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津田 二郎 都立板橋高校卒業式刑事事件判決について
名波 大樹 五月集会参加の感想
船田 伸子 五月集会に11名で℃Q加して
―事務員一同の感想(ためいき・・・)―
庄司 捷彦 小樽には多喜二が生きている
森 卓爾 小樽と多喜二を訪ねる旅
守川 幸男 「常連」からの一泊オプショナルツアーについてのあれこれ
吉野 高幸 心身ともにリフレッシュしました。
毛利 正道 ―裁判官として、「根深い侵略主義」からどう決別すべきか―




都立板橋高校卒業式刑事事件判決について

東京支部  津 田 二 郎

 本年五月三〇日、東京地方裁判所刑事第九部(村瀬均裁判長)は、被告人藤田勝久さんに対し、罰金二〇万円(求刑懲役八月)の有罪判決を言い渡しました。弁護団は、この判決に対し厳しく抗議するとともに、即日控訴手続きをとりました。判決言い渡しに当たって判決文要旨が配布されておらず、また速報の性質上弁護団としての十分な討議を経ていないので、以下は執筆者の私見と記憶に基づく報告となることをあらかじめご了承ください。

一 事案の概要

 都立板橋高校卒業式事件とは、「日の丸・君が代」強制に反対する言論に対する弾圧事件です。都立板橋高校の二〇〇三年度(平成一五年度)卒業式の開始前に、来賓であり、板橋高校の元教諭である藤田勝久さんは、保護者らに学校現場での「日の丸・君が代」強制に批判的な週刊誌(サンデー毎日)のコピーを配布し、「今年の卒業式では、教員は国歌斉唱の際に起立しないと処分されます。ご理解願って、国歌斉唱の時できたら着席願います。」などと説明。その直後、教頭に腕を捕まれたり怒鳴りつけられたりなどしたため、「元教員をなぜ追い出すんだ」などと抗議しながら体育館を退出し、結局卒業式には出席しませんでした。

二 本件を刑事事件化した「事件」の発生

 藤田さんが体育館から退出した時点では、警察も呼ばれておらず、誰も藤田さんのこの行為を犯罪視していませんでした。

 卒業式には、来賓として東京都議会で教育現場への日の丸・君が代強制の急先鋒である地元板橋区選出のT都議が出席していました。また、その様子をTBS(「報道特集」)がテレビ取材していました。このような状況の下、本件を起訴に至らせた「事件」は、卒業式の最中に起こったのです。T都議の目の前で、「国歌斉唱」時に、卒業生の九割以上が着席してしまったのです。T都議は「立ちなさい。自分達の国の歌だろう。立って歌いなさい。」と大声で怒鳴りつけますが、結局卒業生らは着席したままでした。まさにT都議の面目は丸つぶれとなったわけです。

 T都議は、後日都議会においてこの卒業生達の不起立を問題視して「現職教員の中に協力者がいる。」などと「犯人探し」をするよう都教委に求めた上、藤田さんの行為についても「板橋高校の卒業式で、元教員が週刊誌コピーをまいて批判演説をした。厳しく法的措置をとるべき。」として、横山教育長(当時)から「校長などの制止にかかわらず元教員が週刊誌のコピーを保護者に配布した。法的措置をとることになる。」との答弁を引き出しました。

 この都議会でのやりとりを契機として、警視庁公安部主導の捜査が開始され、二〇〇四年(平成一六年)一二月に藤田さんは起訴されるに至ったのです。

三 判決の問題点

 判決は、藤田さんが保護者に向かって行った説明及び校長らに対して抗議しながら体育館から退出した行為が「威力」にあたり、これをもって「卒業式遂行業務」を妨害した、と認定しました。これは、検察官の主張をほぼそのままなぞるもので、唯一弁護団の主張を容れたのは、起訴時において約五分、論告において四分とされた卒業式開式の遅延時間が二分間とされた点だけでした。

 判決は事実認定にあたり、検察側証人の証言に信用性があることを絶対視する一方、弁護側証人については、ささいな供述の不一致を捉えて信用性がないと切り捨てました。

 本判決の問題点を一つあげるなら、威力業務妨害罪の成立範囲を際限なく拡大したことがあげられます。すなわち、判決は、「威力」を「客観的に見て他人の自由意思を制圧するもの」と定義した上、「式次第によれば、全員起立した上国歌斉唱を行うことになっており、管理者である校長としてはそのように式を進行しようと考えている以上、開式直前にこれに反する言論を行えば、校長らにおいて卒業式業務に影響を与えかねないとして制止せざるをえず、これは校長らの自由意思を制圧するに足りる」というのです。

 これでは、管理者が予定する進行に反する行動をとることが全て威力業務妨害罪として処罰されてしまいかねません。通勤ラッシュの駅で右側通行を指示されている階段で左側通行すること、会議中に議長の強引な議事進行に異議を唱えること、果ては弁護士の裁判官の訴訟指揮に対する執拗な異議まで・・・。

四 マスコミの受け止め

 本判決をマスコミはどう受け止めたのでしょうか。判決当日の新聞各紙の見出しは、「君が代反対元教諭に罰金『式典を停滞させた』」(東京)、「元高校教諭に罰金刑、卒業式の君が代斉唱で不起立求め」(読売)、「元教諭に罰金二〇万円=卒業式遂行、一時停滞―国歌斉唱で着席呼びかけ・東京地裁」(時事通信)など、藤田さんが卒業式を停滞させたとの裁判所の判断をそのまま見出しにしたものが多かったのですが、朝日新聞は「都立板橋高校の卒業式『妨害』、元教諭に罰金刑」として「妨害」の事実に対して一定の疑問を呈し、記事の中でも被告側の主張にスペースを割いていましたし、毎日も「<君が代判決>都立校の元教諭に罰金『懲役刑は不相当』」として、報告集会での藤田さんと弁護団の発言を取り上げました。

 また、六月一日付東京新聞は、「君が代不起立呼びかけ『罰金』のナゼ 妨害の印象ない」との見出しで、式当日に出席していた保護者やOBの証言を掲載しました。また同日付朝日新聞の社説は「君が代判決 教育に刑罰は似合わぬ」との見出しで、「元教師の行為は批判されてしかるべきだ。」としつつ、「起訴して刑事罰を科さなければならないほどの悪質な行為だったとは思えない。まして、懲役刑を求めた検察の見識を疑う。」として「本来、教育にかかわる問題が刑事裁判の法廷に持ち込まれることは望ましいことではない。」と締めくくっています。さらに同日付北海道新聞の社説でも「君が代判決 教育現場の萎縮が心配」との見出しを付け、本件判決は「過大な裁き」であり、「教育問題を刑事裁判の場に持ち出し、罰金ではあっても刑罰に処したことは妥当だろうか。」と疑問を投げかけ、「今回の判決が、暗黙の圧力として広がり、憲法で保障された『内心の自由』の侵害が進むことが懸念される。」と教育現場に広がる不安をまさに言い当てています。

 一般の市民感覚は「こんなことで刑事罰を科されてしまうのか」、「教育現場に強制が持ち込まれるのではないか」ということにあるのではないでしょうか。

五 判決の弱点

 本判決の最大の弱点は、上記のような一般の市民感覚には到底なじまない結論を導いたところにあると考えます。

 そして、このような結論を導くために、判決では、藤田さんのビラ配布行為を制止したという教頭の証言に信用性を与えてしまいました。教頭は、捜査の初期段階で本件を刑事事件化するため、実際にはなかった藤田さんへのビラ配布制止行為を行ったとして、実況見分に立ち会ってその模様を写真撮影までしていました。しかしそのビラ配布制止行為は、都教委から派遣されていた指導主事も法廷では見たとは証言できず、また卒業式に列席した保護者も目撃していませんでした。また指導主事が秘密録音していたICレコーダーにも、その様子をうかがわせる音声が録音されていませんでした。

 藤田さんを有罪にするためには、教頭らの証言を採用する必要があるが、しかしその教頭らが客観的事実に反する証言をしている―これが裁判所に突きつけられた本件の問題点でした。そして裁判所は、それを客観的事実に反する証言も「丸飲みする」ことで決着させようとしました。しかし、それは判決の内容をひどく説得力のないものにしてしまいました。

 弁護団は、今後も判決の分析を進め、教育に強制を持ち込ませないという世論と一体となって、こりの不当な有罪判決を覆す決意です。


五月集会参加の感想

大阪支部  名 波 大 樹

 五月二〇日、二一日、二二日に、札幌市の定山渓ビューホテルで行われた自由法曹団五月集会に参加しました。昨年一〇月に弁護士になったばかりの私にとって、団の大きなイベントに参加するのはこれが初めてでした。

 私が所属する団大阪支部では、少なくとも私が働き始めてからは、大阪支部の団員全員が集まるイベントはなく、いったい団がどの程度の規模の団体なのか実感が持てませんでした。しかし、今回五〇〇名の参加者の方々を目の当たりにして、団の活動の規模の大きさを肌で実感することができました。特に、二一日の夜の宴会は、五〇〇名全員が入れる特大の座敷で行われ、端の人の顔が見えないくらいの座敷の大きさに驚くと共に、団の大きさを感じました。また、宴会では五八期の新人の自己紹介がありましたが、北海道から沖縄まで各地で新人が活躍しているのがわかりました。こんなに多くの団員の方々が、全国各地で活躍しているのかと思うと、心強く思いました。

 もちろん宴会だけではなく、学習会等でも全国の団員の方々の活動内容がよくわかりました。各地の九条の会の活動内容、新しくできた労働審判制度が全国でどのように活用されているのかなど、各地の生の声を聞くことができ、非常に興味深いものでした。また、活動内容の発表者には少なからず新人の方もおられ、すでに本格的に活動されている話を聞き、私も遅れをとらずにがんばらねばと思いました。

 新人学習会の郷路先生の統一協会事件のお話では、長い時間と労力をかけて統一協会の実態を明らかにしていかれた過程がよくわかり、一つのことを突き詰める大切さを学びました。同じく新人学習会の阪田先生の新人のころのお話では、新人のころから臆することなく難事件・大きな事件に取り組んでおられたことがわかり、今の自分がここまでのことができるだろうかと考え、自己研鑽の必要性を痛感しました。

 学習会等での学んだことももちろん大きかったのですが、今回五月集会に参加して一番大きな収穫だと思ったのは、全国の同期の団員と知り合えたことでした。同じ志を持ち、同じような興味・悩みを持つ同期と話ができたことは有意義でした。これからの長い団の活動・弁護士としての活動において、いろいろな意味で支えになるであろう同期とのつながりを、大切にしようと思いました。

 今回の五月集会の閉会の際、一〇月に金沢で行われる総会の案内がありましたが、また一〇月に同期をはじめとした団員の方々と会い、話ができるのが今から楽しみです。


五月集会に11名で℃Q加して

―事務員一同の感想(ためいき・・・)―

西濃法律事務所事務局  船 田 伸 子

 当事務所は、弁護士三名と事務局員一〇名が、日夜、法律実務に、そして地域での活動に励んでいる。

 時には、弁護士を弁護士とも思わない言動で、反省することもしばしばあるが、それぞれが、地域の法律センターを担う自覚のなせるものであり、過激な言動と行動は「多少は」許されると思う。

 事務員の結束は強い(弁護士よりも)。 最近では、「教育基本法の改悪に反対する」新聞意見広告に、事務員一同でお金を出し合って参加した。

 この時もせっかく名前が載るのに、「西濃法律事務所事務員一同」ではつまらないということになり、意見広告の団体名は「ピースレンジャー@西濃法律事務所♪」とした。

 この名が新聞に載ったときは、みんな言い出したくせに、ちょっと驚いた。♪マークまでしっかりと印刷されていて、どこかの硬い団体から「ふざけるな」って言われそうで、しばらくドキドキした。当然、彼女らには、隊員名が存在する。

 今回の参加者が一一*シという理由は、たぶん、その後の旭山動物園見学と牧場「乳搾り体験」ツアーを組んだおかげだとは思うが、全国の経験を聞いたり、学習したいという素直な事務員たちの意欲のあらわれだと信じたい。

 そこで、何人かのピースレンジャーたちに感想を出し合ってもらったので、まとめて報告することにした。

*  *  *

◎ 今回は、チチハル事件の被害者の方のお話が聞けましたが、毎年何らかの事件の当事者のお話を聞けることは、自分にとって、とても説得力のあるもので有難いです。

 憲法の分散会では、いくつかのテーマに添って各地の報告を聞く事ができたので、それぞれいろんな方法があるなぁと勉強になりました。

 二日に参加した分科会では、時間配分が悪かったのか、ほとんどの報告者に時間がなく、早口で話されるばかりだったので、印象に残る部分が少なくて残念に思いました(橙レンジャー)。

◎ 憲法分散会で、各地方の取り組み内容が報告されたが、写真などがあるとイメージがわきやすく、成功した集会のチラシなどの資料が配布されれば、今後の取り組みの参考にできるのにと思った(桃色レンジャー)。

◎ 五月集会は三回目です。普段は担当事件や負債整理、そして行事などに追われているので、五月集会では全国の皆さんの活動報告を聞き、刺激を受けたり、勉強になるし、他の事務所などと交流することができる良い機会だと、毎年楽しみにしています。

 五月集会は、資料がかなり多い(重い?)ため、発言を聞く際に目的の資料がなかなか探せません。また、限られた時間内に多くの内容を伝えようとするため、全体的に早口で進められるため、内容を理解する前に報告が終わってしまうこともしばしばです(黄レンジャー)。

◎ 初めての参加です。事務局全体会での講演は、法律事務に携わり始めたばかりの私にとっては、この仕事が実務面でも精神面でも様々なことが要求される(大変な)職種であるということを、再認識させられたものでした。と同時に、「皆さんの仕事は、困っている方を目に見えるかたちで助けることができる大変素晴らしい仕事です。誇りを持ってください。常に、自分が奢っていないかを振り返り、頑張って下さい。」という先生の言葉にとても励まされました。自分が「こうありたい」という理想像が、漠然とですが、形になってきたように思います。

 新人分科会は、自己紹介をして、後は全体での話が少々、それで終わりでしたので、多少「こんなものなの??」という思いが残りました(青レンジャー)。

◎ 私は、初日の事務局員交流会の憲法分科会に参加し、活動報告を事務所ごとに聞かせていただきました。ただあまり印象に残らなかったので、議論の場でもあれば良かったのでは。報告会という形で終わってしまったのが残念です。

 自画自賛かも知れないけど、パワーポーントを使っての報告は、口頭だけよりイメージも伝わったのではないかと思います。他の事務所の人からは印象に残ったよと言われ、その後の交流ができたのが良かったです(白色レンジャー)。

◎ 今回の五月集会は記念講演がなく憲法の分散会でした。私が参加したところでは、発言者がいなく、南から各県ごとに活動を発言していきました。取り組みを聞くことは新しい発見やヒントがありますが、突然だったこともあり、わかりづらかったのと、活動の発表だけで終わってしまい、何かすっきりしないまま時間が過ぎてしまいました。

 旧日本軍遺棄時ガス兵器事件の被害者の生の話が聞けたのは、つらい内容でしたが、申し訳ないという気持ちが出てきました。当事者の話が聞けることは事件をとても身近にさせます(みどレンジャー)。

◎ 事務所に入所し、はやン年が過ぎ、団五月集会にも愛媛から始まり、福井、大分、三重、滋賀、山形・・・と結構参加させていただいています。昼間の全体会(講演会)、分科会では弁護士らの空中戦討論ではメモをとるのが精一杯で、専ら夜の宴会で地酒を飲むことや事務員交流会に参加することを楽しみに参加しています。

 分科会では主に『警察』に好んで参加させていただいています。

 今回の五月集会では各支部の運動の報告などが多く、やはりどこでも参加しているのは、年配の方が多いんだなあと感じました(紫レンジャー)。

 以上、わが事務所のピースレンジャー隊員の素直な感想をそのまま報告させていただきました。

 ちなみに、この内の二〇代ピースレンジャー隊員三名は、六月三〇日からロシアへ旅立ちます。それもシベリアです。

もう何年間も亡くなったシベリア抑留者の墓参と遺骨収集、そして日本軍が村民大虐殺した村への謝罪の旅を続けていらっしゃる地元西濃の八〇代のお坊さんに同行し、その名にはじない活動をしたいという理由です。事務所では、ロシア語が飛び交い、現地の人たちとの交流会では、どんな出し物をしようか、にぎやかな相談が続いています(代表:赤レンジャーより)。


小樽には多喜二が生きている

宮城県支部  庄 司 捷 彦

 五月集会と総会後に企画される一泊旅行。何度か参加しているうちに、何時やら「常連」と自負するようになってきた。各地での旅行には当地の歴史、特に人民の闘いの歴史に造詣の深い団員諸兄が道案内を買ってくれている。それぞれに印象深い旅が体験できることに、この旅行の醍醐味がある。

 今回の一泊旅行は、出色のものだった。小樽出身の旅行会社社長内山氏(紙智子さんの弟?)が、小樽での多喜二のすべてを語ってくれ、そして案内をしてくれたのだ。

 初日には、小説「東倶知安行」での舞台となった「光寿寺」へ。最初の普通選挙で、山本懸蔵の演説会場となった寺で、そこに多喜二も参加していた。そのルポルタージュがこの小説。元教師の住職は、宗教臭さの全くない語り口で、多喜二が生きていた時代を振り返り、平和を守ることの大切さを語ってくださった。宇賀神さんの簡潔で心ある謝辞に感服。

 有島武郎記念館では、彼の自殺への有力な異説に触れ、彼の空想的社会主義とでも言うべき思想を学び直したいとの思いを抱いた。

 二日目の小樽は圧巻。「多喜二住居跡」の案内板の前では、実際の場所とのズレを語ってお役所仕事を皮肉り、旭展望台の文学記念碑の前では、北斗七星が裏返しになっていることや年賦プレートにある誤字クイズなど、ユーモア溢れる案内。このようないわば定番的な案内だけではない。多喜二が生きていた時代を甦らせるかのように、『「工場細胞」のモデルになった工場はここの建物です』『昔「三ツ星パン」の本店があったのはあの木下薬局の場所です。隣の瓦屋根は当時のままです』『多喜二が卒業した「潮見台小学校」はあそこです。校内の資料室には多喜二のコーナーがあります』などバスの中からの案内があり、更に、多喜二が活動した合同労組の事務所、結成大会が行われた建物、「不在地主」の舞台の一つ礒野商店倉庫など当時を偲ばせる場所へと、大型バスで狭い道筋を抜けながらの案内。前日からの雨のため、多喜二が建立した小林家の墓行きは断念されたが、多喜二の息使いを感じさせてもらった。多喜二は小説を書いて殺された。君が代を歌わないから、起立しないからと処分されている、今日。多喜二の時代がすぐそこまで来ているのだろうか。

 ここまではバスでの団体行程。その後、一人になって、市立小樽文学館(ここに多喜二のデスマスクがある)を見学した後、潮見台小学校を訪問した。前もって電話で訪問を了解してもらった上でのことである。「郷土資料室」という名の教室、わざわざ鍵を開けてもらって一人で鑑賞。多喜二の略歴が卒業写真とともに飾られていた。ここを出て、タクシーをひろって「奥沢・天神墓地」へ。途中、花屋によった。多喜二には真紅のバラがお似合いだと、勝手に決め込んでのこと。バラ三輪を手に、急斜面を登って墓参。

 この日、多喜二との濃密な時間が、そこにあった。


小樽と多喜二を訪ねる旅

神奈川支部  森   卓 爾

 五月集会後の一泊旅行に事務所の三人で参加した。団通信に掲載された大賀団員の「一泊旅行へのお誘い」を読んだからである。題して「これでもか?グルメと文学の一泊旅行」と呼び掛けられており、先着順で定員になり次第〆切とのことであったので急いで申し込んだ。

 当日の参加は二三名でこぢんまりしてゆったりした旅行になった。

 まず、最初に訪ねた光寿寺は、小林多喜二「東倶知安行」の舞台となった寺である。多喜二は、一九二八年第一回普通選挙で立候補した山本懸蔵の演説会場で前座を務めたがその演説会場となったのが光寿寺であり、「東倶知安行」に記述がある。演説会場となった本堂はそのまま残っており、その本堂で住職の話を聞いた。住職のお話は、多喜二から憲法まで多岐にわたっており、心静かに聞いた。

 次の有島武郎記念館では、広大な農場を小作人に共有と言う形で無償開放した有島の苦悩について知った。戦後の自作農創設法に基づく農地解放について、北海道農政部長の文書が展示されていたが、有島の行為は、農地解放の趣旨を先取りしたものであるとの指摘があり納得した。

 宿と温泉と料理が素晴らしいものであったことは言うまでもない。大賀団員ありがとう。

 今回の一泊旅行で特筆すべきことは、添乗員として同行していただいた旅システムの内山社長の小樽に対する思い入れである。大きなバスで運転手に広い道、狭い道を右左と指示しながら多喜二に関連する施設を案内し解説していただいた。多喜二住居跡、多喜二文学碑、労働組合事務所跡等。

 小樽合同労組の昭和二年六月二三日の決議に「小学校授業料撤廃」「市営無料診療所の設置」「市営助産院の設置」「児童強制貯金廃止及び保護者会費の廃止」などがあり、当時を偲ばせる。

 小樽の運河も散策したが、何よりも多喜二の足跡を訪ねたことが今回の一泊旅行の収穫であった。

 北海道支部の皆さん、ありがとうございました。


「常連」からの一泊オプショナルツアーについてのあれこれ

千葉支部  守 川 幸 男


一 はじめに

 総会や五月討論集会のあとに、ほぼ必ず、日帰り旅行とオプショナルツアーがある。私は、日帰り旅行に出ることもあるが、主として一泊旅行の「常連」だ。たいした活動や発言もせず(ただ、まじめに会議には参加している)、旅行にはほぼ出席の「常連」であることは、団本部事務局や事務所、参加者には知れわたっているが、不参加者には有名ではないので、少し気が引ける。ただ、執行部からの「お願い」なのであれこれ書いてみる。「お願い」を見たその日に書かないと締切に間に合わないという、何とも無理な注文なので、かつてのデータをもとに何かを書くというのはとても無理で、ただの一泊旅行紹介程度のものになった。

二 「常連」とは

 七、八割参加してはじめて常連だが、私を含めて一〇〜二〇人くらいいるようだ。夫婦の常連も数組いる。

 七、八割が何回続くと「常連」かはわからないが、まあ数年か?

 一泊旅行が始まって以来の「常連は」ほとんどいない。たぶん私は有史以来(二〇数年か三〇年か?)の「常連」だろうと思うが、正確なデータがないので自信はない。

三 かつての「常連」たち

 かつて、大長老の岡山の豊田秀男さんがよく参加していた。その後参加しなくなり、しばらくして亡くなった。私が岡山修習だったこともあり、葬儀には新幹線で(労働事件の記録を何冊もかかえて尋問準備をしながら)日帰りで参列した。

 上田誠吉元団長や静岡の石田亨さんもよく参加していたが、この数年ないし一〇年以上か、全く参加していない。お元気なのか心配だ。団長だった小島さんは、ご夫婦でよく参加されていたが、体調を崩され間もなく亡くなった。

 最近では柴田五郎さんも常連になっている。今回、「常連」の三浦久夫妻に会えなかったのは残念だった。

 それ以上の「常連」たちもいるが、この程度にしておきたい。

四 ガイドいじめ?

 かつて豊田秀男さんはよくガイドに質問していた。上田誠吉さんのそれは「ガイドいじめ」だと悪口を言われていた。どちらも難しい質問を出す。ガイドが答えられない。助け船を出すこっちも大変だ。でも泣き出すガイドはいないし、車内が笑いで包まれる。楽しみのひとつだった。最近では柴田五郎さんがよく質問を出す。

 私も前の方でよく質問する方だが、少しお節介なので、ガイドの仕方などで気付いたことや気になることをあとでそっと伝えたりする。多くは感謝されるが、真意が伝わらないことがあったかもしれない。

五 それぞれの楽しみ方

 せっかく遠くへ来たのだから、忙しいけどちょっと足を伸ばすのはよいことだと思う。地元の団員があれこれ趣向をこらし、よいところを選んでくれる。団ならではの企画や、団でなければ行くこともない所へ行ったり、団でなければ会えない人の話を聞く機会も多い。今回もそうだった。小林多喜二の足跡をたどり、有島武郎の素顔を知った。具体的なことは、おそらく他の参加者が書くと思う。個人的には、小樽の人力車に楽しく乗った。

 少人数の懇親会で、各地の様子を聞けるのも楽しみだ。

 私は、自分で計画しないで気軽に参加できるので、ずっと参加してきた。もっとも、一泊旅行に参加せず、なつかしい人に会ったり、ついでに屋久島に二、三泊して屋久杉に触れたり、あれこれ楽しいことがあったという思い出もある。

 この際、事務所旅行を兼ねてという、小規模な事務所の団員や事務局が参加したり、最近では夫婦連れも増えた。

 京都のように、別に京都支部主催の一泊旅行を行って、そこで総会の運営や内容について意見交換することを恒例にしている支部もあり、別に事務所旅行をやる事務所もある。要はそれぞれの楽しみ方だと思う。

六 地元の皆さんに感謝しつつ

 いずれにせよ、ほんの短い一泊旅行だが、気楽に参加できて団ならではの内容が魅力だ。私は旅行で写真を撮らないが、旅行後あちこちから写真が送られてくる。地元の団員や事務局が大変な苦労をされていることに感謝しつつ参加している。

 他の参加者の感想文とあいまって、一泊旅行の雰囲気が伝わり、参加者が増えることを願いつつ。


心身ともにリフレッシュしました。

福岡支部  吉 野 高 幸

 五月集会の後、一泊旅行に一人淋しく(配偶者が同伴していないという意味です)参加しました。

 八二年の団総会での一泊旅行及び十勝川総会での旅行の際は配偶者同伴で楽しい旅行であったが、今回はどうかな(配偶者からは「私が行かないのに一泊旅行に行くの?」との声があった)と思いつつ・・・。

 しかし、今回の旅行の感想は「心身(・・)」ともにリフレッシュとの言葉がぴったりきた。

 小林多喜二、石川啄木、有島武郎の跡を訪ね、特に小林多喜二に関する「ぞうけいの深さ」を感じさせる案内(どうもただものではない旅行社社長による)。

 そして、小林多喜二が参加した集会の開催されたお寺の現住職のすばらしい話(弁護士の話より説得力ある平和への思い)等々、本当に「心」に染みるものでした。

 そして、宿の「夕食」がまた最高でした。夫婦で参加できればもっと最高でしたが・・・。

 能登総会では、さらによい企画をして頂くことを楽しみに、「秋まで元気に活動しよう!」という気になる一泊旅行でした。

 企画及び案内された関係者に心から感謝しています。


―裁判官として、「根深い侵略主義」からどう決別すべきか―

長野県支部  毛 利 正 道

 五月二五日に名古屋地裁で、イラク訴訟での原告としてなした口頭意見陳述の一部です。私は、ほとんどすべての裁判で、このような裁判官論をさらに発展させつつ裁判官に迫るべきではないかと思っています。皆さんは、どう思われますか(なお、意見陳述の全文は、私のホームページに載っています)。

第二 裁判官として、「根深い侵略主義」からどう決別すべきか

一〜三 省略

 このように我が国は、七一年間、三世代にわたり、明確な海外領土掠奪=侵略目的の下、国民を思想面から大々的に駆り立て、実際に侵略し続けていたのです。

 これに比べ、ドイツのヒトラーは、政権を奪取した一九三三年から一九四五年の敗戦までわずか一三年間政権を握っていたにすぎません。いわば、日本の場合は、極めて「根深い侵略の歴史」があるのです。以下省略。

 今、なぜここでこのようなことに触れるかと言いますと、戦後日本の裁判官であるあなた方も、この「根深い侵略主義」と無縁ではないと思うからです。

 戦前は、司法権は天皇の名において裁判所が行う(憲法五七条)とされていました。裁判官は、検事とともに司法大臣から任命されており、各裁判所には検事局が置かれていました。その検事局の検事は、全国一体ですからぽつんと置かれる裁判官に比してあまりに強大でした。また、従来は何も問題にされなかった天皇機関説が、軍国調深まる中で容易に排斥されるという事態の中で、「昭和になりますと、もう情勢に片っ端から迎合していくような、そしてその情勢を促進する機能を果たすような裁判官のあり方がかなり目立ってくる」「(一応存在したと言われていた)司法権の独立自体が根本的に実は非常に局限された形でしかなかったんじゃないか、ということが非常に感じられるんです」(「日本政治裁判史録 昭和下」における雨宮昭一氏発言)という実情にあったのです。むろん、ほとんどの裁判官が、戦争に反対したり、嫌悪感を持つ民衆の弾圧に手を深く染めていました。

 その裁判官が、戦後二一万人が対象となった公職追放に誰一人されていないのです。司法大臣から任命されていて、実態としても国体護持に汲々としていた裁判官が、戦後文字通りそのまま裁判官を務め、三権分立を厳格に定めた新憲法に基づくはずの戦後司法の中枢を担ってきたのです。これ自体驚くべきことですが、それだけでなく、戦後しばらくすると、軍国主義に染まったとして公職追放された者を始め、いろいろな反憲法的傾向の裁判官が、保守内閣によって最高裁に送り込まれてきました。

 戦前検察首脳を歴任して公職追放された池田克氏が、追放解除二年後の一九五四年に最高裁判所判事となり九年間在職。公務員の労働基本権に否定的な判断を繰り返したほか、松川第一次上告審では有罪との意見でした。「満州国」の裁判官であった飯守重任氏は、戦犯として撫順に抑留され、反省文を書いて帰国しましたが、「あれは偽装の作文だった」とうそぶき、鹿児島地裁所長時代の右翼的言動によって解職されました。戦前裁判官であった石田和外氏は、最高裁判事を一〇年務め全農林警職法事件での古い人権軽視の判例復活などで辣腕をふるいました。飯守氏の実兄で戦前内務官僚だった田中耕太郎氏は、二代目最高裁長官となって安保条約を合憲とした砂川事件判決を下し、松川事件での広津和郎氏らの裁判批判に挑戦する訓示を行い、世論の猛烈な批判を浴びました。

 その結果、戦後の最高裁判所の構成はどうなったでしょうか。

 裁判官諮問委員会の意見に基づいて決められた一九四七年八月からの初代最高裁判所判事ですら、戦前に裁判官であった者七名、戦前に裁判官以外の官僚であった者二名でした。自己批判を何ら求められることもない、この九名で全体の過半数を占めています。

 それが、諮問制度を廃止して、政府が一方的に任命するようになった一九五〇年以降変化し、一九五九年一二月一六日の砂川事件大法廷判決の時は、裁判官を経験した最高裁判事は、島保・藤田八郎・垂水克己・下飯坂潤夫・奥野健一・高木常七・石坂修一の七名、これ以外の官僚経験者は、田中耕太郎・斉藤悠輔・入江俊郎・池田克の四名、何と、裁判官と官僚経験者で一一名となり、総員一五名の三分の二を超えていたのです。

 この砂川事件大法廷判決は、基地拡張に反対するデモ参加者が米軍基地に立ち入った事件について、原審伊達判決が、「憲法は自衛のための戦力も否定している」として、「米軍の駐留はこれに違反している」と述べて、無罪判決を下したものに対する跳躍上告審です。「憲法九条第二項が自衛のための戦力をも否定している」とする伊達判決は、当時の憲法学説の圧倒的多数説に従っただけであり、したがって、少なくとも最高裁で様々な意見が出されて然るべきところです。

 しかるに、一五名の裁判官で

 (1)外国の軍隊は、憲法九条二項の戦力に該らない

 (2)高度の政治性を有する安保条約は、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは司法審査権の範囲外

として、反対意見がひとつもないまま、原判決を破棄しました。

 そして、この統治行為論は、以後、諸々形を変えつつ、裁判所が行政・立法に係わる重要な憲法判断を回避する最有力な口実とされるに至ります。

 三分の二以上が裁判官・官僚経験者であり、その中核に戦前の裁判官経験者多数(経歴から判明しているだけで少なくとも、島・斉藤・藤田・垂水・下飯坂・奥野の六名)がいた、このことは留意されるべきです。

 これまでの最高裁判例のなかで、戦前との連続性が正面から問われた(おそらく)最重要なものが、一九七七年(昭和五二年)七月一三日における津市地鎮祭への公費支出が問われた大法廷でした。ここでは、憲法二〇条三項の政教分離原則の趣旨が争われましたが、五名の判事が、戦前国家神道が軍国主義の精神的基盤となっていたことを踏まえ、国家と宗教との徹底的な分離が求められると明言して反対意見に立ったのに対し、残り一〇名は、目的・効果が宗教的係わりを持つ場合だけが憲法二〇条三項によって禁止されているとして、原判決を破棄する逆転判決を言い渡しました。

 この一〇名の多数意見、五名の反対意見の内訳をみてみると、多数意見一〇名のなかには、戦前に裁判官であった者四名と戦前に他の官僚であった者が四名、計八名おり、反対意見の五名のなかには、これらの者は二名だけでした。この当時の最高裁判事は、戦後二五年以上経過後に就任した者がほとんどであったにも拘らず、戦前と戦後とがこのようにつながっているのです。まさに、「根深い戦前」といわざるを得ません。

 この昭和五二年の大法廷判決のときは、厳格な政教分離を求める最高裁判事はまだ五名いました。ところが、その一一年後、昭和六三年六月一日の自衛官合祀違憲訴訟においては、この昭和五二年判決の五名の反対意見と同一の見地を述べたのは、学者出身の伊藤正巳判事ただ一人でした。圧倒的多数意見で原判決を破棄しました。

一〇 このように少し概観するだけでも

 (1)戦後の日本国憲法下での重要な憲法判例が、主に戦前に裁判官や官僚であった者によって形成されていること

 (2)その憲法判例が、その後の裁判所にまさに生きた判例として大きな効果を及ぼしていること

 (3)その憲法判断の中身が、天皇を含む行政権が圧倒的に優位に立っていた戦前と近いものであること

といえるのです。

 このような私の視点は、二〇〇五年七月二六日に甲府地方裁判所のイラク訴訟で実際にあった、三名の裁判官が小走りに逃げ去った姿・判決日に私が出廷する権利を奪ったその姿勢・そこに示された国民無視の態度が原点としてあったことは疑いありません。

一一 裁判長並びに裁判官の皆様

 今、日本が求められているのは、幾多の国際法によって形成されてきている人権と民主主義の国際水準を一刻も早くここ日本でも確立することです。そのためには、七一年間続いた「根深い侵略主義」と意識的に決別することであり、それが「過去の克服」です。とりわけ、七一年間の戦前を否定するところに生まれた日本国憲法を、二重にも三重にも尊重・遵守・擁護する義務を重く背負っているあなた方裁判官の姿勢が重要です。

 従前に、戦前との連続性が高い裁判官が形成した判例に従う思考は、洗い落とすべきです。

 判例の重圧をひとたびすべて脳裏から解き放ち、純粋に日本国憲法の全文を正面から声を出して読むところから始めていただきたい。国民はそれを心待ちにしています。