<<目次へ 団通信1126号(4月21日)
坂 勇一郎 | 「敗訴者負担」を巡る国会情勢と五・二〇日弁連集会 | |
村田 智子 | 「財政」からみた2・5 | |
杉島 幸生 | 「非戦の哲学」(小林正弥著)を読んで | |
吉田 栄士 | 団・東京支部韓国平和ツアー | |
山本 真一 | 三・二八韓国・民弁との交流会 報告 韓洪九の「韓国現代史」を読んで |
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神田 高 | メディア寸評ー日本が支えるアメリカの行く末 | |
中野 直樹 | 労働審判制度の学習会のご案内 |
担当事務局次長 坂 勇 一 郎
法案提出と国会情勢
三月二日の閣議決定を経て、「裁判上の合意による敗訴者負担」を導入する「民事訴訟費用等に関する法律の一部を改正する法律案」が国会に提出された。「裁判上の合意による敗訴者負担」については、さまざまな団体から労働契約・消費者契約等に「敗訴者負担合意」を書き込まれる弊害が指摘され、司法アクセス検討会の多くの委員から懸念が表明されていたが、司法制度改革推進本部はこの点に何らの配慮をすることなく法案を作成・提出した。
閣議決定に先立つ二月二四日、「敗訴者負担に反対する全国連絡会」の主催で国会内集会が開催され、約一四〇名の参加をもって大きく成功した。集会には公明・民主・共産・社民の議員が顔を連ね、国会内に「裁判上の合意による敗訴者負担」の問題点を大きくアピールする機会となった。また、国会内集会に前後して各市民団体・労働団体等が国会要請を行い、多くの市民層が同制度導入に反対していることを示した。自由法曹団も二月一二日の国会要請、三月二四日の国会要請において意見書を提出し、法律家集団の立場から問題点を明らかにした。
こうした取り組みにより、「裁判上の合意による敗訴者負担」の問題点が国会内に浸透させることができ、法案は対決法案となることが確実となった。他方、今国会は参議院選挙のため日程がタイトとなっている中で、裁判員法案をはじめとして司法改革関連法案が目白押しであり、今国会で敗訴者負担法案を通過させることは次第に困難な状況となってきている。しかし、国会情勢はなお流動的であり、司法制度改革推進本部の設置期間が本年一一月までであることから、油断することは出来ない。また、仮に今国会で通過しなかったとしても、秋の臨時国会において法案通過を図ってくることは間違いない。
五月二〇日日弁連集会
自由法曹団は、全国連絡会等他の市民団体とともに「裁判上の合意による敗訴者負担」に反対して、この間国会要請等の取り組みを行ってきた。他方、日弁連は「裁判上の合意による敗訴者負担」の弊害除去の立場から、(1)労働裁判・消費者裁判・格差のある業者間の裁判に「裁判上の合意による敗訴者負担」を導入しない、(2)労働契約・消費者契約・格差のある業者間の契約における「敗訴者負担合意」を無効とする、立法措置を求めて「このままでは合意による敗訴者負担の導入を許さない」という運動を展開している。
重要な弊害をもっている現法案通過を許さないという点で、市民団体・日弁連は一致してさらに運動を展開していくことが、この間確認されてきている。当面重要な課題は、今国会での法案通過を許さないこと、そして、夏から秋にかけての闘いの陣固めを行うことである。
日弁連は、左記のとおり市民集会を開催する。是非これまで敗訴者負担反対で一緒に闘ってきた団体や個人に、そしてそれ以外の多くの団体や市民にも参加を呼びかけて欲しい。
記
「このままでは合意による敗訴者負担の導入を許さない集会」
日 時 五月二〇日(木)午後六時〜午後八時三〇分
場 所 弁護士会館二階クレオA
東京支部 村 田 智 子
2・5ピースキャンドルナイトのお礼
三月二九日、2・5ピースキャンドルナイトのカンパが全一八七万五八〇六円、全額集まりました。これで、2・5の業務はすべて終了し、あらゆる意味で、2・5は成功に終わったと言えます。本当にありがとうございました。
「財政」からみた2・5
私は、2・5の財政の副責任者を務めてきました。
これまでの間、2・5の感想を書こうと思ったことはありませんでした。「お金、ちゃんと集まるかな」ということで頭がいっぱいで、「振り返る」という気分にはなれなかったからです。でも、今になって、「2・5の財政をきちんと振り返るという作業は必要かもしれない」と思うようになりました。
2・5は、自由法曹団、新宿の地域の民主団体、中央団体や都レベルの団体、そして個人が「二月五日のピースキャンドルナイト一回のために」、「自主的に」つくりあげた運動であり、それゆえにすばらしいものでした。けれども、財政の面から見れば、その「一回性」「自主性」故に、通常の運動の財政に比べて、考慮しなければならない点がありました。
今、季節はもう春真っ盛り。運動も、イラク派兵反対から戦争法制反対へと大きく動いています。その中で、いまさら2・5のことを書くのは我ながら恥ずかしいのですが、忘れてしまうにはあまりにも惜しいので、思い切って、「財政からみた2・5」を書いてみたいと思います。
財政規模はどれくらい?
当初、2・5の財政について心配する声はほとんどありませんでした。一月七日に開かれた団内の会議では、「予算規模は多くても一〇〇万円」という話でした。「それなら、当日のカンパで賄えるね」ということで、翌日の実行委員会でカンパを募るという話もとりやめになりました。財政面での責任者として、平和元団員が決まったものの、平団員の下で実務を担当するスタッフについては決めないままでした。「財政は、終わってから、足りない場合に考えれば十分」という雰囲気だったと思います。
最初に「このままではいけない」と指摘をしてくれたのは、団の専従事務局の阿部さんでした。一月二〇日過ぎ頃、2・5の実務担当者宛のメールで、「チラシも当初の予定より増し刷りされているし、集会の規模も膨らんでいる。早急に手をうったほうがよいのではないか」という趣旨の指摘をしてくれたのです。これを見て、私は財政の副責任者を引き受けました。一月二三日のことでした。
その後、数日間で、今まで費用を立て替えていた都民中央法律事務所、団本部、団東京支部に、支出額及び支出予定額を出してもらって計算したところ、予算規模が一八〇万円を超えること、ひょっとしたら二〇〇万円にのぼるかもしれないこと、立替のうちほとんどが都民中央法律事務所の負担となっていることが判明しました。
念のため申し上げますが、私は、財政の規模が膨らんだことを問題視しているわけではありません。これは運動が大きく広がった故の、必然でした。たとえば、最初はゴスペルの方々があんな形で歌ってくださることまでは本決まりになっていませんでした。途中で、「ゴスペルの方々には宣伝カーの上で歌ってもらう」という案も出たりしながら、あのように、石段の上をステージにみたてて歌っていただくという形に落ち着いたと聞いています。ゴスペルがなければ、音響費用は不要だったかもしれませんが、あんなに感動する集会になりはしなかったでしょう。また、「宣伝カーの上で歌う」という形式だったら、明らかに見劣りしていたと思います。これは一例であり、すべてについて、運動が拡がるゆえに、費用はかかり、それは喜ぶべきことだったのです。
どうやってお金を集めよう・・・
とにかく、早急にカンパを集めなくてはならない事態となり、すぐに専用の送金口座を開設し、二八日の第二回実行委員会でカンパの訴えをすることになりました。
問題は、カンパの集め方でした。実行委員会の前の事務局会議で話し合いがもたれた結果、「各団体〇〇円というような割り振りはしない」ということになりました。「自主的な」運動である2・5の成り立ちや経緯からして、そんなことはできなかったのです。
団内でカンパを募るタイミングについても意見が交わされた結果、「まず、団体や個人から任意のカンパを今から募り、当日カンパもできるだけ集める。それで足りない分は、事情を説明した上で、団内で集める。」ということになりました。それでも、事前にカンパをくださった団員や団事務所は結構あり、非常に助かりました。
二月四日の時点で集まったカンパは約一〇万円。なんといっても、勝負は当日カンパでした。ところが、この当日カンパについて、いったいどれくらい集まるのか、想像もできませんでした。「とにかく、当日カンパで七〇万円は集まって欲しい。事後に団内でカンパを呼びかけるとしても、一〇〇万円を超えてしまうのでは無理が生じるかもしれない」というのが当時の私の正直な気持ちでした。でも、「寒くて重いコートを着ている」「片手にキャンドルを持っている」「第一グループが出発するのは集会開始からわずか二〇分後」ということを考えると、「多くて三〇万円から五〇万円かもしれない」と思い、不安でした(財政の責任者の平団員も「五〇万円集まれば成功です」とおっしゃっていましたから、これはそんなに悲観的な予想ではなかったのだと思います)。
他方で、「二〇〇万円は軽いよね。持ち帰れないんじゃない?」という意見を言う人もいました。私の夫でした。それもほぼ毎朝、このように言ってくれました。私は、彼が楽観主義者であることを結婚一一年目にして初めて知りましたが、結構、救われました。
当日のこと
当日のカンパスタッフは、平団員と、助っ人で入ってくれた渡辺登代美次長、私のほかは、都内の事務所の事務局でした。事務局長ないしはそのクラスの五名が、班長として、各班のメンバーを監督してくれました。班長は阿久津(代々木総合)、遠山(東京合同)、山口(旬報)、有野(東京)、本木(北千住)の各氏でしたが、この方たちが、本当に、つわもの揃い。事務処理はすごいし、どんどん仕切ってくれるし、心強いなんていうものじゃなかったです。
中でも一番嬉しかったのが、班長さんたちが「カンパを集め終わったら、日本青年館に戻って、ざっとお金を数えます」と主張してくださったことでした。当初の予定では、「私と(同じ事務所の事務局長である)本木さんがカンパ袋を預かってすぐにそれぞれ自宅に持って帰る。当日、カンパの金額を数えたりはしない」ということになっていました。これは、「できるだけ多くの方にパレードに参加して欲しい」という実行委員会側の配慮でしたが、班長さんたちは、「本木さんと村田さんだけがすべてを請け負うんじゃかわいそうだよ」、「ある程度その日のうちにカンパの額が分かったほうが、解散地点でも発表できて、みんな嬉しいし盛り上がるよ」、「それに、私たちは最初からパレードに参加できるなんて考えていないですよ」と口々に言ってくれました。
カンパを集め終わった後で、班長さんたちと日本青年館の部屋に戻って、淡々とお金を数えました。私も「お金数え」に入れてもらいましたが、はまりました。やっぱり、お金っていいものです。触っているだけで幸せな気分になります。概算をした結果、八三万円以上になっていることが分かり、皆、嬉しくて、すぐに松島事務局長に電話で伝えました。解散地点で「八〇万円以上のカンパがありました」と報告されたことについてはご存知の方も多いかと思います。
その後、本木さん私とで、カバンに(本木事務局長はザックに)お金をつめて持ち帰りました。本木さんのザックは重くて、腰を悪くするのではないかと皆で心配したほどでした。一緒に総武線に乗って帰ったのですが、電車が市谷駅のホームに停まったとき、本木さんが「2・5のマイクの声が聞こえますよ」と教えてくれました。あのときの情景は、はっきりと覚えています。
翌日、朝一番で銀行に行ったところ、カンパ総額が八四万を超えていることが分かり、ひとまずほっとしたとともに、「班長さんたちと数えた金額と七〇〇〇円程度しか違っていない。」という、ある意味でマニアックな喜びに浸りました。
赤字をどうしよう
2・5終了時点では、必要なカンパの額はあと八五万円程度、その後の送金カンパにより、二月二〇日の時点ではカンパ総額は一二〇万円を超えました。それでもまだ六五万円程度は必要でした。
団内での本格的なカンパ呼びかけはまだでしたので、大丈夫だろうと思ってはいましたが、やはりときどき不安になりました。不安になった理由は、一つには、私が極度の心配性であること、二つ目は、今年は早く春が来て暖かくなってしまったこと、三つ目は世の中の動きが早く、運動の中心もイラク派兵反対から戦争法制反対に移りつつあったからです。「2・5のことなど、みんな忘れてしまうのではないだろうか」と思ったことも何度かありました。
でも、これは、全くの杞憂でした。私は団の底力を知らなかったのです。二月下旬に、「全国の支部で総額三〇万円程度、都内の事務所で総額三〇万円程度を集める」ということが決まり、三月上旬から中旬にかけて、全国については団本部の事務局長から、都内事務所については東京支部からお願いがなされると、後は順調にカンパが集まってきました。
カンパは、文字通り、北は北海道から南は沖縄まで集まりました。私は事務所で専用口座の預金通帳等をチェックするたびに、2・5に直接参加されなかったであろう団員や事務所、支部が、諸課題が押し寄せる中で、もう終わってしまった2・5についてこんなに心を寄せてくださっているのだと実感し、胸を熱くしていました。
黒字は出しちゃ駄目!
さて、「カンパがたくさん集まった=おめでとう。次の運動に活かそう」とならないのが、今回の財政のもう一つの難点でした。「一回きり」のイベントであり、しかも複数の団体や個人が関与していたので、残ってしまったらどうしようもならないわけです。「最後は、一円もオーバーしないようにきっちり収めるように」というのが、先輩諸氏から再三言われていたことでした。そのために、私の所属する北千住法律事務所は、「一定の金額以内であれば、ある程度の時点で端数も含めて事務所から出してよい」という権限を私に与えてくれました。身内を褒めるようで恐縮ですが、この裁量権付がなかったら、きれいに閉めることはとても無理だったと思います。
最後の閉めの作業は、三月二四日(火)から始まりました。この時点で、この後に必要なカンパの額は一五万円を切っていました。松島事務局長と相談して、カンパを送金いただく事務所と支部を絞り込み、団内の各MLで「ここに書いた事務所と支部以外は送金しないでください」とお願いし、逆に、送金いただきたい事務所や支部には早期の送金をお願いしました。そして、二六日(金)には、これも松島事務局長と相談し、二九日(月)の午前中に専用口座を閉めるということを決めました。
このようにいろいろ配慮はしたのですが、二六日(金)夕方の時点で、私は、二九日午前中の時点で専用口座の残金がいくらになるのかについて、一〇〇%の予想はできていませんでした。「〇〇万〇〇円である可能性が一番高い。でも、それより三万円多いかもしれないし、三万円少ないかもしれない」という状態でした。そこで、三つのケースを考え、それぞれのケースについて、北千住法律事務所のカンパ額を想定し、二九日に備えました。
二九日午前中、予定通り、専用口座を閉め、三月末までに、費用を立て替えていただいていた都民中央法律事務所、団本部、団東京支部に、お支払いすることができました。
今、振り返って
個人的な感想を申し上げると、2・5の財政の実務そのものは、たいして大変ではありませんでした。先輩諸氏が相当部分を担ってくださったからです。
むしろ、つらかったのは、私にとっての2・5の意味が変質してしまったことでした。財政の副責任者となる以前は、2・5は、「運動」であり、「面白そうなイベント」でした。でも、財政の副責任者となった瞬間に、知らぬ間にスイッチが切り替わり、2・5は「業務」になってしまいました。よって、「高揚感」とか、「躍動感」とか、そういったものとはほとんど無縁で、「お金のことしか考えられない」状態に突入してしまったのです。まぁ、ほとんどの実務スタッフにとっても同様で、2・5は「実務」だったのではないかと思いますが。
「高揚感」「躍動感」の代わりに、今、私に残されたのは、静かだけれど深い充足感。そして、「誇り」。何に対する誇りかというと、「財政という大切な場面で、自由法曹団が、最後の最後まで2・5を支えてくれた」という誇りです。ここでいう自由法曹団というのは、本部、支部、事務所、弁護士はもちろん、専従及び各事務所の事務局も含めて、です。
「2・5の財政がうまくいく」ということは、自由法曹団の長い活動の中で、当然に予定されていたことでした。そのことを過大評価するのは間違っているのかもしれません。でも、考えてみてください。仮に、2・5で赤字が出たり、逆に黒字が出てどうしようもなくなったり、カンパを集め切るために無理が生じたり、収支に不鮮明なところがあったりしたら、私たちにはなんとも言えない嫌な後味が残ったであろうと思います。そんなことにならずに本当に良かった。そして、そんなことにならなかったのは、皆さんが、協力してくださり、暖かい気持ちを寄せてくださったからなのです。
だから、どうか、皆さん、2・5の財政が最後までうまくいったこと、言いかえれば、2・5という新しい形態の運動を私たちが支えきったということについて、誇りに思ってください。
最後に、本当に、ありがとうございました。
大阪支部 杉 島 幸 生
1、今年の五月集会の記念講演は、千葉大学の小林正弥教授と決定した。推薦者である松島事務局長によれば、小林教授は自衛隊合憲論ではありながらも専攻する公共哲学の立場から自衛隊の海外派兵に対して厳しい批判を続け、自らも新しい平和運動を提唱して積極的に活動されている方とのことである。そこで、私も興味を引かれ、さっそく小林教授の著書「非戦の哲学」(ちくま新書)を読んでみた。
2、小林教授は、本書において現代社会を分析する際に文明論的観点をとることを強く強調し、九・一一以降の世界を「イスラム文明対西洋文明」の構図が現実化しつつあると指摘される。もっとも教授は、西洋文明とイスラム文明の衝突を必然的なものととらえ、イスラム文明への対抗を唱えるハンチントンのような議論(「文明の衝突」)に対しては批判的であり、現在のふたつの文明の対立は必然的なものではなく、アメリカ帝国主義が採用する帝国主義的諸政策により現実化されたものと考えている。
ふたつの文明の対立が必然的なものでなく、回避可能なものである以上、その対立を現実化させる諸施策は「公共悪」として否定され、対立を回避するための諸施策こそが「公共善」として求められることとなる。ここからアメリカ帝国主義が行ったアフガン報復戦争は、国際法に反しているだけでなく、文明の対立を深めるものである点で許すことのできない「公共悪」と位置づけられることとなる。
続けて教授は、文明論的な観点からイスラム文明と西洋文明を調停することのできる「第三の道」として、日本の伝統である「和」の観念の見直しを提唱される。排他的要素を含む原理主義とは一線を画す「和」の観念こそが、「文明の対話」を可能にすると言うのである。そして、そのために日本は、西洋文明への盲目的追随、とりわけアメリカへの追従外交を放棄しなければならないとする。
3、このように教授は、日本がとるべき「第三の道」を提唱され、その法律的、政治的、思想的な「聖典」としての日本国憲法第九条の擁護を強く訴えられる。ただし教授は、従来の護憲運動が第九条を「一国平和主義」的なものとしてとらえてきたと理解されており、それに対する強い批判を隠さない。また、教授は、戦後の平和主義は、冷戦下の左右対立のなかで「和」の観念を軽視したことから国民のなかに定着することができなかったともいう。
しかし、「和」の理念をつとに強調しつつも、小林教授は憲法九条については「自衛隊合憲論」の立場をとるべきであるとする。冷戦下の戦争は直ちに人類の危機を招くことになるがゆえに「絶対的平和主義(非武装中立)」が意味を持ちえたが、冷戦後の現代社会においては、局地戦・地域戦争が現実のものとなっている以上、それに対抗する手段(自衛戦争)を提唱するのでなければ国民の支持をえられないというのである。「絶対的平和主義」は、「信条倫理」的には肯定されるが国民の支持をえられず、結果として平和主義を貫徹できないゆえに、「結果倫理」の立場からは肯定できないとするのである。教授は、自己の立場を自衛戦争を肯定する平和主義(武装中立)という意味で「徹底的平和主義」と定義し、これを「理想主義的現実主義」と呼ぶ。
さらに教授は、従来の平和運動は、誤った理論(マルクス主義、史的唯物論)に立脚しているがゆえに失敗せざるをえないとする。既存の平和運動は、唯物論と階級闘争史観に基礎をおくがゆえに、「精神的・倫理的な側面が軽視され」、結局、「運動それ自体の退廃や敗北をもたらす」ものであり、これに変わる新しい運動論として、「水平的・多中心的・柔軟・開放的な組織ないしつながり」を結びつけるネットワーク型の運動(「関係論的運動論」)を提唱し、インターネット上で自らそれを実践されている(HP「公共哲学ネットワーク」)。
要するに冷戦崩壊後の現代社会において結果倫理(世界平和)を実現するためには、絶対的平和主義ではなく徹底的平和主義が、かたい組織論・運動論ではなく関係論的運動論が、闘争ではなく「和」の観念にたつ運動こそが必要であり、従来型の平和運動・組織は克服されなくてはならないというのが教授の結論のようである。本書が「反戦の哲学」ではなく、「非戦の哲学」とされているのは、従来の平和運動との差異を強調せんがためとのことである。
4、伝統的左翼文化のなかで育った私にとって、こうした小林教授の論説は正直にいって、大きな違和感を感じざるをえない。
マルクス主義や史的唯物論への誤解は別としても、戦争の構造を分析し、この戦争が誰のためのものなのかを明らかにするのでなければ、へたをするとどっちもどっちという結論になりかねないし、その構造が戦争以外の分野(社会の階層化や治安強化など)とどう結びついているのかという点は少しも明らかにされない。また対米追随という現実のもとで教授のとなえる徹底的平和主義が果たして実現可能であるのかという点についての検討も欠いている。
またネットワーク型の運動論といっても、その担い手が形成される論理が明らかにされるのでなければ、結局、啓蒙主義にとどまるしかない。教授は、従来型の平和運動を敗北せざるをえないものとするが、「冷戦終結」にもかかわらず、今なお従来型の運動が影響力をもち続けていることを無視しているし、ネットワーク型の運動論を提起したかつての「ベ平連」型運動の帰趨をまったく検討しないのでは公平な論評とはいえない。
5、私個人としては、教授の世界観や方法論を受け入れることはできないし、率直にいって理論的にも運動論的にも誤りであると思う。しかし、従来の平和勢力に対する教授の批判を無視することは正当とは言えないし、運動のあたらしい側面に対する指摘には傾聴すべきものがある。そして、なによりテロ特措法を「クーデター」と呼び、「憲法学者に限らず、法の守護者たるあらゆる法学者や法律家、また政治に専門的に関わる政治学者や政治家が、自らの職業の矜持と存在理由とを賭して、この不正行為を批判すべき時」という教授の主張には全面的に共感を覚える。
国民的な護憲の運動を呼びかけている団が、改憲が現実的な政治課題となっているこのときに小林教授のような立場の方と護憲という一致点で協同の取り組みを行うことはきわめて重要である。教授が快く五月集会での記念講演を引き受けてくれたことは、教授自身のそうした姿勢の現れであろう。必要な批判は留保しつつ、様々な立場の違いを乗り越え護憲のための統一戦線を作り上げることは、改憲を阻止するために必要不可欠な課題である。そういう意味で私は五月集会での小林教授の講演を楽しみにしている。平和のための共同行動の小さな一歩として。
東京支部 吉 田 栄 士
東京支部創立三〇周年行事として韓国ツアーを企画した。三月二六日から三一日までA.B.Cの変則三コース、民主社会をめざす弁護士集団(民弁)、市民団体との交流をメインに、ソウルの繁華街でイラク派兵に反対する街頭宣伝をしようという計画だ。東京支部企画であるが、秋田(金野和子さん)、埼玉(山崎徹さん)、神奈川(渡辺登代美さん、事務局の鈴木さん)を含め総勢四五名。弁護士二七名中五〇期台が八名、四〇期台を含めると一六名、中堅、若手が中心のはつらつとしたメンバーになった。二六日からのAグループは一九名、夕刻にソウルに着いた。
二七日はソウルを離れ、一九一九年三月朝鮮半島全土に広まった三一運動そして徹底した弾圧、その跡地を辿った。三一運動家を教会に押し込め火を放ち焼死させ村全体を焼きはらい村民を惨殺したチアムリ村記念館、三一運動の中心となり拷問の末獄死した一六歳の少女ユガイスン祈念館、痛ましい歴史を刻んだ独立記念館、日本人として涙の出るつらい思いだ。
二八日ソウルに戻り、景福宮にある一八九五年伊藤博文内閣が暗殺したミョンソン皇后(ミンビ)の碑、私が代表して碑に献花し、一八人が後に控え全員で黙祷した。戻ろうとしたら、孫を連れた七〇年輩の方が私の所に近より、強く私の手を握り「ありがとう、ありがとう」と声をかけてくれた。伊藤を射殺した安重根記念館、アンジュングンが処刑されたのは三月二六日ということで遺影に多くの献花が捧げられていた。植民地時代独立運動家を虐殺した西大門刑務所歴史館、粗末な死刑執行小屋が、つらい。ユガイスンもここで獄死した。B、Cグループはこの日から参加。なおCグループは私の所属する八王子合同メンバー、事務所も三〇周年記念旅行ということで一八人で参加した。
二九日は今回のツアーの主題、民弁、市民団体との交流。午前は二手に分かれ、一つは民族統一全国連合という平和団体、一つは非正規労働センターという労働団体との交流。
午後は、民弁とのシンポジウム。このシンポには各四報告づつを準備した。民弁側は大統領弾劾裁判、総選挙を控え多忙で参加者も少ないとの事だったが、会長、委員長以下本部役員が揃い、驚いたことには、資料として報告レジュメが立派な二か国語の「東北アジアの平和をめざす韓日法律家交流会」という本になって渡されたことだった。これは担当の笹本さんも知らなかったことで民弁の意気込みが窺われた。団側の報告は山崎徹さんの「自衛隊のイラク派兵をめぐる状況」、渡辺登代美さんの「改憲問題について」、田中隆さんの「有事七法案と日本の状況」、山本真一さんの「東北アジアの平和構築と憲法第九条」。それぞれよい報告だったが、特に山崎さん、渡辺さんの報告は歯切れが良かった。民弁側は「イラク派兵の違憲性」、「韓国の米軍基地反対運動の現状と課題」、「韓国社会における良心的兵役拒否権」、「韓国のベトナム戦争民間人虐殺真相究明運動と平和博物館建設運動の背景と意味」の四報告。最も共鳴し印象に残ったのは、戦争被害を訴えている韓国民がベトナム戦争ではベトナム民間人を虐殺した、その真相を究明し事実を示した上で平和を希求する博物館をベトナムに建設しようという運動の報告だった。この運動は軍人組織からは脅迫や攻撃がされている。その中でメンバーは、「我々はいつも被害者だったのか、韓国には戦争被害を訴える戦争記念館は数多くあるが平和記念館はない、平和記念館はベトナムではなく韓国にこそ必要だ」そのような問題提起から、今、韓国各地に平和記念館を建設しようという募金運動を始めている。募金の母体となったのは日本軍性奴隷被害者達(慰安婦)の拠出した基金とのことである。シンポの終わりに共同声明を採択した。そのあとの懇親会も良かった。時間の関係上五人づつの挨拶だったが、最初の長尾詩子さんの率直な挨拶は好感がもてた。大山勇一さん、金竜介さんの挨拶もよかったが、圧巻は最長老の金野さんの感動的な語りだった。団側は四位さんの歯切れのいい挨拶で終えた。民弁側もざっくばらんに運動や現在の問題点、要望、拉致問題の捉え方などを語った。雰囲気としてはまさに団の二次会の気安さで、これは繋がっていけるなという思いを持った。それは向こうも同じようで民弁会長は最後に、是非にということで、感慨を込めてその思いを語った。
三〇日は大方は帰国の日であるが、北朝鮮を展望する統一展望台、非武装地帯イムジン川越えツアーの組と、明洞(ミョンドン)街頭宣伝組にわかれた。私は街頭宣伝組。ミョンドンは渋谷か新宿かというような今風繁華街。民弁との共同で両国のイラク派兵に反対する宣伝とビラ配布。横断幕の下、日本語で演説しそれを通訳してもらうという形式。途中、「靖国をそのままにしてなんだ、日本に帰れ」という強烈なクレームがあり、我が方を擁護する紳士との韓国人同士の言い争いになったり、それなりに面白かった。マスコミも五社位来ていて、その後の報道によると、「ミョンドンの街で日本人に出くわすのは韓国人に会うこと位たくさんあるが、示威宣伝をしている日本人は大変珍しい」と報道された。
三一日、八王子合同グループは一日延ばして、この日は統一展望台、イムジン川越えをした。分断の悲劇の現状、哀切のイムジン川、かの北朝鮮を目の当たりにする。
ともあれ、平和への思いを今更ながら強くし、世界の平和団体と手を組む意義、特にアジアの結束の必要性を強く感じた三〇周年企画旅行だった。日本を変えるのは世界の平和を希求する力の団結だと思う。これが今回のツアーの確信である。
東京支部 山 本 真 一
二〇〇三年初めに韓国で出版され、三五〇〇〇部を越えるベストセラーになった韓洪九の「大韓民国史」の日本語訳です(平凡社)。まずその一節からご紹介しようと思います。
「なぜともに生きていかねばならないのか」
ここでぜひ一つだけ指摘したいことは「撲滅の記憶」についてです。ともに生きる社会とは、自分が好きな人や自分に盲目的に服従してくれる人とともに生きることではありません。ともに生きる社会とは、自分が嫌いな人や憎む人、欠点のある弱者や少数者たちともともに生きることです。なぜともにいきていかねばならないのでしょうか。弱者や少数者の人権を尊重しなければならないというのは、孔子の言葉でもあります。人類がともに生きる社会を作ろうとするには、実は、気に入らないことをすべて排除することはできないし、また排除するには相当の代価を支払わねばならないことを学んだからです。ですから気に入らなくても我慢して生きていこうと考えるようになったのです。しかし韓国で「主流」を自認する人々は、ともに生きる社会を創る知恵と寛容の代わりに気に入らないものは撲滅し片づけてしまった記憶を持っています。だから気に入らない人々を見ると、またきれいさっぱり片づけようとします。
撲滅の記憶を自らの手でぬぐい去ることは、韓国がともに生きる社会に向かうために必ず通らねばならない関門です。そして、民間人虐殺に関する統合特別法はその機会をわれわれに提供してくれるのです。「「私を支持しない者はすべて敵である」というブッシュ現大統領の力の論理が横行する時代に、我々の道徳と常識は再び試されているのです。」(一四四〜一四五頁)
ここでいう「民間人虐殺」とは何か。私はここ数年、徐勝さん(立命館大教授)に誘われて光州や麗水等でのシンポに参加しました。そこでフィールドワークとして現代韓国の「民間人虐殺」の現場やお墓などを見てきた。しかし率直に言ってその意味はよく分かっていなかった。この本を読んでようやく少しその意味が判ってきた。皆さんにも是非読んでいただきたいと思って紹介します。
この本は、これまで韓国社会では「取り上げること自体がタブー視されていたあらゆる問題」(本書序文四頁)の多くに触れています。親日残滓清算問題、民間人虐殺問題、反米感情問題、上流階層の兵役拒否問題等々です。「これらすべての社会問題には歴史的な根があり、そうした根を洗い出すことが進歩的市民運動の発展にとって緊要だ」という問題意識(本書序文四頁)で書かれています。「韓国ではこの本は普通の歴史学者の著述とは違うと評価されたが、それは…歴史研究の成果を必要とする人々がいる現場で、彼らとともに飛び回り呼吸しながら書いたものだからである」と著者自身が述べているように、韓国の民主化闘争の現場に身をおきながら書かれた「実践活動のたまもの」でもあります(訳者の高崎宗司教授の言葉。三二〇頁)。
私もこの本を読んでいて、これまで日本の我々がほとんど「タブー視してきた」日本の近現代史について改めて考えさせられました。すなわち一八七六年の日朝修好江華条約で朝鮮の人々に不平等条約を押しつけて(当時の日本の国家目標はまさに欧米帝国主義諸国が日本に押しつけた不平等条約の撤廃でしたのに、それと同じものを朝鮮の人々に押しつけた)以来、一九四五年の「敗戦」までの六九年間、近代日本が「脱亜入欧」の掛け声の下で行ってきた諸行動に対して、特に「天皇制」や「日本軍国主義」の問題に対して、この本の著者のような自由な批判精神で向き合ってきただろうか。また一九四五年から現在までの約六〇年間についても朝鮮半島やアジア諸国とそこで生きる人々と日本人の問題に対してどうだったろうか、と改めて考えさせられました。日本の「戦争責任」や「戦後責任」の問題と一言で済ませられない重い課題が山ほどあるのに、それに誠実に向き合えてはこれなかったのではなかったか!
それにつけても、今回のソウル訪問は、改めて現代の韓国の若いみなさん(同時に「民弁」のみなさんでもあります)の「勇気」というか「正気」というか、その迫力に圧倒された旅でもありました。ここ二〇年ほどの韓国の「民主化」の進展はおそろしい程です。戦後約六〇年、おなじ時代と期間を生きてきたはずの日本人と韓国人の生き方がどうしてこれほど大きく異なったのか。その答えの一つがこの本を読んで判ったような気がしました。
確かに、この間の日本は「平和」でした。「民間人虐殺」と言うにふさわしい事態は「松川事件」とか「メーデー事件」等、無かったわけではないと思いますがさいわいほとんど無かったといえるのでしょう。しかしいまイラクに派兵し、北朝鮮を叩きつぶせと呼号し、憲法九条はもう古いと言う日本の一部の人々の思考経路は、改めて日本軍国主義や絶対天皇制の持つ「撲滅の記憶」を蘇らせているのかもしれないという恐れを感じます。また「本当の保守」と言える人々も日本のなかにはどんどん少なくなっているのかなという感想も持ちました。これらに対して現在の我々はどのように対応しようとしているのか。まだ十分な合意は形成できていないのではないでしょうか。そのためにもこの本を是非一読していただきたいと思っています。
東京支部 神 田 高
1“日本が支えるアメリカ”
『軍縮問題資料四月号』で福田邦夫明大教授は、「ブッシュの戦争と経済破綻」の中で“日本国民の税が支える米国の財政赤字”を論じている。
世界の軍事費の半分以上を使って軍事覇権を維持するためには膨大な資金が必要だが、米国経済は今や完全に破綻している。〇三年の一一月までの貿易赤字は四七兆円(約四四〇〇億ドル)で、〇四年の財政赤字は約五三兆円(五〇〇〇億ドル)。いずれも過去最高である。米国は世界最大の債務国であり(政府債務残高八〇四兆円)で、空前の経常収支赤字を補填しているのが、金融・資本の自由化のもとで国外から流れ込む直接投資と証券投資(投機資金)である。財政赤字の方は、日本政府が筆頭になって買い続けている米国政府の国債によって補填されている。日本が米国債を購入する口実は、〈日本企業の輸出利益を守るための円高ドル安の阻止〉である。
〇四年一月現在、米国債保有高は約五五兆円であり、同年度の米国財政赤字額と日本政府の米国債保有高はほぼ同額であり、日本政府による支援なしに、ブッシュ政権の赤字財政は維持不可能である。だが、日本の対外純資産残高は一七五兆円で世界第一位であり、〈ドル安・円高阻止〉のためのドル買いは無意味である。小泉の真のねらいは、ブッシュ政権の軍事拡張政策を財政的に支え、これに群がる米軍事産業を潤すことにある。〇三年には、ロッキードをはじめとする米国主要軍事企業は憲政記念館で“ミサイル防衛システム”の展示会をやり、同じ場所で自・公・民議員も参加し、「日米安全保障戦略会議」が開催され、年末には政府はBMD(弾道ミサイルを遊撃する弾道ミサイル防衛)システム導入を決定した。
以上が福田論文の論旨だが、寺島実郎も『世界三月号』の「為替の魔術」で、昨年一年間でも二〇兆円の「ドル買い介入」を行い、「その金に依存して米国は減税と過剰消費、過剰軍事力を実現するという皮肉な構造、不健全な日米連結経済を実現している」とのべている。実は、小泉は、衆院選前の昨年春から秋にかけての短期間に世界でも例のない一〇兆円の介入を財務省にやらせ、その内六兆円を日本の株式市場に環流させ、「株価高騰、景気回復」を演出させる余禄をえているのだが(同誌一一月号紺谷論文)。
2“アメリカの行く末”
フランス人のE・トッドは『帝国以後〜アメリカシステムの崩壊』の中で、アメリカの行く末を予見している(同書は、イラク戦争へのシラク大統領の反対の理論的支えになったそうだ)。世界最強の軍隊をもち、軍事的、経済的に無敵にみえるアメリカ帝国の脆弱さを問題にし、それは「世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしにやっていくすべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、その民主主義的性格を失おうとしており、己が経済的に世界なしではやって行けないことを発見しつつある」ことだという。つまり、“アメリカシステムの崩壊”である。
トッドは、アメリカの脆弱さの核心を世界への経済的依存、つまり「略奪者」となっていることに求めている。世界はますますアメリカが“消費”するために生産するようになっており、アメリカの工業生産力は空洞化し、貿易赤字は垂れ流し、国際収支を均衡させているのは国際的な金融資本である。ところが、金融の持分が工業の持分を凌駕し、科学技術的・工業的ポテンシャルの低い活動で利益率が高いと経済は非生産性へと向かう。直接的生産性を持たぬ仲介取引から利益を引き出そうとして起こったのが「エンロン事件」である。根のない「その日暮らしの超大国」となり、バブルの如き利潤に幻想を抱く。「利潤」はやがて蒸発し、前代未聞の規模の証券パニックに続き、ドル崩壊への連鎖反応がおこる。その結果、アメリカ「帝国」の経済的地位に終止符が打たれる。アメリカメカニズムの崩壊は、ある日突然、意外な形でおこるだろうと、ソ連崩壊を予見した著者は言う。“ハイリスク・ハイリターン”が新自由主義と言われるといかにも斬新な感じをもたされるが、実は、アメリカへの投資は高利潤と同時に「安全性の至上命令」が優先しているのだそうだ。“グローバリゼーション”は経済・金融のことと思わされているが、本質は政治的・帝国主義的である。“大金持ちはますます大金持ちに”が本当のモットーなのである。
詳細は原本を見てもらいたいが、トッドは「帝国以後」の世界として、工業生産力の中心がユーラシアに移動し、そこに通商・金融・人的移動の「調整の極」が出現することを予見している。その動きは現に起こっており、ヨーロッパの戦略的利益は“平和”である。「日本は石油供給の安全確保について、ロシア、イラン、アラブ圏と直接話し合うべきである。アメリカ流の“演劇的軍事介入主義(虚勢を張るため負けそうにない弱小国を襲う主義)”に首を突っ込む理由はいささかもない」。フランスの文化と人権宣言の香りがする立派な発言である。“人類に対する未来からの贈り物”である憲法九条(オーバビー)の現実的基礎は、今まさに形成されつつある。
司法民主化推進本部事務局長 中 野 直 樹
一 労働審判法案が衆議院を全会一致で通過し、参議院に移っています。衆院法務委員会で次の附帯決議が付けられました。民主党山内おさむ議員の提案という形をとっています。
政府並びに最高裁は、次に事項について格段の配慮をすべきである。
1 労働審判制度の趣旨は、近年の労働関係事件の増加に適切に対応し、専門的知識を生かした迅速・適正な紛争解決の促進にあることを、広く国民に周知徹底し、その利用の促進に努めること
2 労働審判員の任命手続きについては、公正性と中立性を確保し、その研修については、必要かつ十分な措置を講じるように努めること
3 労働審判制度の実施状況などを踏まえて、将来、必要があれば、労働裁判に労使関係の専門家が参画する環境整備などの状況を見て、労働参審制の導入の当否について検討すること
施行は二年以内となっています。
二 二〇〇一年に個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律が実施されました。これに基づいて労働基準監督署などで受け付けた、民事上の個別労働紛争相談件数(二〇〇二年度)は、約一〇万三〇〇〇件、このうち助言指導申し出受付件数は約二三〇〇件、あっせん申請受理件数は約三〇〇〇件。助言指導の手続きを終了した件数は約二二〇〇件、助言実施は約一六〇〇件、指導実施が約九〇件、打ち切ったのが約一二〇件です。助言指導の効果についての統計はないとのこと。あっせん手続き終了の約二八八〇件のうち、当事者の合意の成立が約一〇八〇件、打ち切りが約一三八〇件(四八%)です。
この労働行政ADRがどのような効果を上げているのかについてはわかりませんが、労働審判制度がこのADRに持ち込まれている紛争の相当部分をカバーすることが期待されます。司法制度改革推進本部事務局は、労働審判制度の利用数を年間数千件と見込んでいます。
三 労働審判は地裁管轄の非訟手続きで、当面は本庁に限り、支部には開設しない。
最高裁答弁によると労働事件を多く担当している裁判官を審判官にあてることになるとのこと。
労働審判員は全国で千人規模で確保する計画です。任命は最高裁が行い、「その経験等を通じて個別労働関係紛争に役立つような専門的な知識を有するか否か」という基準で選任されるようです。弁護士、社会保険労務士、学者も除外されていません。最高裁は、すでに推薦を得ていくために「さまざまな方々に意見を伺っている」との答弁をしています。
四 この労働審判制度に、私たちが、利用者として、あるいはすでに人選の始まっている審判員としてどのように関与していくのかについて、早期の検討と対策が必要と思われます。
(*日程については団本部にお電話でお問い合わせください)