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吉田 維一 憲法九条に寄せる「心」をつなぐイベント
〜9条の心〜
佐藤 由紀子 派遣一一〇番を実施します
宮腰 直子 二〇〇七年度自由法曹団女性部総会の報告
城塚 健之 萩尾団員の論考について
村山 晃 議案書の「国民のための司法をめざして」に異議がある
守川 幸男 「犯罪不安社会 誰もが『不審者』?」のご紹介
―治安・監視強化と重罰化は安心・安全のために効果的なのか―
谷脇 和仁 「登山の法律学」
 (溝手康史著・東京新聞出版局)のすすめ
労働問題委員会 一〇/二〇自由法曹団山口総会プレ企画のお知らせ
いま、ワーキング・プアを考える
〜「現代の貧困」の克服のために
増田 尚 公判前整理手続と大衆的裁判闘争
〜長野ひき逃げえん罪事件を題材に〜



憲法九条に寄せる「心」をつなぐイベント

〜9条の心〜

兵庫県支部  吉 田 維 一
                              

 兵庫県では、「毎年九月九日」を、「九条の日」にしようじゃないか、という思いつきで、毎年、九月九日に、『9条の心』という名のイベントを行っている。すでに、この「9条の心」というタイトルは、九月九日のイベントに止まらず、兵庫県下の九条の会が集まって行うイベントの代名詞ともなっている。

 今年の九月九日にも神戸文化ホールにおいて、実に、第四回目となる「9条の心」のイベント「ひろげよう!9条の心」が開かれた。ちなみに、前回、二〇〇六年に行った「はばたけ!9条の心」の際には、七五〇〇名もの市民を集め、定員八〇〇〇名のワールド記念ホールを埋め尽くした。今回は、定員二〇〇〇名の神戸市民ホールであったが、それでも一六〇〇名の参加があった。今回は、人数ではなく、「ひろげよう!9条の心」というタイトルどおり、いろんな人に呼びかけて、実際に、主体的に参加してもらうことに重点を置いた集会であった。とはいえ、時期的には、国民投票法が成立し、さらに、参院選で与党が大敗した後といった、何だか、一息も二息もつきたくなるような、憲法のイベントへの関心を訴えるには困難な状況にあったことから、当日の入場者数が心配された。しかし、開演直前には、一階席がほぼ満員となり、ほどなく、二階席もほぼ埋まり、兵庫県民の憲法九条改悪への動きに対する継続的な関心が明らかとなった。

 さて、肝心の内容であるが、記念講演は、作家の辻井喬さん(堤清二さん)であった。「勉強をしていない人は強い。戦後レジームを転換するなどと平気で言う。」などと、所々にウィットの効いた語り口で、会場も所々で笑いを誘われた。終盤には、私たちが最近よく対面する、「○か×か?」という二者択一を迫る議論は間違っているとの指摘を受けた。特に、「相手は、この質問方法によって、こちらが多角的な検討をする機会を奪い、複雑なはずの問題を単純化し、質問の時点で、既に、こちらの回答を予測し、こちらが不利となる次の議論を用意している」との指摘は、昨今の劇場型政治の危うさに関連して、私たちの日常の思考方法を反省するにあたって、非常に示唆に富むものであったように思った。

 また、当日、ライブをお願いした普天間かおりさんの平和を願う気持ちは、彼女の歌声からはもちろんのこと、曲間の素直で丁寧な語り口にも現れていた。沖縄で生まれ育った彼女が、成長とともに、等身大に平和の意味を考え、ステージ上での歌と曲間の話を通じて、私たちにダイレクトに問いかけてきたように感じた。私たちは、九条の活動をする際に、「沖縄のことを忘れてはならない」と思いながらも、実際には、身の周りの活動に埋没してしまい、沖縄のことをより深く知ろうという努力を怠っているのではないだろうか、九条と平和の活動を考える上での原点、立つべき場所は今なお米軍基地という矛盾を抱え続ける沖縄にこそあるのではないかと、改めて感じさせられた貴重な時間となった。特に、彼女の歌った「さとうきび畑」には、会場の多くの方が心を動かされたと思う。彼女が「この曲は、最近まで歌えなかった。沖縄ブームに沸いた時もあったが、そのときでも生まれ育った沖縄の風景が浮かび、悲しくて辛く、歌えなかった。ただ、歌うことによって、その気持ちを背負って、引き継いでいかなければいけないと思うので、今日は歌おうと思う。」と語った後に、渾身の絶唱を披露したことから、会場のあちこちから涙を誘っていた。

 一方で、「9条の心」は、若い人たちのイベントでもあることを紹介したい。前回は、若者による九条ファッションショーやライブが行われたが、今回も、前回とは異なる若い人たちによって、引き続き、「ファッション」「ダンス」「合唱」など、広いジャンルからのパフォーマンスが行われた。このように、若い人たちが九条の集会に積極的に参加し、これを次回につなげていくことは、兵庫の九条の集いの特長となりつつあり、大変素晴らしいことであるように思う。特に、合唱では、子どもを抱いた女性も参加し、子どもの声もコーラスに合わさるなど、「いろんな個性がまとまる」ことが体現されており素敵だと思った。

 最後に、兵庫県弁護士の九条の会などの活動において扇の要として活躍する羽柴修弁護士の挨拶の一部を紹介したいと思う。

「私は、テレビで改憲派の話などを聞いていると、『何を言ってるんだ』などと思い、テレビを切ってしまう。しかし、最近、これではいけないと反省している。私たちの平和を守る活動は、単に自分の主張を訴えるだけではダメ。自分基準では、夫婦喧嘩をはじめ、様々なところで争いが起きてしまう。これからは、相手基準で、ものごとを考え、訴えていかないといけない!」

 こうした視点は、今後も、繰り返されるであろう憲法改正に向けた動きに対して、私たちが効果的な平和活動を行う上で有益であるとともに、マスコミではなく、私たち自身が世論を形成するためにも必要である。それと同時に、私たちが憲法九条を守る活動をする中で、本当の民主主義をようやく作り出しているかのような気にさせられた。

 このイベントについては、団員以外の兵庫県弁護士九条の会の弁護士からも「『美しい国』が目指す「規律正しくまとまる」という形ではなく、「いろんな個性が、一つの思いを核にしてまとまる」という形が伝わった」「普天間かおりさんの歌声をはじめて聴いた人も、私も含め、たくさんいたと思う。それでも、会場で心を動かされなかった人は、皆無だったに違いない。」などの感想が寄せられるなど、兵庫県では、徐々に、県内の様々な九条の会の人たちが集まり、「9条の心」が個性を持つイベントとして機能し始めている。他県でも、作ったままになっている九条の会が、こうしたイベントを通じてつながり、元気になっていってほしいと心から思う。



派遣一一〇番を実施します

宮城県支部  佐 藤 由 紀 子

 九月三日のシンポジウムに参加しました。

 宮城県支部でも、以前から、派遣労働を中心とした非正規雇用の問題に取り組まなければと考えながらも、まだ、何もできないでいました。

 特に、「すきや」の件では、仙台にもたくさんの「すきや」への派遣労働者がいるのに、全く関わることができないでいることに、力不足を感じていました。

 宮城県では、研究者、弁護士、労働組合が「パート一一〇番」として、主にパートタイム労働者の労働事件の相談窓口を設け、一五年ほど活動を続けていましたが、県労連にパート部会が結成されてからは、事実上、その活動は終わり、派遣労働問題に取り組む主体のない状態が続いていました。

 今回、シンポジウムに参加することをきっかけとして、仙台でも、一〇月二七日(土)一〇時〜一六時、宮城県労連の会議室で、「派遣・パート・アルバイト何でも一一〇番」を実施することにしました。

 もっとも、宮城県支部では、これまで派遣労働の事件をほとんど扱ったことがないので、まず、団支部内の学習会を九月一三日に開き、シンポジウムの資料を基本に、偽装請負、違法派遣等の勉強をしました。一〇月一一日は、支部総会ですが、学習会を兼ねて開く予定で、一一〇番の準備を進めています。

 首都圏ユニオンの活動には、本当に頭が下がります。また、放映されたビデオの中で、派遣労働者が初めて団体交渉に立ち向かっている場面には感動しました。きっと震えるような思いで使用者と対峙したことでしょう。でも、ひとりではないと知った労働者が増えれば、派遣労働者も、力をつけてゆくことができます。

 宮城県は、まだ、派遣労働問題に取り組む第一歩ですので、首都圏ユニオンの活動には遠く及びませんが、とにかく、活動を始めたいと思っています。

 鷲見先生のお話にもありましたが、派遣労働者として、特に、日々派遣として働いている人達には、憲法も、憲法「改正」も遠く、これらは関心のない問題でしょう。あるいは、今の希望のない状態を変えられるなら、戦争だって悪くないと考える人達もいるかもしれません。

 派遣などの非正規で働いている人達と少しでもつながり、彼らと連帯できる道を探りたい。これも派遣労働問題に取り組む大きな原因です。

 少しずつでも、現状に切り込んでゆきたいと考えています。



二〇〇七年度自由法曹団女性部総会の報告

千葉支部  宮 腰 直 子

 二〇〇七年九月七日と八日、東京都台東区にある水月ホテル鴎外荘で、自由法曹団女性部の二〇〇七年度総会が行われました。この日は前夜から台風が東京を直撃し交通手段がマヒしていましたが、全国各地から総勢三三名、一四期のベテランから登録二日目の新人まで、いろんな人のご参加をいただきました。松井繁明団長には最初から最後までおつきあいいただきました。ありがとうございました。

◆一日目

【全体討議】

 参議院選挙後で安倍内閣退陣前という状況の中、岸松江団員、村田智子団員、今野久子団員、千葉恵子団員から情勢報告がなされ、たくさんの意見交換がされました。私の理解と記憶に基づき断片的ですがご紹介します。

【特別報告・男女共同参画】

 中野和子団員から東京二弁における男女共同参画の取組みが、菅原友子団員から日弁連における男女共同参画の取組みが報告され、意見交換がされました。いくつかをご紹介します。

【特別報告・国際人権活動】

 伊藤和子団員から、昨年設立された日本の人権保護団体「ヒューマン・ライツ・ナウ」の国際的人権活動が紹介されました。「ヒューマン・ライツ・ナウ」は、アジア地域などで活動する人権団体と連携しながら国際社会や日本社会に人権侵害を告発し国境を越えた人権活動を行っています。

 懇親会では、土井香苗団員から米国の人権団体「ヒューマンライツ・ウォッチ」のアジア特派員としての活動が報告されました。

アジアの人々が日本の法律家の活躍に期待するものは大きいようです。

◆二日目

 今期の活動報告、来期の活動方針についての意見交換、女性部の連絡体制の確立、会計・人事の承認を行いました。また、婦団連の堀江ゆり会長が激励の挨拶に来てくださいました。

【今期の活動報告】

 今期は新人学習会、拡大運営委員会、国民投票法案反対運動、国際婦人年連絡会への参加などに取り組みました。

【来期の活動方針】

  1. 憲法改悪を阻止するために取り組みます。憲法のリーフレットないしパンフレットを作ることにしました。従前女性部で作成した憲法冊子などを参考にしながら、九条を中心に二五条、一三条、二六条、二七条などに繋がる、わかりやすいものにしたいと考えています。具体的なイメージはこれから検討していきます。

  2. 男女共同参画を憲法運動と一体のものとし団女性部が積極的に取り組みます。

  3. テロ特措法の延長反対を民主党その他の野党に働きかけていきます。

  4. 女性修習生、女性専門職、女性団体との交流を深め、問題意識を共有していきます。

【女性部の連絡体制の確立】

 女性部は女性団員約二六〇名で構成されています。全員に効率的に連絡するため、メーリングリストを拡充します。つきましては、できるだけ多くの方にメーリングリストへの登録をお願いします。また、各地に連絡担当者を置き、地域ごとに連絡を徹底することにしました。近日中に各地担当者を確定し担当者あて最新名簿をお送りします。

 皆様のご協力をお願いします。

【会計・人事】

 会計報告および次期運営委員人事はいずれも承認されました。

 次期運営委員の人事は次のとおりです。

 部長 倉内節子(東京)

 事務局長 岸松江(東京)、千葉恵子(東京)

 運営委員 西田美樹(東京)、村田智子(東京)、宮腰直子(千葉)

 会計監査 中野和子(東京)

以上



萩尾団員の論考について

大阪支部  城 塚 健 之

一 はじめに

 団通信一二四九号(二〇〇七年九月二一日)で、萩尾健太団員より、私が五月集会特別報告集に書いた「仕方がないではすまされない」についてのご意見をいただきました。最初にお断りしておきますが、私はいわゆる「司法族」ではありません(こんな用語があるのかどうかは知りませんけど、要するに司法問題の専門家ではないということです)。したがって、知識も限られており、団内で激しく意見が対立している(というよりは、何となくタブー扱いされている)このテーマについて書くこと自体、非常に勇気が要りました。団通信ではなく、特別報告集に書いたのは、ただちに議論の応酬に巻き込まれるのが、半分は怖く、半分は面倒だったからです。特別報告集ならそんなこともないだろうという逃げの気持ち。それでも、そのうち司法改革推進派の人からは袋だたきにされるかもしれないと身構えていました。ところが、そうした人たちからは相手にもしてもらえず、初めての批判が萩尾団員からというのはやや予想外でした。

二 「二割司法」の評価

 萩尾団員は「二割司法が正しかった」というのは誤りであるとされています。ご指摘を受けて改めて自分の原稿を読み直してみますと、なるほど、言葉が足りなかったようにも思います。

 私は、「二割司法」とは、渡辺治教授などが規定する「開発主義体制」における司法のあり方ではないかと考えています。

 この「開発主義体制」とは、「国民経済の枠内で大量生産・大量消費を達成する『フォード主義』型資本蓄積様式」プラス「国家が深く介入して経済を支える『ケインズ主義』的諸制度」であり、これを支えるのが、西欧では「福祉国家的大衆統合」でしたが、戦後日本の場合は「企業主義的大衆統合」であった、などと説明されています(「ポリティーク」九号五頁・進藤兵教授の解説より)。

 すなわち、自民党政権のもと、これと一体化した行政の強力な指導のもとに経済成長を図り、国民は企業や土建業界その他の利権団体や旧来の地域社会ヒエラルキーのもとに統合される国家社会体制のことです。そこでは、個別紛争の多くは、行政・企業・ムラ社会の中で「処理」されていきます。そうした社会では何でも裁判沙汰にする必要はなく、「小さな司法」で済むということになります。それはその時点のわが国の発展段階においてはおそらく適合的なシステムでした。だからその状態が、一定期間、安定的に続いてきたのです。

 私は、そうした紛争処理システムがすべて悪かったとは思っていません。あいまいな解決をする方が双方にとって幸福な場面なんて、和解等でいくらでも経験していることです。何でもかんでも「公正で透明なルール」なんて息が詰まります。

 しかし、すべてよかったとも思いません。「処理」はあくまで「処理」であって、権利救済とは限りません。そういえば、労働審判制度などの個別労使紛争処理制度も「処理」です。それが良いか悪いかは中身にもよりますが、お上が「処理」という言葉を使う場合、国家の大事の前には個人のトラブルなど些細な小事にすぎない、という発想が透けて見えます。

 そして、人権課題もまた「私事」として置き去りにされます。もちろん、それが放置されてよいはずがありません。だからこそ、団の偉大な先達たちは埋もれていた人権侵害を掘り起こし、「公事」として取り上げ、救済を広げていったのです。

 今日でも萩尾団員が挙げるようなさまざまな人権課題は山積しています。しかし、弁護士がこうした人権課題「だけ」するなんてしょせん無理です。私だって、自称・労働弁護士ですが、労働事件だけで事務所経営が成り立つはずがありません。

 他方で、人権課題というものは弁護士だけで解決できるものではありません。それはさまざまな人民の闘争・運動により実現されていくべきものです。この点、テレビに登場する人権弁護士像というのは不正確ですね。弁護士に頼めば何とかしてくれるものと思われてしまいます。しかし、弁護士が請負主義で成果を上げても長持ちはしません。これは団員であれば共通の理解が得られるのではないかと思います。

 したがって、人権課題だけを取り上げて「弁護士が足りない」と論ずるのには無理があると思うのです。

三 弁護士へのニーズはあるか

 とはいえ、私も、「弁護士へのニーズがある」というのは正しいと思います。ただし、これは、既に書いたように、「タダ」ないし「廉価」という条件付きでの話です。クレサラはせっぱつまっているから多少お金がかかっても頼もうということになるかもしれません。やればまず成果が上がりますし。しかし、離婚事件などは弁護士がいなくても何とかなることも多い。したがって、こうした場合、当事者は損得勘定をすることになります。前に紹介した広島の溝手康史団員や中西新太郎教授が論じておられるとおりです。

 このように、経済的なバックグラウンドと切り離して「ニーズ」を論じるのは誤りではないか、というのが私の意見です。

 ところで、よく、法曹人口規模は国民が決めるべき問題と言われます。それは抽象的には正しいのですが、だからといってそれを国会で多数決や政治的妥協で決めてよいとは思いません。ましてや規制改革会議のような何ら民主的基盤を持たないところが数字を弄ぶなんてナンセンスの極みです。それはむしろ、法曹自らが(できるだけ)科学的手法に基づいて決定していくべき問題だと思います。それをギルド的と非難する人は間違っています。それが「市民」であるなら、私たちは、間違っている「市民」に対する批判をためらってはいけません。

 なお、医療保険と同じように公的な権利保護保険ができて弁護士費用をカバーしてくれるのであれば、こうした経済的な制約は違った形になるかもしれません。しかし、それが現実的な解決方向となりうるのかは私には判りません。医療保険も自己負担の割合が高まり、市場原理に基づく混合診療が持ち込まれようとするなど、セーフティネットとしての存在意義が疑われている今日です。権利保護保険も保険会社の商品の一つでしかないのが現状でしょう。

四 弁護士は不足しているか

 地方では弁護士の不足が言われます。現状はその通りだろうと思います。しかし都市部は明らかに過剰です。新規登録弁護士の就職先がないというのは、弁護士会の司法改革推進本部の人が言うように弁護士が後継者養成をさぼっているからではなく、明らかに供給過剰だからです。

 先日の五月集会の将来問題委員会では、地方の団員からは、弁護士は現実に足りないのだからおまえの意見には賛同できないと言われました。しかし、コップの水がこぼれるように地方にあふれていけばそれでいいんですか。先日ある地方の団員に久しぶりに会ったとき、彼は「都会で仕事にあぶれた出来の悪いのばかり来てもらっても困る」と述べていました。もっともだと思います。

 ある団員が指摘していましたが、刑事事件は人口に比例し、民事事件は事件数・訴額ともに経済活動に比例します。前者は主として自然人についてのみ問題となるのに対し、後者は法人を含めた経済活動に左右されるからです。しばしば、人口何人に対して弁護士何人、という言い方がされます。しかしこれは、自然人だけを念頭においている議論であって、もともとおかしな議論です。都市部に弁護士が多くてもやってこれたのはそこでの経済活動が活発だからです。

 弁護士過疎の問題は、過疎一般の問題と不可分だと思います。地方は刑事弁護だけが問題なのではなく、雇用も福祉も医療も何もかもが危機的なのです。地方分権の幻想のもと、三位一体改革で疲弊させられている地方。そのスケープゴートにされたのが北海道の夕張市です。そんな疲弊した地域で弁護士の頭数だけ増やそうとしても限界があるでしょう。

 そもそも人手不足だという地方単位会では、経済的にみて、一体あと何人くらい受け入れが可能なのでしょうか。概数でもいいからシミュレーションしてみてはいかがでしょう。それを全国的に集計すれば一体何人になるのでしょうか。まさか、今後新規登録する弁護士の一年分で終わりということはないでしょうね。

五 クレーマーについて

 萩尾団員は、「クレーマー増加=権利意識の高まり」というのは誤りだとされます。そこには「権利意識」が高まるのはよいこと、という前提があります。私は、必ずしもそうは思いません。人権への理解が深まることと「権利意識」が高まることとは違うのではないかと思うからです。

 クレーマーにとって、人権は方便でしかありません。それは他者の権利を尊重しないからです。私はそういう意味で、新自由主義に適合的な人間の生き方の例としてクレーマーに言及したつもりでした。

 ちなみに、香山リカ氏は、クレーマーは、「『悪いのは企業で自分たちは被害者』という前提からしか主張されない」ところに本質的な問題があり、「そのウラには『バカにされている』、『なめられている』という被害者意識や不安、自分を相対化することのできない視野の狭さ、さらに『私にも間違いがあるかもしれない』という想像力の欠如」があり、これは「成果主義で『勝ち組』『負け組』が明白に二極分化する社会の中で自分を守るには、弱みを見せずに攻撃的になるしかない」からではないかという分析をされています(「〈私〉の愛国心」ちくま新書・六九頁〜)。

 もちろん、権利を主張する者がただちにクレーマーというわけではありません。でも、両者は決して矛盾はしません。

 新自由主義の価値基準はとにかく競争に勝つことです。そのためには競争相手を蹴落とさなければなりません。やるかやられるか、といった日常の中でクレーマーが増加するのは必然かもしれません。

 なお、萩尾団員はクレーマーとバッシングとが同じであるとされていますが、これは場面が違うような気がします。クレーマーはあくまで自分の権利(だと主観的に思っているもの)だけを主張して相手を攻撃するのに対し、バッシングは、権利とは必ずしも関係なく、相手の立場が弱く反撃してこないと見越して安全地帯から攻撃して欲求不満を解消すること(要するにいじめ)だからです。でも心性的には同じかもしれません。

六 弁護士没落論について

 萩尾団員の意見は、なんだかんだ言っても弁護士は庶民よりは恵まれているではないか、ということですね。しかし、一〇年後、二〇年後も同じことがいえるでしょうか。あるいはこれから登録する新人弁護士はどうでしょうか。

 それと私が言いたかったのは、その庶民自体が格差社会の中で底抜け状態で没落していくわけです。だとすれば当然弁護士も底抜け状態となるでしょう。それを憂うのは私は当然だと思います。

 人間というものは、ある程度の余裕がないと、プラスアルファの仕事はできないのです。もちろん団には超人的な人がたくさんおられます。たくさんいすぎて困るくらい。でも、それを万人に求めることは無理です。私自身、家族を犠牲にして修行僧のようになれと言われれば考えてしまいます。

 もっとも、地方の方の反発を承知の上で述べますと、弁護士過疎地では独占企業ですから、そこでの弁護士は都会の弁護士よりもはるかにたくさん稼いでいます。先日、日弁連のプレシンポの記録を読んで、近畿各県別の弁護士の売上げを見て驚きました。当然、社会的ステイタスも違ってきます。都市部では社会的地位も相対的に低くなり(「敷居が低い」とはそういうことでもあります)、弁護士に対する業務妨害への心理的抵抗もなくなってきます。「弁護士がなんぼのもんじゃ」です。たまったものではありません。

 さて、近い将来、イソ弁は労働組合を結成して自交総連のようにデモをすべきなのかもしれません。軒弁は労働者性がないかもしれませんが、年金者組合というのもあるくらいですから、やはり団結して社会にアピールすべきでしょう。

七 最後に

 以上、いろいろ書きましたけど、萩尾団員の「法曹界として責任を持って養成できるだけの人数に限定されるべき」との意見には賛成です。そのためには、少なくとも法科大学院を計画的に縮小していく方策が不可欠でしょう。それをしないと、じきにもっと野蛮な淘汰が始まるからです。



議案書の「国民のための司法をめざして」に異議がある

京都支部  村 山  晃

 

 今次「司法改革」は、激しい「せめぎあい」の中、団員の大きな奮闘で、単純な「規制緩和路線」を歩ませず、「市民のための司法」(ちなみに「国民のための」と言う用語は、使わない方が良い)の歩みとして評価できる少なくない部分を切り開いてきた。その評価をしっかりとすることは、団活動の今後の方向性を見いだす上でも必要不可欠なことである。団は、団員一人一人の闘いの上に成り立っているのであり、司法改革の分野で頑張ってきた団員が、困難な中、切り開いてきた部分について、その活動を十分見ないまま一方的な否定的評価を下すことがあってはならない。

 さて、この議案書の第1の冒頭の表題は、「司法改革の到達点」と書かれているが、そういう意味を含めての到達点は、ほとんど明らかにされていない。法曹人口問題だけが、しかも、その「影」の部分だけが、歪められた評価で大きく強調されているに過ぎない。

 団は、審議会意見書が出された時も、「司法改革」の二面性をしっかりと押さえ、手放しで賛成する評価にも、頭から否定する評価にも、いずれにも組しない立場を取ってきた。 市民一人一人の権利をまもるための司法制度の枠組みをどう作っていくのかという大きな観点から論じていたからである。そうして、問題点を克服しながら、少しでもよりよい方向に司法改革を進めるべく「実践すること」を重視していたからである。

 今回の議案には、大きな困難な中で、多くの団員が「実践し」「切り開いてきた」部分については、何一つ言及がない。

 二年前の議案書では、例えば、「司法支援センターの準備委員長となった団員が、日々奮闘している」とされ、総じて「市民のための司法改革は道半ば」であり「司法改革の実施段階に入った各分野において闘っていく必要がある」とされていた。

 今年のような総括では、必死に奮闘してきた団員の活動は、まったく顧みられることもなく、全てが否定的な事象で捉えられることとなる。それは団のあるべき姿ではないと私は思う。

 法曹人口問題は、私たちに直結する大きな問題である。この問題に検討を加えることは極めて重要である。しかし、それだけに、もっと事実を正確にとらえ、しっかりとした評価をすべきである。

 最も卑近な例をとれば、合格者の枠が増えたことで、これまで、人々のために闘う弁護士になりたいと言う強い思いを持ちながらも、なかなか試験に通れなかった人たちに門戸が開かれ、団の事務所にも入ってきている。

 議案書では、「偏在解消の速度は緩慢」と言う評価になっているが、例えば、つい最近の新聞では、熊本弁護士会が「五年間で五割増えた」と大きく報じられている。ただ、同時に、熊本市内に集中しているのが、今後の課題とされている。次には、さらなる僻地への偏在解消がターゲットになってきているのである。かって、なかなか人の来なかった釧路や、島根などなども、ここ数年で倍増している。この現象は、今まで「弁護士が来ない」と言って悲鳴を上げていたどの地方の弁護士会にも起こっている現象である。これを「緩慢」という評価だけで済ませてしまうのは、いかにも消極的なめがねがある。

 議案のレッテルを貼ったいい方=「法曹人口増員論者」といういい方を借りると、それこそ「法曹人口増員反対論者」は、八〇〇人や一〇〇〇人の増員ですら、当時から、強く反対していたのである。一〇年前には、両「論者」間(どちらも団員であることが多かった)での激しい論戦が、日弁連内で展開された。当時、多くの団員がそうであるように、私自身も、大いに迷っていた。

 いずれにしても、議案書のように「法曹人口増員論者」というような決めつけた表現は止めるべきだ。一体誰を指しているのか、不明である。司法改革が始まった時期、私は三〇〇〇人決議に賛成したが、いろんな注文をつけ、迷いながらの賛成であった。大方がそうだ。単純な賛成論者は決して多くないが、そういう風に書かれると、私までもが、そういうレッテルを貼られた気分になり、大変不愉快である。もっと細やかな心配りをして丁寧に議論を進めて欲しい。

 ちなみに、私は、どちらかというと消極的に見ていたし、今も見ている面がある。影の部分は大変気にかかる。三〇〇〇人についても、「既定路線」と決めつけるのではなく、実情に則した見直しは必要である。ただ、その前に、可能な取り組みを全てするという懸命の努力が無いと、市民は納得しない。

 また、就職問題について、私たちがどう取り組むかも重要な課題である。議案書では、「第11章 将来問題」のところで提起されている課題が実践的であり、極めて重要だと思う。その一方で、司法改革のところでは、「日弁連」が「想定外の事態に混迷が続いている」という書きぶりになっている。私が見ている限り、日弁連にとって、今の事態は、「想定外」でもなければ「混迷」もしていない。日弁連は、少しでも多くの後継者を法律事務所と結びつけるため懸命の取り組みをしていることは間違いがない。その取り組みの是非について評価するのならまだしも、誤った評価は、日弁連と団とを切り離す役割を果たすだけに終わってしまう。率直なところ「法曹界の二〇〇七年問題」と呼ばれた今年についても、就職戦線に、大きな「混迷」は見られていない。

 団の多くの事務所は、ロー・スクール生と接点を強め、多くの司法修習生の指導をし、またできるだけ採用の枠も広げ、市民のための法律家を養成するために腐心している。偏在を解消してくためにさらなる努力が求められている。日弁連の活動とも結びつけ、多くの後継者が「市民のための法律家」として育成してくために何が必要かを考えることこそが、私たちが現在求められている喫緊の課題である。そのために叡智を集める必要がある。

 最後に、日弁連は、さらなる大増員を意図し、弁護士自治と七二条問題に攻撃の矛先を向ける「規制改革会議」と厳しく対峙していることを見落としてはならない。一二〇〇〇人や、九〇〇〇人というとんでもない数字を潰すために必死の努力をしている団員・会員のいることも看過してはならない。単に自動的に「取り下げられた」のではない。

 そこでは、私たちは、もっと早く情報を掴み、もっと強く共闘すべきなのである。共通の敵を見失ってはならない。見方を敵に回してはならない。

 この路線との対決し、市民のための弁護士会を作りたいと思っている多くの良心的会員と、しっかり共闘していくこと、その先頭に団員が立っていくことこそ、今、最も強く求められていることである。



「犯罪不安社会 誰もが『不審者』?」のご紹介

―治安・監視強化と重罰化は安心・安全のために効果的なのか―

千葉支部 守 川 幸 男

第1 読んだきっかけと紹介する動機

 書評ではなく、本の紹介である。

 実は凶悪犯罪は減少傾向にあることは、国民の一般常識には反するが、団員なら知っている人も多い。この本は二〇〇六年一二月二〇日発行の光文社新書刊である。著書は、龍谷大学教授で、矯正施設や保護観察所勤務もある浜井浩一氏と、京都造形芸術大学非常勤講師の芹沢一也氏であり、統計と考え方の両面から追っている。

 昨年一二月、県弁執行部から、共謀罪とゲートキーパー法が危ないので至急市民集会を、との要請があった。私はゲートキーパー法対策本部長をしていたので、実行委員長となって集会をやることになった。やる以上、この二つだけでは人が集まらないので、もっと広いテーマでと考え、「監視社会と密告社会にレッドカード 共謀罪と弁護士の依頼者密告制度を考える市民集会」とした。あわせて「日弁連人権大会(一一・二 浜松)プレシンポジウム」とした。基調講演は「監視社会と密告社会の行き着く先ー弁護士とマスコミの社会的役割ー」で、角川書店発行の「監視カメラは何を見ているのか」(これもおすすめの本である)の著者大谷昭宏氏、パネルディスカッションは大谷氏に加えて、海渡雄一弁護士、環境・平和活動家のきくちゆみ氏、コーディネーターは私であった。

 この準備の過程で赤旗の本年二月九日付「朝の風」で「監視で安全は得られるか」と題する頭書の本の紹介があり、求めてみた。

 かつて私は団通信一一六七号(二〇〇五年六月一一日号)で「『安全、安心のための治安の強化』に賛成する市民をどう説得するのか」と題する投稿を行ったこともあり、この論点に関心を持っていた。

 本来、これらを踏まえた投稿を考えていたが、忙しさにかまけて時間がなかった(熊本五月集会の警察問題分科会で発言はしたが)。

 しかし、来たる一一月一日に浜松で人権擁護大会シンポジウム第一分科会「市民の自由と安全を考えるー九・一一以降の時代と監視社会」があるので、その前に紹介しておきたい。これが投稿の動機である。

第2 この本の問題提起

 1章は「犯罪統計はどのように読むべきか」、2章は「凶悪犯罪の語られ方」、3章は「地域防犯活動の行き着く先」、4章は「厳罰化がつくり出した刑務所の現実」であり、1、4章が浜井氏、2、3章が芹沢氏の担当である。

1.統計分析に基づく凶悪犯罪減少の実態と国民の認識のずれ

 ・一九九八年ごろから、日本の治安悪化と凶悪犯罪の増加を信じている国民が増加している。

 しかし、一九九四年に警察の中に生活安全局が設置され、一九九六年ごろから本腰を入れ出した被害者対策に基づく相談件数は、三〇万件前半から、二〇〇〇年以降急増して二〇〇四年にはほぼ五倍の一八〇万件となっている。

 暴行、障害の認知件数もそのころから二〇〇四年には二倍へと急増している。

 警察の対応が追いつかず、検挙率は九〇%前後から六〇%以下に急減している。

 ・同じケースでも、より重い刑で立件する傾向がある。

 ・殺人事件の認知件数も傷害による死亡件数も減少傾向にある。

 うち、殺人罪の検挙率は九五%くらいであり、低下傾向はない。

 ・飲酒運転の死亡者数も、二〇〇一年一二月に危険運転致死傷罪が施行される五年前の一九九六年から減少している。厳罰化より取り締まり強化の効果のほうが影響が大きい。

 ・性犯罪、暴力犯罪の通報率が上昇している。

 ・暴走族を含め、非行年齢のピークは高齢化、欧米化している。

  引退できない大きな原因は雇用問題である。

 ・著書の行ったアンケートでは、身の回りでは治安悪化していないが、日本のどこかで悪化しているとする人が多い。

(昔と今とで犯罪の質や理解可能性に変化があるかについての直接の言及はないが、「ない」とするように読める)。

2.凶悪事件の語られ方と地域防犯活動の行き着く先

 ・かつて国民やマスコミの関心は、加害者がなぜ犯罪を行ったのかの犯罪原因論が主流であり、その社会的原因への論及や社会批判が行われていた。

 ・二〇〇〇年の少し前からは、普通の子がキレる、犯罪者を特別視しない、とか、他方、理解不能な怪物、異常者、不可解な動機の事件などと言われ、同じころから犯罪被害への共感が広がってきた。

 ・犯罪原因論から環境犯罪論へ。

 ・核心は子どもの安全。

 ・警察の地域安全活動、行政警察化。

 ・治安回復のカギは地域コミュニティの連帯の復活、と言われるが、生み出されているのは地域の連帯どころか、子どもに声をかけたら不審者扱いされる相互不信社会。

 ・セキュリティ産業が肥える。

 ・排除されるのは、社会的弱者、異分子であり、日本は治安共同体へ向かおうとしている。

(犯罪被害者の刑事裁判への参加等についての論評はない)。

3.厳罰化のもたらすもの

 ・刑務所の中は老人と障害者と外国人ばかりで、仕事や家庭を失った人が多く、刑務所の中で労働力にならない。

 ・アメリカの研究でも、福祉予算の比率が低く弱者を切り捨てる不寛容な州ほど、刑務所人口比が高い。

 ・厳罰化は自立困難な受刑者を再犯に追い込む。ホームレスか、犯罪者になる。

 ・アメリカ犯罪学会でも一九八〇年代の厳罰化にもかかわらず、重罪化は統計的に有意な犯罪抑止効果はない、と言われている。

 ・格差が少なく、弱者に優しい北欧は刑務所が過剰収容になっていない。

 ・学校で愛国心と規範意識を教えることで統率の取れた社会をつくり、地域社会から不審者を刑務所に追いやる、一見きれいな社会をつくることが本当に「美しい国」なのかどうか。

第3 治安・監視強化と重罰化は安心・安全のために効果的なのか

 人権擁護大会シンポジウムのあと、感想を含めて問題提起したい。



「登山の法律学」

 (溝手康史著・東京新聞出版局)のすすめ

四国総支部(高知県)  谷 脇 和 仁

 七月の、とある真夏日の昼下がり、高知の小さな本屋のアウトドアコーナーで、「登山の法律学」(東京新聞出版局)を見つけました。おもしろそうな本だなと思って、筆者を見てみると、なんと溝手康史さんではありませんか。

 溝手さんは私と同期(四〇期)の団員弁護士で、広島県三次市で事務所を開いています。同期の仲間の間では、以前から「溝手さんは一年のうち半分は山に登っているらしい」とささやかれていました。本書の筆者紹介欄を見ると、二〇代から始めた国内外のはなばなしい登山暦があり、その中にはカラコルム・ヒマラヤのアスタシ(七〇一六m)は「初登頂」とありますから、「一年の半分」は大げさとしても、山男として半端な山暦ではありません。そんな溝手さんが書いた、山岳事故を中心とした法律問題の解説書及びエッセイが本書です。

 山岳事故の問題については、以前からジャーナリストの立場で、本多勝一さんがルポルタージュや論考を発表されていることがよく知られています。しかし、多様な山岳事故について、これまでの判例を分析し、法的な立場から総合的に解説した書物は、私の知る限りこれまで他になく、本書が初めてのものではないでしょうか。本書は山岳専門誌「岳人」に連載したものを基礎に加筆されたものですが、その意味で本書は画期的なものだと思います。

 内容は、全体が二つの部に分けられ、第1部は「設例集 登山における法的責任」ということで五三の設例が取り上げられています。ここでは登山のさまざまな場面で起こりうる事故を想定し、そこでの関係者の責任について、判例や法理論を紹介しながら、分かりやすく解説されています。たとえば登山仲間同士での山行中に悪天候で遭難した場合のリーダーの責任から始まり、最近流行の旅行会社主催のツアー登山の場合の事故の責任、登山用具の欠陥の場合の責任など。またそこでは、登山に限らず他のスポーツや学校事故も視野に置かれ、登山中の落雷事故を扱った設例の解説では、私の地元高知の「土佐高校サッカー落雷北村訴訟」がとりあげられています。そして落雷の予見可能性を否定した原審を破棄した最判平成一八年三月一三日が紹介され、「この判決はスポーツ関係者に大きな衝撃を与えたようですが、山岳地帯においては、従来から落雷事故の危険に対する関心が高かったので、登山関係者から見れば、この最高裁判決はむしろ当然のことを指摘しただけだと感じる人が多いのではないでしょうか。」と分析されています。私もこの訴訟の支援活動に参加していますので、大変興味深く読みました。

 第二部では「社会と登山」として、「登山と休暇」や「登山と転勤」さらには「登山とペット」といった、より視野を広げたユニークなテーマが語られています。もちろん溝手さんの自然環境保護への視点もしっかり提示され、「良好な自然環境を守るために」の中で「日本の自然保護法制の最大の問題は、経済的市場原理の影響を排除できないところにありますが、このような傾向の原因としては〜中略〜自然保護法制が開発利益との「調和」という観点から成り立っており、もともと開発行為を容認する法律になっている点などを指摘できます。」としっかり述べられています。

 そのほか、各項目ごとにつけられた「注」と巻末資料「登山事故関係判例一覧表」も、すばらしく充実しています。律儀で緻密な溝手さんらしい心配りだと思います。

 先日京都で開かれた「研修所卒業二〇周年大会」で溝手さんにお会いして、「すごい本を出しましたね」声をかけると、「法律家からこの本のことを話題にしてもらったのは、谷脇さんが初めて」ということでした。シャイな溝手さんのことですから「献本」や宣伝などしていないのでしょうね。すばらしい本です。山好きの人も、山に関心のない人も、ぜひ一度手にとってみてください。おすすめします。



一〇/二〇自由法曹団山口総会プレ企画のお知らせ

いま、ワーキング・プアを考える

〜「現代の貧困」の克服のために

労 働 問 題 委 員 会

 新自由主義路線に基づく構造改革は、労働力の流動化を主眼とし、終身雇用と年功序列賃金を中心とした日本型雇用システムの破壊を押し進めてきました。今や、非正規労働者は、全労働者の三分の一を超えています。フルタイムで働いても世帯の最低限度の生活水準を保てない収入しか得られないワーキング・プアと呼ばれる層の拡大は見過ごすことのできない状態となっています。また、「ネットカフェ難民」や、社会保険・雇用保険未加入問題など、労働者の生命と健康に関わる問題は深刻です。一方で、企業は低賃金・不安定な労働者を「コマ」代わりに使い捨て、「偽装請負」、「違法天引き」などの無法が全国各地でまかりとおっています。

 総会では、構造改革がもたらしたこうした「現代の貧困」をどう克服するかというテーマで、次のようなプレ企画を予定しています。

 全国各支部・各法律事務所からのご参加を呼びかけます。

【開会のあいさつ】 松井繁明団長 

【第一部 「現代の貧困」を打破するために】

(1) 猪俣正弁護士(首都圏生活保護支援法律家ネットワーク代表)

   ーワーキングプア・現代の貧困の状況について

(2) 高木健康弁護士 

   ー具体的なとりくみ、ノウハウ、生活保護支援九州ネットワーク

(3) 質疑応答 

【第二部 非正規労働者のたたかいの現状と今後の課題】

(1) 二〇〇六年五月三日関西テレビのDVD上映

「偽装請負と光洋シーリングテクノ請負労働者のたたかい」

(2) 森口英昭JMIU徳島地方本部執行委員長

   ー光洋シーリングテクノと日亜化学のたたかい

(3) 日亜化学の偽装請負労働者からの訴え

(4) 事件報告・・・松下プラズマ、タイガー魔法瓶など

【第三部 非正規労働者の権利擁護闘争の前進のために】

(1) 村田浩治弁護士  大阪派遣・請負センターのとりくみ 

(2) 笹山尚人弁護士  首都圏青年ユニオンのとりくみ 

(3) 笹田参三弁護士  岐阜県青年ユニオンのとりくみ 

(4) 井筒百子氏(全労連) 全労連のとりくみ 

(5) 各地の運動の経験交流

 例:団宮城県支部のとりくみ(派遣・パートなんでも一一〇番)

   団千葉支部のとりくみ(一一・二三集会)

   北九州生活保護餓死事件

【まとめと今後の行動提起】 鷲見賢一郎弁護士

【閉会のあいさつ】 志村新弁護士



公判前整理手続と大衆的裁判闘争

〜長野ひき逃げえん罪事件を題材に〜

本部事務局次長  増 田  尚

 司法問題委員会では、一一月九日(金)午後三時から、団本部にて、学習会「公判前整理手続と大衆的裁判闘争〜長野ひき逃げえん罪事件を題材に〜」を開催いたします。

長野ひき逃げえん罪事件とは?

 長野ひき逃げえん罪事件とは、昨年五月に、現職の警察官がひき逃げに遭って死亡した業務上過失致死事件で、無実の被疑者が不当に犯人に仕立て上げられた上、一審長野地裁(土屋靖之裁判長)も、非科学的な判断で、被告人を実刑に処する不当判決をしました。初動の遅れから、加害車両を特定する証拠を得ることができず、捜査は難航していました。そのため、長野県警は、非科学的な見込みに基づき、事故後三カ月経ってから、被疑者への取調べを開始し、事故から七カ月後に逮捕に踏み切りました。被疑者は、逮捕時の弁解録取においては、身に覚えがないと否認していましたが、接見禁止処分により外界から隔絶され、警察官による圧迫と利益誘導によって、虚偽の自白をするまでに追い込まれました。

 本件は、昨年一二月二五日に起訴された後、公判前整理手続に付され、争点整理と集中証拠調べが行われました。本件で争点とされたのは、(1)被害者のはいていたジーンズに残された痕跡が被告人車両の底部の形状一致するか、(2)被告人車両の底部から採取された微物が被害者のはいていたジーンズの繊維と同種といえるか、などでした。これらの客観的な証拠の証明力に関して、警察の技術吏員などの証人尋問が行われました。弁護側は、これに対応する専門家の学者に私的鑑定を依頼し、公判前整理手続の中で、鑑定書をまとめて提出するなど対応しました。弁護側は、最終弁論において、検察側提出証拠の非科学性、脆弱性を明らかにし、被告人車両と被害者とを結びつける客観的証拠は何もないこと、そもそも事件当日に、被告人が加害車両とされる車両に乗車していた事実がないことを述べました。しかし、一審判決は、弁護側が示した合理的な疑いについて、何らの理由も示さず、「不自然とまではいえない」、「矛盾するものではない」、「可能性も十分に考えられる」などと空疎なレトリックで、これを斥けました。自白偏重・客観証拠軽視の誤判の典型といってよいでしょう。被告人は控訴し、間もなく控訴審が始まろうとしています。

公判前整理手続と大衆的裁判闘争

 地元では、「守る会」が結成され、国民救援会長野県本部が支援をするなど、被告人を支援し、公正な裁判を実現する運動にとりくんできました。国民救援会としてが支援決定をした事件で、初めて公判前整理手続に付されたものになります。

 しかし、非公開の公判前整理手続では、裁判の過程が国民の前に明らかにされず、裁判所、検察庁が適正に権力を行使しているかどうかを監視することが困難になっています。本件でも、裁判所は、結審後一週間で判決を言い渡しており、公判前整理手続にて前倒しで心証を得ていることは明らかであり、証拠調べが形骸化しています。さらに、証拠の目的外使用規制によって、被告人・弁護側と支援者とのコミュニケーションが阻害され、被告人が事件の不当性を社会にアピールする手段が奪われるおそれがあります。とりわけ、集中証拠調べによって短期間に結審されれば、それだけ社会の関心を喚起する時間が不足し、拙速な裁判によって被告人の防御権が侵害されることになりかねません。

 今回の学習会では、本件を題材にして、公判前整理手続が導入された下での大衆的裁判闘争のあり方について、国民救援会とともに考え、実践するヒントをつかみたいと考えております。団員のみなさまにおかれましては、ぜひ多数ご参加いただきますようお願い申し上げます。

公判前整理手続と大衆的裁判闘争

〜長野ひき逃げえん罪事件を題材に〜

日時 一一月九日(金)午後三時〜六時

場所 自由法曹団本部 (東京都文京区小石川二丁目三番二八号DIKマンション二〇一号)

講師 岡田和枝(弁護士・長野ひき逃げえん罪事件弁護団員・長野県支部)

    「長野ひき逃げえん罪事件の審理と一審判決の問題点」

    芝崎孝夫(日本国民救援会中央本部)

    「長野ひき逃げえん罪事件における裁判支援とその課題」