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秋元 理匡 船橋丸山地域ビラ貼り弾圧事件報告
伊藤 和子 「グアンタナモ」の被害者が語る人権侵害の実態
─パネル・ディスカッションと試写会のご案内
野間 美幸 総会後の一泊旅行
松井 繁明 【書 評】東京法律事務所編
『これでもガマン?!─労働弁護士の事件ノート』
大塚 武一 自らを徹底に律し、プロ意識に基づいて日々研鑽を怠ることなく確実に歩をすすめ権利と自由の地平をきりひらいた弁護士飯野春正
飯野先生を知る人の言葉をあつめると表題の表現となるでしょう。
鶴見 祐 策 一二・〇八 飯野春正先生を偲ぶ
杉尾 健太郎 【新旧役員挨拶その四】
就 任 挨 拶




船橋丸山地域ビラ貼り弾圧事件報告

千葉支部  秋 元 理 匡

一 事件発生

 〇六年一〇月四日、千葉県船橋市丸山で日本共産党の議会報告会のビラ二枚を電柱に貼った男性二名が、軽犯罪法違反で現行犯逮捕され、同日夜に釈放されるという事件が発生した。

この日、一時半ころ、男性は三枚目のビラの裏に両面テープをつけているところで警官に職務質問され、住所氏名を名乗ったところ、一度は「もういい」と言われた。ところが、三〇分後、男性らが近くを歩いているところで再び警官に声をかけられた。そして、男性らは、警官一〇名以上に取り囲まれ、現行犯逮捕となった。そのとき、周りには、周辺住民二〇名以上が集まっていた。

午後四時半ころ、男性らは船橋署に連れて行かれた。

二 当日の対応

この知らせを受けた団千葉支部では、まず、山田安太郎団員と私とが船橋署に向かった。五時半ころ到着すると、警察の門前で市民が抗議行動を展開しており、警官十数名がピケを張っていた。私が入ろうとしても警官が前を塞ぐので、私は仕方なく「弁護士だ。接見させない気か。」と大声で騒ぎ、ようやく入れてもらった。

庁舎に入ると、次は接見までの時間稼ぎ。引致したばかりで留置もしていない段階であったせいか、警備課長に「お前らが来るのが早すぎるんだ」とも言われた。こうしてすったもんだしつつも六時前には接見を開始できた。

六時半ころには、白井幸男団員、田久保公規団員、馬屋原潔団員が続々と船橋署に到着した。山田団員と私は被疑者二名に接見をし、白井団員と馬屋原団員は警備課の責任者に釈放要請を始めた。田久保団員のいる船橋第一法律事務所が基地となった(地域事務所って、こういうときホントに威力を発揮する!)。

白井団員と馬屋原団員は、軽微事案での現行犯逮捕の要件(刑訴法二一七条)を詰めた。警察は男性らが氏名住所を名乗ったことは認めたが、それを確認することができず、出頭要請に応じなかったため逃亡のおそれがあると説明した。しかし、大勢の地域住民が駆けつけており、いくらでも身元は確認できた。また、出頭要請に応じないことの一事で逃亡のおそれありとなるのでは任意捜査の否定というものであろう。これらを詰めていくと、警察は回答不能に陥った。

こうした機動的な初動弁護が功を奏し、午後一〇時四〇分に被疑者らは釈放された。

三 抗議行動の展開と捜査の終結

地域住民と地元救援会が中心になり、ただちに「丸山地区ビラ貼り弾圧に反対する会」が結成され、一一月半ばまで週二回の要請行動を展開した。

一〇月一六日には任意出頭に応じ、身柄拘束の口実を与えなかった。同月一八日には県警本部へ捜査の中止を要請し、同日に開いた記者会見にはマスコミ各社が参加し、関心の高さが窺われた。

そして、一一月一六日、押収されていたビラの現物が還付された。これは、公安が捜査を実質的に終結させ、敗北したことを宣言したことを意味する。これに先立つ同月一〇日付で検察官に送致されていたことが、同月一九日の要請行動で明らかになった。

そして、検察官は、一一月三〇日付で、本件を不起訴処分とした。

四 教訓

都内で猛威を振るっている言論弾圧の波が、ついに江戸川をわたって千葉にやってきた。本格的な総括は後のこととせざるを得ないが、さしあたり教訓としておきたいことを感想がてら述べてみたい。

電柱のはり札は近時大分減ってはきたものの、不動産業者や貸金業者、風俗業者のビラがべたべた貼られ、これが摘発されずに放置されていることは誰もが知っている。その他、迷い犬のビラも貼られ、季節柄、運動会やバザーのビラも貼られるが、これらのビラに連絡先として記載された人たちが逮捕され、その場所に警察が立ち入ったという話は寡聞にして聞いたことがない。

実は、この船橋市丸山地域というのは、民主勢力の活動が活発なところで、「船橋九条の会」より先に市内一地域に過ぎない「丸山九条の会」ができたほどである。今回の議会報告会の目玉は、共産党所属議員が紹介した陳情が船橋市議会で採択されたことであった。その陳情というのは、東武野田線沿線の広大な空き地の宅地開発が進められそうになっていたところ、これを船橋市が買い取り、避難場所にも使える公園にすべきだというものであった。地に足のついた、真の意味での安全・安心な地域生活を望む住民の声を議会が採択した、そんな温かい話を報告する集会になるはずだった。実際はどうなったかを言う愚は避ける。

今回の逮捕は、こうした共産党の議会報告会のビラであったことが理由であり、公安警察による言論弾圧としか考えられない。こんなことが許されてよい道理がない。折しも、葛飾ビラ配布事件の無罪判決が出て一か月余りのことであった。

また、不起訴処分の直前である一一月二九日、東京新聞や朝のTV番組で最近激増している軽微事案での逮捕事例がとりあげられ、本件が紹介された。団員各位は身柄拘束の不利益については重々ご承知であろう。軽微事案の側面からいっても大問題である。この東京新聞の記事には、大谷昭宏氏の「この流れは憲法改正や共謀罪に連なる。」とのコメントが出ていた。本件は、現下の情勢に照らし、起こるべくして起きた事件である。

それにしても、逮捕当日の釈放、在宅事件にもかかわらず送致後三週間での不起訴、という経過は、本件の摘発が無茶苦茶であったことを自認しているかのようである。警察・検察には、この種立法の適用、事案の摘発・逮捕というものについてよくよく考えていただきたいものである。

今回の事件からは、運動体ともども、日頃の運動と学習、干渉されたときの対応、逮捕されたときの対応等、多くのことを学んでいかなければならない。今回のことをバネにして、権力のさらなる横暴を押さえ込むために。



「グアンタナモ」の被害者が語る人権侵害の実態

─パネル・ディスカッションと試写会のご案内

東京支部  伊 藤 和 子

 ついにブッシュ政権が中間選挙で敗北した。アフガン戦争以後のアメリカの侵略・人権抑圧政策がどこまで総括され、是正されていくかが今後注目される。イラク戦争をはじめ、アメリカの「テロとの戦い」による罪もない人々の犠牲は筆舌に尽くしがたいが、そのひとつはグアンタナモ基地に無期限拘束された無実の人々・拷問の被害者である。

 このたび、後に奇跡的に釈放された、無実のグアンタナモ基地被収容者三人を主人公にしたドキュメンタリー映画「グアンタナモ、僕たちが見た真実」が公開される。公開にあたり、私が事務局長をしているNGOヒューマンライツ・ナウと、アムネスティ・インターナショナル日本支部で、映画配給会社とともに、主人公となった無実のグアンタナモ基地元被収容者二人を招聘し、試写会&パネル・ディスカッションを開催する。是非、多くの皆様に参加いただき、日本が追随した「テロとの戦い」の残した人権侵害の実相を振り返っていただければと思う。

▼『グアンタナモ、僕達が見た真実』試写会

 二〇〇一年九月、アフガニスタンでアルカイダのメンバーと間違えられ、キューバの米軍グアンタナモ基地へと送られてしまった三名のパキスタン系イギリス人の若者、アシフ、ローヘル、シャフィク。ごく普通の若者が対テロ戦争に巻き込まれ、二年以上にも及ぶグアンタナモでの収容生活を強いられた。三人の若者は、その苦境を耐え、自由を取り戻すために戦い続ける・・・。実際に起こったこの衝撃の事件を再現し、二〇〇六年ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞した話題の映画「グアンタナモ、僕達が見た真実」の試写会と、実際に映画に出演したローヘル、シャフィクの二名を招いて、日本の弁護士・ジャーナリストとのパネル・ディスカッションを開催します。

☆二〇〇七年一月一三日(土) 東京都港区虎ノ門 発明会館

 一四時〜試写会/一六時二〇分〜パネルディスカッション

 事前応募制・応募の詳細はこちら

     ↓ http://www.ngo-hrn.org/guantanamo.html

* 応募〆切は一二月一〇日、応募者多数の場合は抽選となります(会員限定三〇組ですので、この機会に是非ご入会ください。一般応募はアムネスティのウェブサイトへ)

 なお、試写会に先立ち、一月一二日(金)六時より、青山学院大学にて、特別企画として、来日する二名、ローヘル、シャフィクを囲む会を開催します。実際の体験を聞く貴重な機会ですので、是非ご参加ください(詳細はウェブに掲載)。

 また、はるばるロンドンからの招聘費用のカンパにも是非ご協力ください。(三菱東京UFJ銀行・上野支店(普)

  口座番号=5404540 口座名義「ヒューマンライツ・ナウ」)



総会後の一泊旅行

木もれび法律事務所事務局  野 間 美 幸


 一〇月二二日、二三日と北陸・能登総会が石川県の和倉温泉にて開催されました。二三日の総会が終了した昼過ぎ頃から総勢約四〇名が一泊旅行に参加しました。二二日の夜に雨が降り出していたので天候が心配でしたが、曇ってはいたものの順調に観光をすることができました。

 初日は能登半島を北へとバスで走りました。まず向かったのは「巌門」というところでした。海に突き出た岩盤に浸食により出来たという洞門を歩きましたが、とても迫力があり自然の造形美を肌で感じることができました。

 次に輪島工房長屋という輪島塗を体感することの出来る施設に行きました。そこでは輪島塗の工程を説明して頂き、輪島塗は職人さんの手でとても軽くて薄い木地から何度も何度も漆塗りをしていき、何ヶ月も時間をかけて重みのある一品を仕上げていくということを知りました。

 そして初日の最後には「千枚田」と呼ばれる海沿いの斜面に千枚以上の田んぼが並ぶ場所へ行きました。一枚当たりわずか畳二、三畳ほどの面積で、人によって一枚ずつ耕されていると聞き、美しい光景を守るために頑張っている人達がいることに感銘を受けました。

 この日は日本海の海岸沿いをバスで走ることが多かったのですが、一瞬夕日が差した時の海が本当に綺麗な青緑色で感動しました。冬になるとネズミ色の荒波になるそうですが、この日の海は穏やかで晴れていたらもっと素晴らしい絶景が見られるのだろうなと思いました。日本海の美しさをじっくりと味わうこともでき、有意義な一日でした。

 二日目は最初に志賀原子力発電所を見学しにいき、その後志賀原発の差止め訴訟の原告として活動をなさっている住民の方の家で志賀原発反対の様々な住民運動に関する話などを聞きました。こうした運動は一九六七年に北陸電力が原発建設の候補地四地点を発表した時から現在に至るまで行われています。志賀原発差止め訴訟は現在も続いていて、一九八八年に提訴された一号基差止め訴訟は最高裁で上告が棄却されましたが、一九九八年に提訴された二号基差止め訴訟については二〇〇六年三月に地裁で勝訴判決を勝ち取っています。電力を生産するには風力・水力・火力で充分であり、むしろ現在電力は余っている状態だということを住民の方がおっしゃっていて、原発は本当に必要のないものであるという気持ちを強くしました。志賀原発は道路の目の前と言ってもいいぐらい近くにあり、バスの中から容易に見ることができ、また、燃料の搬出や搬入が道路を横切って行われていると聞き、驚きました。私は原発とは縁のない所で生まれ育っており、事故も起きていて危険であるという程度の認識しかなかったのでこうして実際に原発の危険にさらされている方々のお話を聞けて少しでも理解を深めることができて良かったです。

 その次は、千里浜なぎさドライブウェイという砂浜の上をドライブできるという所をバスで走り、日本海を満喫した後、最後に金沢市の兼六園に向かいました。兼六園は、さすが日本三大名園の一つであるだけあって、コケの一つ一つに至るまで美しいと感じさせる風景で、気持ちが安らぎました。

 石川県には初めて行ったのですが、魅力的な場所ばかりで、一泊では足りない、ぜひまた行きたいと思わせてくれる旅でした。この旅行を企画して下さった北陸支部の方々、運転手さんバスガイドさんはじめ旅行会社の方々、一緒に旅行をした皆さん、思い出に残る楽しい旅をありがとうございました。

 最後に、私は自由法曹団の会自体参加するのが初めてだったのですが、全国から集まった団員の皆さんが結束して各地で様々な活動を行い、多くの成果を上げていることを実感しました。私も事務員として出来ることを積み重ねて頑張っていこうと思います。



【書 評】東京法律事務所編

『これでもガマン?!─労働弁護士の事件ノート』

東京支部  松 井 繁 明

 東京法律事務所編『これでもガマン?!―労働弁護士の事件ノート』が出版された。読んでみておもしろかった。この本のどこがおもしろかったか、そのことを述べよう。

 この本には、数多くの労働事件が紹介されている。いずれも、東京法律事務所の弁護士が関与し、担当弁護士らが執筆している。評者が労働事件を好きなこともあるが、実際の労働事件はつねに興味ぶかいものである。

 口を開けば「コンプライアンス」(法令順守)を公言する経営者らのもとで、どれほど不当かつ理不尽な労働者にたいする迫害が行われているか―。労働者がどんな思いでたたかいに立ち上がり、それを受けた弁護士らが労働者の訴えをいかに法的な主張・立証として構成してゆくか。はじめはおぼつかなかった労働者らがしだいに自立し、仲間の労働者らがそれを包みこみ、たたかいを拡げていく状況。そしてその多くが勝利を実現してゆく過程―どれも感動的である。

 いずれも弁護士の執筆によるものなので、筆致は冷静で客観的なのだけれど、その枠をあふれ出る人間の情熱や感動をみてとることができる。

 しかしこの本は、そのような各労働事件の、「感動的な紹介」をめざしたものではない。じつはそこにこの本の特徴がある。

 「まえがき」にもあるようにこの本は、各労働事件の紹介をつうじて、今日の「労働のルール」を明らかにしようとする企図につらぬかれている。その企図は成功しているのか―。

 労働者にたいし、ごく初歩的な「労働のルール」を教示することは、いまなお重要な課題である。労働基準法や労働組合法の原理・原則を明らかにし、労働者に労働法の初歩的知識と大局的な考え方を身につけさせることは、ゆるがせにできないことだし、そのような著書は少なくない。

 それにたいし、この本は、労働法の初歩的知識を教示する役割にはふさわしくない。むしろ、労働法の最先端で争われる論議を紹介するものとなっている。では、意義がないのか、といえば、そうではない。

 労働法の初歩的知識をあたえる著作は、それなりに重要なのだけれど、実際の現場で直面する諸問題には、意外に役立たない。状況が複雑で、簡単には回答が出せないからである。

 それにたいしこの本は、複雑な労働現場で気鋭な弁護士らが直面した難問に、それなりの「回答」をあたえている。それは、単純な「Q&A」ではないけれど、困難で危急な局面にぶつかっている労働者に重要な示唆を与えるだろうし、それらの労働者から相談をうける弁護士らにたいしても、多大な教示をあたえてくれるであろう。

 この本を、おおくの労働者と団員弁護士におすすめしたいのは、以上の理由からである。

 なお横書きのこの本に縦書き風の表紙デザインをした意図は、評者には理解しかねる(青木書店 一九〇〇円+税)。



自らを徹底に律し、プロ意識に基づいて日々研鑽を怠ることなく

確実に歩をすすめ権利と自由の地平をきりひらいた弁護士飯野春正

飯野先生を知る人の言葉をあつめると表題の表現となるでしょう。

群馬支部  大 塚 武 一

一 「自らを律し」とは、三一年間ご指導を賜った小生としてまず一番に出てくる思いです。

 先生はあらゆる会議で遅刻したことはありませんでした。そこで、「徹底に」と冠をつけさせて頂いた次第です。飯野先生が出席された会議はここから緊張感が段違いにちがってきます。先生の発言は、大小にかかわらず、それこそ深く考察された上のものでした。自ずと一同ただただ拝聴することとなりました。その場ででた意見にもすぐに興味をもたれ、たずねられることもありましたが、通常の人は思いつき意見、付け焼刃意見で「よく調べてから」次回の会議で発言させられることになりました。つまりここから群馬の弁護士の間に物事を深く考えてから発言する作風が生まれたと言っても過言ではありません。

二 「プロ意識に基づいて日々研鑽を怠ることなく」とは、こういうことです。

 普通、土曜、日曜は、弁護団会議が入っていなければ、仕事熱心な人もプライベートの時間を楽しむことでしょう。しかし飯野先生は全く違います。会議のない土、日は「判例時報」をそれこそ全部読みおえて、表紙にその号の裁判例のポイントを鉛筆で数行書き入れ本棚に入れておかれました。多くの先生は、事件がおきなければほとんど積んどくと思いますが、先生は毎週読んどくを三九年間つづけられました。大変立派なことは言うまでもなく、忙しい事件処理の中でこのことが実践できたことは、他の仕事を手際よく処理していらっしゃったこともわかります。

 それと、どんな事件依頼・要請にも市民に頼りにされることは「弁護士冥利に尽きる」と身をのりだすようにし聞き、詳細なメモをとることを習慣としていました。ですから先生を偉大なメモ魔と評する人もいました。世の中にはただ単にメモをとる人もいるようですが、この「飯野メモ」は検索が可能なところが御自身だけのものではなく、みんなの「メモ」として役立つものでした。

 書類の整理もきっちりしていて、先生が帰る時には、書類がすべてロッカーに片付けられており、先生の机の上は文字通りきれいでした。

三 「権利と自由の地平をきりひらいた弁護士」

 数多い権利闘争事件をご担当されたのに負けたケースという記憶はほとんどありません。それはどうしてか、小生は芸もなく直接先生にお聞きしたことがありました。先生からの答えは謙虚に「そうかなあ」とおっしゃった後、「『事実』の調査、原点に立ち戻ればたいがいはねえ・・・」と言われたことを覚えています。

 この「事実に立ち戻る」は、飯野先生から直接間接に教えをうけた後進がひとしく学んだところです。

 先生は、一九年六ヶ月を費やした東電思想差別人権裁判で最初に全面勝利判決をとった前橋地裁の原告弁護団長として、また一都五県の全体弁護団長として知られるところですが、この事件は、原告の賃金が同期入社者より極めて低いのは、思想でないその人の「能力」だという会社側の「主張」を「裏づけようとする」いわゆるアラ捜し会社側(現職)証人をいかに反対尋問で切り落とすかが最大の攻防でした。先生は真面目な原告の仕事現場をみようと、例えば山の中まで実際に何度も行き、電線のはり方等現地で徹底的に調査し、法廷で会社証人を絶句させ、さらにこちら側の言い分を認めさせるという驚くべき成果を勝ちとったことは今も多くの人の語り草となっています。

 ですから私たちにとって先生の日常から生き様までその全ては汲めども汲みきれない大きな教えとなっています。飯野先生、これからは天国でお好きな日本酒の熱燗とタバコを心ゆくまで楽しまれ、私達をいつまでもにこやかに監督して下さい。

(合掌)



一二・〇八 飯野春正先生を偲ぶ

東京支部  鶴 見 祐 策

 昨年ホテルの朝食で同席した群馬の金井厚二さんに飯野さんの消息をお尋ねした。総会では久しくお目にかかっていなかったからである。ときどき会合に見えているという金井さんのご返事だった。

 まもなく飯野さんご自身から手紙が届いた。「肺に例の病気」とあり「まあしばらく付き合いが続く」という具合で文面からは元気なご様子が窺えた。それに飯野さんが主宰する「季刊群馬評論」に連載の文章のコピーが添えられていた。相変わらず司法制度を革新する意気込みが漲っており、私の懸念を払拭させる名文であった。

 私は、ずいぶん親しくしていただいたが、一緒の仕事としては、前橋民商の弾圧事件であった。ほかに市民事件もあったが、実際は、これが最初で最後と言ってよい。自営業者二人が税務調査拒否で起訴された。私は、東京での経験を買われて前橋に派遣された(後に飯野さんと同期の福田拓さんも加わった)。団の大先輩の角田(儀平治)さん親子と一緒に前橋合同法律事務所を創設して間もなくと思う。飯野さんは、裁判所や検察庁では我が物顔に振舞っていた。もともと全司法の活動家だったからであろう。

 この前橋民商事件の裁判闘争には多くの思い出がある。私は、当時、同種事件で各地に出張していたが、この上州人が傍聴する毎回の法廷は騒々しいことで際立っていた。公判の冒頭から検察官を問い詰めて何度も立ち往生させた。被告の一人が「検事を辞めさせろ」と詰め寄ったところ、裁判長は「裁判官は辞めさせられるが、検事は辞めさせられない」と大真面目に応じていた。

 公判は数年にわたったが、論告の当日は異様に静寂であった。傍聴人が全員居眠りしていた。さすがに気にした飯野さんが閉廷前に「昨日市長選挙がありまして」と弁解したら裁判長に「裁判所にはよかった」と返されてしまった。

 弁論を終えたころ裁判長は無罪の腹を決めたらしいとの観測がもたらされた。飯野さん経由の内部情報は確度が高かったから大いに期待していたのだが、間の悪いことに判決の前に最高裁の面白くない判例が出てしまったため幻(まぼろし)に終わった。

 新築したばかりの飯野宅に泊めてもらったり、合宿を重ねたりしている間にいろいろ興味深い話を聞かせてもらった。とくに前橋地裁に赴任してきた東京でも悪名高かった所長が、事実を捏造して活動家を懲戒処分した事件にまつわる話などは、全司法では後輩の私には耳新しいものであった。上田誠吉さん青柳孝夫さんや舘山茂(元団事務局次長)さんらと組んで代理人となり裁判所当局を相手に公平審査を闘った経緯などもつぶさに知ることができた。審理の結果、地裁所長の捏造は明らかになったが、事実をすり替えて処分を維持したのである。公平審査は、もとは人事院の権限であったものを、裁判所職員に限っては特別措置法で最高裁に移譲されていたから裁判官と被告が同一という「不公平審査」であった。その顛末は前記「季刊群馬評論」にも載っている。不当処分の発端から修習生の採用面接で飯野さんが最高裁人事局長と対面するくだりまで書かれている。

 その後の飯野さんの公害闘争や思想差別裁判などの活動ぶりは、私自身は、報道や文書を通して知るだけであるが、その目覚しい業績については周知のとおりである。身近におられた仲間の思い出にゆだねたい。旧版の「自由法曹団物語」には群馬に拠点を拓かれた飯野さんのことが記述されている。新しい団員にも読んでほしいと思う。

 舘山さんが団事務局を退職されるとき、荒井新二さんの発案で伊香保の一泊旅行をした。舘山さんを囲んで東京から荒井さん、上田さん、谷村正太郎さん、私が参加したが、地元の飯野さんが運転する車で観光地をめぐり、予約の旅館では、ともに全司法で闘った舘山さんと飯野さんの昔話を中心に大いに盛りあがった。たいへん楽しい時間であった。

 二〇〇四年秋に擱筆の「季刊群馬評論(一〇〇号)」までの連載などから、司法改革に対する飯野さんの生涯を通した熱い思いのほどを読み取ることができるが、やはり後に伝えることを願っておられたのであろう。弁護士としての貢献だけでなく地元の民主勢力にとっても実に大きな存在であったと思う。

 感謝の気持ちを添えて心からご冥福をお祈りしたい。



【新旧役員挨拶その四】

就 任 挨 拶

東京支部   杉 尾 健 太 郎

 はじめまして。事務局次長に就任してすでに一ヶ月半、遅い就任挨拶となりました。陳腐な言い回しで恐縮ですが、目まぐるしい一ヶ月半でした。いや、ホントに目が回るんです。

 事務局に入って圧倒されたこと。その情報量の多さ。私、模範的新人事務局員として全てのメーリングリストに登録してもらいました。ええ、登録してもらいましたとも。すごいです。量、というより中味が濃ゆい。元々情報処理能力に難ありの私、もう朝パソコンの電源入れるのが怖いです。怖いんですけど、全国の団員が、少しでも社会を前に進めようと頑張っていらっしゃるのが伝わってきます。こちらも熱くなります。

 事務局に入って感心したこと。専従事務局の皆さんが優秀なこと。皆さんがいるからこそ、団が回っているんだとよく分かりました。いや、別に会議のときにお茶菓子がもっと欲しいとかそういうことを言ってるんじゃありません。団長、幹事長、事務局長、先輩次長の皆さん、私に言わせれば、化け物ですな。皆さん、日々どう生きておられるんでしょうか。きのう裁判所で松井団長をお見かけしました。普通の仕事、してるんですね。

 事務局に入って実感したこと。団って物言うだけじゃなくて、動くんですね。自らよく動く。教育基本法「改悪」、改憲手続法案などなどなど目白押しだったこともありますが、連日の国会要請、すごいです。だからでしょうね、国会でも団の存在は知られているし、「敵味方」関係なく信頼されている、そう思いました。「団の事務局次長です!」「はあ?団?」すいません。力及ばず、未だ「団」だけでは国会には通じません。通じるように頑張ります。

 事務局の仕事は、全国の団員の頑張りを受け止めて形にして届けることなんだと実感できた一ヶ月半でした。やりがいあります。少々荷は重いですが。いや、かなり、重いですね。でも、団員の皆さんの頑張りを思えば…。それでも、ちょっと、きつい…いや頑張らねば、と今までの生活との折り合いに少々苦労してます。徐々に、徐々に、まあ慣れるでしょう。慣れてくれ、頼む。ええい、就任挨拶で何言ってんだ。頑張れ!杉尾。皆さまの叱咤激励を宜しくお願いします。