テロ事件への「報復」と称してアフガニスタンを軍事攻撃し多数の罪なき人々を殺戮しました。自由法曹団は、去る一月七〜一四日、この「報復戦争」の被害実態を調査し、平和復興に向けた課題を探るため、アフガン問題調査団を結成してパキスタンに入り、調査活動を行いました。
調査団が現地で知ったのは、想像以上の戦争の犠牲、そして長びく戦争による国土の荒廃、貧困といったアフガニスタンの現在、そして困難な中で自立的な復興を実現しようとするNGO等の人々の真摯な取組みでした。
二度とこのような戦争の惨禍を繰返さないため、そしてアフガンの復興を支援するため、今私達に何が求められているのか。そうした課題も含め、今回の調査の全過程を報告集にまとめました。是非ご活用ください。
以下内容をご紹介します。
【主な内容】
1 報復戦争・空爆の現実―つぶさに見聞した戦争の被害
2 難民救援と帰国支援の課題―各国のNGOの活動にふれて
3 平和的解決と復興の道をさぐる―国際社会に求められるもの
訪問記・コラム・資料・写真など
A4版・八〇頁 頒価三〇〇円(送料別)
現地調査を運動に役立てるために緊急発行。普及と活用をお願いします。
団本部までFAXで。
東京支部 田 中 隆
一 あのとき
あのときなぜ、あの男はこう呼びかけなかったのだろう。
「崩落したビルにいる犠牲者をひとりでも多く救おう。危険を冒して救助にあたっている消防士を支えよう。心配している家族を励まそう。私たちの国は皆さんを見捨てない。私たちは必ず真相を究明する。真犯人を必ず処罰する。だから仲間を信頼して仕事をしよう。それがテロリストに対する最大の反撃だ・・」
犠牲者とその家族にとって、消防士にとって、アメリカ社会にとって、そして世界にとって・・これが正しい為政者の呼びかけだったはずだ。
ちょうど七年前の九五年初頭、阪神・淡路大震災で崩壊した被災地に立っていた。倒壊し炎上した建物が生々しい余燼をあげ、全国から駆けつけたボランティアの献身的な救援活動が続いているさなかだった。生存を信じて一人でも助け出そうという必死の救出作業も、まだ続いていた。
あのとき、さすがの政府も兵庫県も神戸市も、「震災に乗じて騒ぎを起こすやからがいる。神戸には暴力団も不逞の外国人も多いから。だから、警戒しよう。なにかあったら反撃して自分の命を守ろう」などとは言わなかった。
あのときもしこんな危機扇動が行われていたら、勇気と善意を凝縮した救援・復興の道筋を開くことができたか。だから、石原慎太郎東京都知事の「三国人発言」や「自分の命は自分で守れ」なるキャンペーンが許せないのだ。
自然災害とテロを同列に並べられないことは承知の上だ。だが、それでもはっきりさせておきたい。
あのときのあの男、アメリカ大統領ブッシュの報復戦争宣言は間違っている。
国際法に違反し、暴力の連鎖に道を開いただけでなく、不安と疑心暗鬼を植えつけ、人間の良識や多様な文化をかえりみない粗暴で短絡的な思考に道を開いてしまったから。
アメリカと日本という二つの政権とその国の経済が、どれほどこの誤った思考にもてあそばれていることか。
二 あのころ
あのころなぜ、国際社会は気づかなかったのだろう。
ソ連軍の侵攻から二〇年、大国の利害で翻弄され破壊され尽くしたアフガンで、呪詛とも言うべき憤りと悲しみが蓄積し、それが破壊的テロリズムの温床になろうとしていることを。
パキスタンで会った国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の羽生勇作副所長は語っていた。
「タリバーン政権と交渉を続けてきた。タリバーンを説得するのは大変だったが、わかりあえば誠実で意見をよく聞いてくれる連中で、個人的には魅力のある人も多かった。だが、神学だけを学んできたタリバーンには経済がわからなかった。そこにアラブ商人がつけこんで、経済的に乗っ取る事態が生まれた。UNHCRはタリバーン政権に『麻薬追放宣言』をさせた。だが、世界は完全に黙殺した。麻薬を絶ってかわりの産業を起こすには資金がいる。『麻薬撲滅』に多額の予算をつぎ込んでいるアメリカの大使に資金援助を求めたがダメだった・・」
パキスタン調査から帰国した直後のアフガン復興国際会議では、四五億ドルの支援が決定された。あのころもし、その一部でも国際社会が負担してアフガン支援に踏み切っていたら・・。
歴史にifがないことも百も承知だ。だが、それでもはっきりさせておきたい。
アフガンにテロ容認の土壌を醸成し、テロリスト集団に依拠せざるを得ない政権をつくりだしたのは国際社会だ。あのころもし国際社会がそうしていたら、あの「同時多発テロ」は起こらなかった。「戦争が平和をもたらした」のか、それとも「平和の努力を尽くさなかったから戦争になった」のか。
このことをはっきりさせることが、悲劇的な事態から正しい教訓をくみ取る道だから。
三 このいま
このいまなぜ、「二〇〇二年は戦争の年だ」だの、「世界は『悪の枢軸』と文明社会に分裂した」だの、「反テロ陣営に加わる以上、有事法制が必要だ」などという、短絡的で愚かしい言辞がふりまかれ続けるのだろう。
為政者があのときの愚かしい誤謬から抜け出せないでいるからか、「敵をつくり出したい」という衝動が軍産複合体などに渦巻いているからか・・いまはあえて言うまい。
どのように修飾しようとも、この言辞の行きつくところは、力による世界の制覇であり、軍事的な威嚇と鎮圧による「正義」であり、「まつろわぬやから」への「討伐」にしかならない。その「正義」が再び呪詛を生み、テロリズムの温床を醸成し、そして再び・・。
だから、あのような言辞が現実になることをどうあっても許してはならない。
そうなってしまえば、わが子やその子らから、「あのときなぜ」と聞かれるのは、いまこのときを生きている私たち自身だから。
(二〇〇二年 二月一一日 東京支部特別報告集稿に補筆脱稿)
福岡支部 松 岡 肇
二〇〇〇年五月一〇日に提訴した福岡の「中国人強制連行・強制労働事件」損害賠償請求訴訟は、昨年一二月二一日に結審しました。判決は四月二六日です。一年半で結審という異例の速さでした。訴訟の概要をご報告します。
一、 福岡訴訟の概要
原 告 | 三井鉱山に強制連行され、強制労働させられた中国人一五名 | |
(田川鉱業所四名、三池鉱業所一一名) | ||
被 告 | 国、三井鉱山 | |
提訴日 | 二〇〇〇年五月一〇日(九名) | |
追加提訴日 | 二〇〇一年五月一〇日(三名) | |
二〇〇一年一〇月三〇日(三名) | ||
請求の趣旨 | 日中各主要新聞への謝罪広告掲載、ILO29号の強制労働禁止条約を基本に、強制連行・強制労働の不法行為責任に基づく損害賠償請求 | |
常任弁護団 | 弁護団長 弁護士 立木豊地 他九名 | |
第三民事部係属 |
大阪支部 長 野 真 一 郎
東大阪市の公共工事の談合事件で、市民が談合に関与した業者と前市長などを被告とした住民訴訟の一審判決(裁判長三浦潤、裁判官・林俊之、中島崇)が昨年一二月末にあり、被告の控訴なく確定し、近く元利金合計約五九〇〇万円が東大阪市に支払われることになった。
東大阪市では、保守系の清水市長の下で談合が繰り返し行われていた。しかも市政トップの「天の声」によって行われる「官製談合」である。この内、一九九五年に六億一〇〇〇万円で契約された公共下水道工事について、元市長公室長が入札予定価格を市幹部を通じて入手して建設会社(大日本土木株式会社)の担当者に知らせ、他の指名業者と談合した事件が一九九八年に発覚し、関係者が競売入札妨害罪で逮捕・起訴された。その中では、当初本命とみられた別の競争業者を市の幹部に働きかけて指名入札業者から外させていた。清水市長も別件の住民票架空登録事件などで逮捕されて辞任し、その後の選挙で人口五〇万市政でははじめて日本共産党単独与党の長尾新市長が誕生したので、覚えている団員もおられると思う。
裁判の争点の第一は談合の成否。被告らは、予定価格を不正に入手したこと自体は認めたが、談合罪では起訴されておらず談合はしていないと否定した。しかし、そもそも予定価格を知っても談合がなされなければ他の業者が低い価格で入札したら落札できない。予定価格の入手は談合のための手段である。原告らは送付嘱託で入手した刑事確定記録をもとに、会社幹部が他の入札企業の担当者に指示した入札予定金額記載メモと現実の入札価格が一致していること、大日本土木以外は全て上限額を超える無効入札となっており、大日本土木の入札額は予定上限額の九九・五%という上限ぎりぎりの高額落札となったことを明らかにした。一審判決もこれを認めた。
争点の第二は、前市長自身の責任の有無。清水市長自身は競売入札妨害罪で起訴されてはいないが、既に退職していた元市長公室長(市長の政治団体の政治資金規正法違反事件で責任をとって辞職)が今回のような不正な情報入手と競争業者を指名から外させることができたのは、市長が自分の「身代わり」となって辞職した元公室長をその辞職後も自分の片腕として動かしていたことから、市の職員も元公室長の指示は市長の指示と考えていたからである。それを排除しなかったのは市長自身が談合を容認していた、と主張したが、判決はこの点は認めなかった。残念であるが、前市長はもはや過去の人となったということからこちらからは控訴しなかった。
争点の第三は、損害額の立証であった。この種の住民訴訟ではいつもこれが実務上の大問題となる。本件では、@契約が公序良俗違反で無効であり、代金六億一〇〇〇万全額を返せ、A前清水市政下での落札率(入札の上限である予定価格に対する落札額の比率)を調べると上限額近くの落札率平均九八・三%(談合がなされた場合)と下限額近くの落札率平均七八・五%(本来の競争がなされた場合)の二つの山があり、その差約二〇%相当分が談合によって市が被った損害であるからこれを返せ、などと主張した。判決は、新民訴法二四八条のみなし損害額の規定の適用を認め、原告らが最後に主張した、B当初の利益率努力目標三%と実際の利益率一一・一%の差八・一%相当分の五〇八九万を談合による損害とみなして支払いを命じた。民訴法二四八条の適用を認めた談合事件の判決の中では最高の損害率であろう。この利益率は、刑事記録を精査する中で会社が作成した工事竣工報告書の中から探したものであるが、刑事記録になくとも、自治体へ会社が提出した工事報告書の自治体への送付嘱託や会社への文書提出命令などを利用して、この利益率の観点での損害額の主張立証は、他の事件でも参考になるのではないか。
争点の第四は、監査請求期間が契約締結後一年以上経ていることについての正当理由の有無であるが、判決は、談合は秘密裏になされたものであることを前提に、談合の疑いの新聞報道から三ヶ月以内に監査請求がなされていることから本件請求を適法とした。原告らはこの新聞報道を知らず、被告らの逮捕後一ヶ月目に監査請求していた。結果オーライではあるが、いずれにしろ、監査請求は素早くやらないと後々しんどい争点を抱えることになる。
長尾新市長誕生からはや四年近くがたち、今年の六月には市長選挙が行われる。少数与党のもと、トップが変わったからといって、それまでの長期間の不正・腐敗は一朝一夕には変わらないことを実感させられる四年間でもあった。一方で、新市長の主導で、清水市政下の談合、不正職員採用問題などを調査する委員会がつくられ、大阪弁護士会から推薦する弁護士三名が委員となって、困難な中で一定の調査・報告・勧告をするという新しい試みがなされた。入札制度の改善などにより落札価格率が平均一〇%も低下し、推計八億円の税金節約の成果を上げた。この調査結果は私達の裁判にも大いに役立てることが出来た。「清水市政の不正を糺す会」の市民活動が母体となったこの住民訴訟が、今年の市長選の前に勝利し、かつ、確定し、財政難に苦しむ東大阪市の市民へのよい贈り物となったことは、幸いである(弁護団は福山、長野、城塚、坂本、河野)。
滋賀支部 吉 原 稔
文化財的価値の大きい豊郷小学校を解体するという豊郷町の決定に対し、大津地裁は、解体差し止めの仮処分決定を一月二四日にした。豊郷小学校は、昭和一四年に、郷土出身の近江商人で丸紅の専務であった古川鐵冶郎氏が「米百俵」の精神で寄付し、アメリカ人宣教師のメレル・ヴォーリス(同志社大学のアーモスト館、関西学院大学の本館、神戸女学院、大阪の大丸百貨店。京都の東華菜館などを設計した)が設計し、竹中工務店が施工した、鉄筋一部三階建ての本館と、講堂、図書館のある「白亜の殿堂」といわれた歴史的文化財的価値を持つ建物である。これを、老朽化して耐震性がないという理由で、取り壊し新築を強行しょうとした。町村合併をすると、ため込んだ基金が地元に使えなくなるのでその前に使い切ってしまおう、自分の実績としてハコモノをたててしまおうという動機である。最近、町村合併が迫ると、急に基金を使って贅沢な施設を作ろうという、合併による行政経費の削減という大義名分に反した公金の浪費が顕著にある。仮処分は、住民訴訟による差し止め請求権を本案とし、被保全権利は、地方財政法四条、地方自治法二条一四項(最小の経費で最大の効果を、経済的合理主義の原則、費用対効果)、地方財政法八条(財産管理についての管理者の善管注意義務)違反、文化財保護法三条・四条による文化財所有者の保存尊重義務違反、民法九〇条・公序良俗違反(寄付者の遺族が反対しているのに解体する、恩知らずな罰あたりな行為)、裁量処分の裁量権の逸脱濫用による解体処分の違法性を主張した。仮処分決定は、このうち地方財政法八条違反(文化財の価値、解体の是非、耐震性の判断、補強方法、費用対効果の検討を、専門家を交えて十分な調査検討をしなかったこと、住民の多数が保存を望んでいることを無視したこと、から財産の管理方法や効率的な運用方法として適切さをかくとし、八条に違反する)を採用した。仮処分によって、解体はストップされた。住民訴訟を本案として民事訴訟法の仮処分が許されるかについて、判例学説とも可否半ばする状況であるが、住民運動の法的解決の場面で積極的に活用することが必要である。
埼玉支部 大 久 保 賢 一
木村さんが、ぼくを指名して論稿を寄せているので(団通信一〇四五・一月二一日号)、この返書を書くことにする。
九年前、ぼくと木村さんそしてぼくと田島泰彦さんとの間に「論争」があった。論点は、日本国憲法の非軍事平和主義を現代日本の情勢との関係でどのように捉えるかということにあった。ぼくは、二人の主張を、安保や自衛隊が存在し、国民もこれを容認しているのだから、それを前提に平和運動をするべきで、九条二項にこだわるのはやめようと理解したのである。「平和基本法」の提唱者の主張も、安保や自衛隊の現状は違憲であるとしても、侵略的でない軍事力(必要最小限度の自衛力)の保持は必要だというものであった。 共通しているのは、憲法と現状との間にある乖離を、現状に近づける形で解消しようとすることである。しかもそれが、平和憲法の精神を生かすことになるというのである。
ぼくが納得いかなかったのは、現状ですら九条は骨抜き状態なのに、もっと憲法を現状に近づけることが、平和運動の採るべき道だという点である。明文改憲から、立法改憲、解釈改憲と様々な改憲論が展開され、戦争と戦力を放棄した九条が危殆に瀕している中でこれを主張することは、九条二項に「引導を渡せ。」というのと同義であると思ったのである。
そもそも、護憲論は、権力者に憲法を遵守しろという立憲主義と非軍事平和という徹底した平和主義の擁護という両側面を含意している。立憲主義は「法の支配」(法治主義ではない)の要請であるし、非軍事平和主義は平和思想の到達点である。日本の護憲運動は、その両方を擁護しようというものである。だから、非軍事平和主義を空想論として拒否しながら護憲の立場だということは成り立たない論理なのである。加えて、安保と自衛隊の現状を認めろというのは、立憲主義を蔑ろにすることなのである。ぼくは、一人の法律家として立憲主義を尊重したいし、一人の人間として非軍事平和思想を採りたいのである。
木村さんは、現実の国際社会の中で非軍事平和をいうのは非現実的と考えているのだろう。確かに、九・一一事件やその後の米軍の行動を見れば、非軍事平和主義を言い立てているだけでは不十分であることは否定できない。国際社会の安全と秩序維持のためのシステムの構築と実効性確保のための強制力の確立が検討されるべきであろう。しかしそのことは、非軍事平和主義を否定することとは結びつかない。むしろ、国家間の紛争を軍事力で解決しないという原則を、非国家主体の国際犯罪行為を防止し、処断する方策の中にどのように生かすかという方向で検討されるべきであろう。その意味では、護憲論者も反動に対する対抗だけではなく、具体的政策提起が求められているのである。国際社会の中で日々生起する問題の解決のために非軍事平和の思想をどのように生かすかという課題は、日本国憲法九条の存在を指摘すれば足りるということではなく、ぼくたちの原則的かつ柔軟な思考と行動にかかっているのである。
木村さんに期待したいのは、非軍事平和主義の現状の限界をあれこれと指摘するだけではなく、その実効性をどのように確保するかという方向で問題設定することである。
今必要なことは、ぼくと木村さんが日本共産党の「政策転換」をめぐって論争することではなく、アメリカの際限のない軍事力依存政策(核兵器の使用を含め)とそれに同調する日本政府をどのように制止し、且つ国際社会の安全をどのように確立するかを検討することだと思う。木村さんが論争を仕掛けるべき相手はぼくではなく、ブッシュ大統領や小泉首相ではないだろうか。(二〇〇二・二・七)
東京支部 渡 辺 脩
先の日弁連会長選挙に際し、私は、東京弁護士会の自分会派の臨時総会に別記の意見書を出したが、反応はゼロであった。他の会派の人に意見を聞かれたので、同じように答えたら、「ものすごくよく分かる」と言って強く賛成してくれた。全国の団員の意見も聞いてみたい気がする。団の今の任務にも関係があるのではないか。
記
今年の日弁連会長選挙も、既存路線と批判路線との対立という図式になったようだが、私は、両方とも間違っていて、必要な路線が提示されていないと見ている。
既存路線が推進している「司法改革・刑事司法改革」が本来の実態的改善点を無視し、国民の争う権利と弁護人の権利をもっぱら削減・剥奪する方向をめざしているという点では、批判路線の非難も大方の的を射てる。
しかし、批判路線は、「『弁護人抜き法案』提出(一九七八年)時の弁護士自治攻撃に対しては『国民の声』論に屈し、自治は国民から付託されたものとの見地に立ち…」とも、はっきり非難している。これは、何なのか。弁護士自治は「国民から付託されたもの」と明記したのは「弁護士自治の問題に関する答申書」だが、私は、その起草責任者であり、反対論を厳しく攻撃してきた。
弁護士自治の根拠を「国民の付託」に求めないで、一体どこに求めるというのか。弁護士の特権のための自治なんか誰が支持するというのか。弁護士自治は天賦のものではないし、弁護士だけで守れるものでもない。
批判路線が、現状批判の点ではそんなに間違っていないように見えながら、実は立論の偏狭さを色濃く映し出しているのも、そこに根原的な理由があると思われる。
日弁連の路線にとって、「国民の支持」は不可欠なのである。では、それを立脚点にしているはずの既存路線はどこで間違っているのか。
「どんな弁護士が必要なのか」を抜きにして制度論に明け暮れているという本末転倒に間違いがあり、権力側も、まさに、その点をねらってきているのだ。
「権力に屈従することなく、依頼人のために、真に闘う弁護士を必要とするのか」を国民に問いかけ、その支持を求めるべきなのだ。そのために、どんな制度が必要になるのかが本来の手順だろう。
在野法曹の原点から依頼人と国民の権利のために闘うことなしに、弁護士の値打ちはない。弁護士自治は、そのための制度的保障であって、それ自体が目的ではない。今の「改革」の核心問題は、「国民の裁判で争う権利をどこまで保障することになるのか」に尽きるのだ。
既存路線は、何に「国民の支持」を求めるのかを見失い、権力側に乗じられて、大きな被害を生みつつある。
しかし、批判路線は立脚点の誤りが致命的で修正の余地がないから、既存路線の戦略的な大幅修正しかないであろう。そのために、私は、今、次の二点を考えている。
一、既存路線に対する批判票を増大させる必要があるので、絶対に容認できない批判路線に票を入れる。
二、日弁連運動の進め方については、「刑法全面『改正』阻止」・「『弁護人抜き裁判』特例法案阻止」・「『国家秘密法』反対」など、困難な課題について、会内合意をきちんとまとめながら闘った経験と歴史があるのだから、それに充分かつ具体的に学ぶべきだ。
神奈川支部 小 賀 坂 徹
11 三年目への思い
二〇〇〇年の宇奈月温泉で、異例ではあるが私の次長の任期を一年延長し、三年間務めることになった。篠原幹事長は、口を開けば「小賀坂は俺が一回飲ませたら、すぐ次長をもう一年やることを決意した。安くついた」と言うが、まったくのウソであり、ふざけんなよなのである。逆に、当時多くの人から「よく決意したね。偉いね」と言われたけれど、これも必ずしもそういうわけでもない。
自分の中では、次長になって一年目の時と二年目の時とでは、団の仕事に対する思いがかなり変わってきていた。慣れというのもあるのだろうが、何より面白くなってきていたから、随分と積極的に取り組めるようになってきたと思っている。だから逆にやり残したこと、もっとやってみたいことがいろいろと出てきていたのである。と同時に、私の担当していた司法問題についての団内論議がいよいよ佳境に入ってきて、二〇〇〇年の宇奈月温泉の総会前は異例に八月も一〇月も常任幹事会を開き、九月の二度の連休はどちらも司法問題の会議を行うという状況であったことも大きい。「このままでは終われないな」というか、「もう少しやり通したいな」という気分があったのである。だからもう一年という話があった時には、迷いがないことはなかったが、当初から積極的に考えようとしていた。要するに、面白かったからやりたいと思ったのだ。だから、もの凄い葛藤の結果、決死の覚悟で決意したというものでは全然なかった。
ただ、このことについては、事務局内部でも消極的な議論もあった。それは、前例のない三年間の任期を認めると、それによって新たな次長のなり手が尻込みしてしまうのではないかという懸念だった。要するに二年の約束で次長になったのに、もしかしたらそれ以上やれと言われるかもしれないと思われてしまうと、ただでさえ次長の人事に苦労しているのに、さらに次長のなり手がいなくなるのではないか、そのようなことはすべきでないのではないかということだ。しかしこれも「あくまでも例外。本人の希望が第一」ということを確認することで克服された。もっとも私を除いて次期の次長が六名しか決まっていなかったことも大きかったけれど。
この時は、本部のそれぞれがそれなりの思いを抱いていて、私自身も多少心がちくちくするような思いをした。まあ神奈川から篠原さんが幹事長で来ることになって、その篠原さんから口説かれたんだから仕方ないわな、という思いもあったけれど(私自身は「義仁党」の党員ではない。念のため)、決して一回飲ませてもらったからころっと落ちたってわけではないのだ。事務所には迷惑をかけたかもしれないが、私自身は三年目を経験して本当によかったと思っている。苦労もないわけではなかったが、何より楽しかった。
12 司法問題の担当次長としての思い
私が次長に就任した一九九八年の上山田総会は、団の「二一世紀の司法の民主化のための提言案」が採択された総会だった。この時も、主として法曹人口問題について様々な議論があり、最終的に荒井幹事長の「有権解釈」なる不思議なものも含めて採択されたのだった。私自身、司法改革の問題に特別な関心をもっていたわけでもなく、まして団の議論に参加したこともなかったから「なかなか大変なことになってるなあ」といった呑気な感想程度しかなかった。
その直後に工藤次長とともに司法問題の担当になったのだけれど当時の司法民主化推進本部は「提言案」をとりまとめて一息ついたという感は否めず「提言案」をもとにどのような運動を構築していくのかということについて方向性を定めていくことができかねていた(と思う)。また私自身、法曹一元などの難しい議論になかなかついていくことができず、何となく焦点の定まらない会議にただ参加していたという感が否めない。こんな風にぼやっとしている間に、司法制度改革審議会が設置され、私自身明確な考えもないまま団内の嵐のような議論の中に巻き込まれて翻弄されていくことになる。
審議会をめぐる議論は、当初「司法審をどうみるか」ということに終始していた。不正確なのを承知で整理すると「政府・財界主導の司法改革は国家改造計画の一環であり、司法審に対しては呵責のない厳しい批判が必要である」という立場と「司法審はこれまで実現できなかった国民要求をかちとっていく千載一遇のチャンスである。だから批判よりも励ましと応援が必要である」という立場の対立であったように思う。もっともこれは極論であり不正確なのであるが、それぞれの立論の根底にはこうした思想的な対立があるように感じられ、議論はかみ合わず、いきおい空中戦のような様相を呈することもしばしばだった。そして、こうした中で一致点を見いだしていくことは著しく困難なように思われた。
しかし審議会の議論は急ピッチで進んでいき、論点整理、各論点の取りまとめ、中間報告へと進もうとしていた。そこで、中間報告を前に審議会の議事録を詳細に検討して「意見書」を発表しようということになった。この作業によって、いわば評価の対象が明確となり、その後の団内の議論に多少なりとも役立ったと思っている。その意味でも、審議会の議論が基本的に公開されていたことの意義は大きかった。
審議会の議事録を読むと、それなりのダイナミズムを感じることができた。少数ではあるが、高木委員、中坊委員、吉岡委員などが国民要求を何とか反映させていこうと熱心に努力していることがよく分かった。審議会の中も外も、坂本さんのいう「せめぎ合い」という表現がまさに的を射ていた。
しかし、国民要求を反映させようという委員は残念ながら少数であり、各論点の取りまとめも、多くの重要な問題が「意見の一致をみなかった」ということで、先送りされてしまう危険があった。私たちの「意見書」は、こうした点については厳しく批判する内容になっていたし、そのことは当然であると思っていた。ただ、だからといって審議会を頭ごなしにダメだと決めつけていたわけでは決してなく、審議会の意見に可能な限りの国民要求を反映させることをねばり強く求めていたのであり、そのことは一方で国民運動を積極的に進めていくことの決意の表明でもあった。
この意見書の原案ができあがった時に、日弁連で司法改革について活躍している何人かの団員と意見交換をする場をもった。その時にある団員から、私たちの作成した意見書の原案に対して「プレイヤーが必死で頑張っているのに、サポーターから石をぶつけられたような気分だ。」といわれたことを今でも鮮明に覚えている。その時は、余りの衝撃に「えっ」という感じだったけれど、時間がたつにしたがって「それは間違ってるだろう」という思いが沸々と湧いてきた。「あんたらがプレイヤーで、わしらはサポーターかい」という、もの凄い違和感を感じたのだ。当時も今もそうであろうと思うのだが、日弁連が審議会などにその意見を反映するために、多くの人々(その中には団員も多く含まれている)がそれこそ心血を注いでいることだろうし、その努力は私などの想像を絶するものであるに違いないと思う。そうしたことに対して、心から敬意を表するのに全然やぶさかでない。しかしながら、当事者意識というのか、審議会との一体感とでもいうのか、そうした思いがいささか強過ぎるのではないかという感じがしたのも事実だ。全員が全員というわけではもちろんないけれど、「プレイヤー・サポーター」という発言はおそらく本音なのだったろうと思う。けれども、団が司法審との間にスタンスを置くことは絶対に必要だし、批判すべきところをきちんと批判していくことによってしか前進は生まれないと思う。そして、こうした批判は日弁連で活躍している人たちの努力を無駄にしたり、意欲を削ぐようなものではなく、むしろ逆にはたらくものだと確信している。
しかし、審議会の内情を聞いて、思い直すところも少なくなかったし、初めて知ることも多かった。ただ、先の刺激的な発言もあったりして、私はかなり混乱していた。財前さんも一緒だったと思う。この会合の後、私と財前さんと鈴木幹事長と三人で飲みながら、今後の対応を話し合った。鈴木さんが帰った後も、財前さんと二人で後楽園のラーメン屋で遅くまで話し合った(もう、そこしか空いてなかったのだ)。そして、二人で分担を決めて一定の部分について修正することにした。しかし、そのことが常幹で新たに激烈な批判をあびることになる。
二〇〇〇年の宇奈月温泉の総会は、そうしたすったもんだの末の総会だった。大学の先輩からは「お前も本部派に成り下がったのか」みたいに酔ってからまれたこともあったが、執行部としては、何の思惑もなく、ただ団内の一致点を築いて運動に踏み出したいということだけだった。当時を振り返ると、意見書に自分の意見を反映させようというよりも、どう書けば一致点が作れるのか(というより、文句をいわれないのか)という思いに終始しすぎていたようにも思う。表現ひとつをとっても気を使っていた。財前さんと二人で「そんなに文句あるんなら自分で書いてみろよ」なんて愚痴っていたことも少なくなかった。
司法改革は、まさに今重大な局面を向かえている。今後、これまでにもまして団の真価が問われることになるだろう。
(あと一回だけつづく)
ホームページ・広報委員会 担当事務局次長 馬 屋 原 潔
自由法曹団への新入団員はここ五年間三〇名前後を推移してきています。五三期、五四期から、修習生全体が八〇〇名程度いますので、修習生全体に新入団員が占める比率は四%に満たないものとなっています。
このままの傾向で推移していった場合、遠くない将来には、団員総数が減少しはじめる時期がくるかも知れませんし、組織と活動を発展させる上で様々な困難も生じてしまいます。
そこで、団をあげて今後意識して後継者づくりの問題に向けて取組む必要があるのではないかと考えます。
司法改革・ロースクール化の中で団をどう発展させるかという観点からの継続的な取組について討議する場は別途もうけることを検討しています。当面の取組みとして、各支部におかれましては、実務修習中の修習生や修習予定者に対して団を紹介する活動を積極的に行っていただきたいと存じます。
現在、「自由法曹団への招待2000」が三千部あります。印刷のためにお待たせすることはありませんので、必要な部数をご連絡をいただければすぐに発送いたします。学生、修習生むけに活用する場合には無料でお渡ししています。
以上のような状況ですので、各支部におかれましては、是非、「団への招待」を活用して、新入団員の確保に向けて取り組まれるよう、お願いいたします。
事務局長 中 野 直 樹
昨年一〇月二六日に行われました「二一世紀をきりひらくー自由法曹団創立八〇周年記念のつどい」の収録ビデオテープができました。
第一部の構成劇「正義を求めてー民衆とともに」、第二部のリレートーク「憲法・人権・二一世紀」を各一巻ずつ編集しました。つどいの様子は、団通信一〇三八号(二〇〇一年一一月一一日)で井上洋子次長が紹介しています。当日は会場の音響効果が悪く特に後部座席は聴き取りづらい状況にあったようですが、このビデオでは音声もクリアーに記録されています。各支部に一セット贈呈することとし、すでに送付済みです。当日参加されなかった団員の皆様、ぜひとも観てください。また学生・修習生に自由法曹団の姿を知ってもらうための道具としても有効です。
活用を期待します。