<<目次へ 団通信1348号(6月21日)
自由法曹団執行部 | 青森・三沢五月集会の概略 |
鈴木 麻利江 | 自由法曹団二〇一〇年五月集会 事務局交流会に参加して |
木山 悠 | 五月集会新人企画(三沢基地見学)感想文 |
山本 雄一朗 | 「基地との共存」は可能か―三沢基地見学ツアーの感想― |
楠 晋一 | 三沢基地見学記 |
内藤 功 | 安保条約廃棄の議論を起こすための論点整理 |
塩見 卓也 | 松下PDP事件最高裁判決後のたたかい |
金 敏寛 | 青森五月集会に参加して |
木村 夏美 | 五月集会環境・公害分科会感想 |
根本 孔衛 | 【安保条約五〇年安保を語り、安保とたたかう(2)】 日米安保条約改定と私のかかわり(後編) |
西 晃 | 【安保条約五〇年安保を語り、安保とたたかう(3)】 従属から自立へ、沖縄と共に歩む |
井上 正信 | 【安保条約五〇年安保を語り、安保とたたかう(4)】 普天間基地問題から透けて見える抑止力論の呪縛 |
林 治 | 労働者派遣法改正案は当事者の声を聞いて抜本改正を 六月三日労働者派遣法改正を求める議面集会&議員要請に参加して |
酒井 健雄 | 労働者派遣法抜本改正を求める 街頭宣伝・議員要請に参加しました |
森 弘典 | 心臓機能に障がいのある労働者の過労死事件で逆転勝訴判決 〜障がいのある人もない人も安心して働ける社会に!〜 |
亀田 成春 齋藤 耕 |
會澤高圧事件勝訴判決のご報告 |
齋藤 耕 | 北海道NTTリストラ訴訟最高裁決定について |
萩尾 健太 | JR採用差別事件、雇用の実現まで闘いは続く |
虻川 高範 | 国保税減免・一部負担金減免で連続勝訴判決 |
半田 みどり | 泉南アスベスト国賠訴訟―控訴に抗議する |
杉本 朗 | かさねて上田さんの思い出などをお寄せ下さい |
自由法曹団執行部
一 はじめに
二〇一〇年五月二三日から二四日にかけて、青森県三沢市の古牧温泉で、二〇一〇年五月研究討論集会が開催されました。
普天間基地の即時無条件撤去を求めるたたかい、派遣法の抜本改正を求める取り組み、「国会改革」と比例定数削減阻止の活動、貧困との取組など、各地で民主主義と人権を守る闘いがなされているなか、五七〇名の参加者を集めて、熱気あふれる討論が行われました。プレ企画の新人弁護士学習会のほかに、新人弁護士自ら企画した基地見学も行われ、新しい力の結集を感じさせる集会でもありました。
詳細については、八月頃にみなさまのお手元に届く団報に譲りますが、とりあえず概略をお知らせします。
二 全体会
完成した映画「弁護士布施辰治」の予告編が上映されたのち、全体会は始まりました。
議長団として、青森県支部の横山慶一団員、大阪支部の小林徹也団員が選出されました。冒頭、菊池紘団長から開会の挨拶、議長でもある青森県支部の横山慶一団員から歓迎の挨拶があり、来賓として、地元青森県弁護士会の沼田徹会長からご挨拶をいただきました。仁比聡平参議院議員からは、激しい国会論戦を踏まえたメッセージをいただきました。ちなみに青森県弁護士会の沼田会長と仁比団員は、研修所で同じクラスだったそうです。
続いて、鷲見幹事長から、「情勢を切り開く攻勢的なたたかいを」と題して、基調報告と問題提起がなされました。米軍普天間基地の即時無条件撤去、労働者派遣法の抜本改正、捜査過程の全面可視化など、要求実現のたたかいをより主軸にすえ、私たちの奮闘によってそれは実現できる時代であることが、力強く訴えられました。
その後、各地・各分野での運動や事件について、以下の七名の方から発言がありました。いずれも、この間の運動の成果と教訓を踏まえ、今後の取り組みの問題提起を含んだ報告でした。
三 記念講演
米軍基地と自衛隊基地が共にある三沢市で行われることから、今回の五月集会を貫く柱の一つとして基地問題を取り上げることにし、地元東奧日報社の編集委員、斉藤光政さんに、三沢基地の現状と問題点をえぐる記念講演をしていただきました。
斉藤さんは、徹底した取材を嫌がられて基地から出入禁止を言い渡された「勲章」をお持ちで、その成果は『在日米軍最前線』(新人物往来社)にうかがえます。また、最近では雑誌『世界』に鎌田慧さんと共同で「ルポ・下北核半島」を連載されていますが、講演は、鋭い切り口と分かりやすい話し方で、問題の深さを改めて認識させられました。
半日旅行のガイド役もお引き受けいただき、天気は悪かったですが、充実した見学旅行になりました。
四 分科会
今回の五月集会は、今までと同じように、分科会の討論を中心として、経験交流と討議をじっくり深めることとしました。
各分科会と参加人数は、以下のとおりです。
(1)安保・米軍基地分科会 一六九名
一日目は、憲法・安保分科会と環境・公害分科会が合同して、安保・米軍基地分科会を開催しました。全体会で講演をした斉藤光政さんにも参加して頂き、安保改定五〇年を踏まえ、軍事同盟のない世界への展望や日米地位協定の問題点などについて議論をしました。また、沖縄・普天間基地の問題では、騒音被害の実態や沖縄での闘い、抑止力論の問題性や各支部での取り組みなどの報告に基づき議論しました。改憲阻止対策本部を中心に鋭意作成中の「普天間基地の即時無条件撤去を求める意見書」についても報告されました。
(2)労働問題分科会 一二六名
一日目は、まず始めに青森の全労働省労働組合青森支部の小山内正人書記長から青森の雇用情勢について報告を受けました。続いて、労働者派遣法抜本改正に向けての取り組みと、非正規社員の雇い止め・解雇事件についての討議に入りました。発言者は、問題提起を行った鷲見幹事長を含めて八名でした。京都、神奈川、埼玉、大阪、北海道の団員から、労働者派遣法抜本改正に向けての各支部の取り組みと団員らが関わっている具体的な事件(日産自動車事件、NTT三重偽装派遣事件、NTT東日本事件等)に関する報告がありまし。
二日目は、労働者派遣法抜本改正に向けての取り組みと、非正規事件の裁判に関する討議のつづきから始まりました。七名の団員から、三菱電機事件、洋麺屋五右衛門事件、パナソニック・エレクトロニック・デバイス・ジャパン、ジャトコ、テレビ西日本等についての報告がありました。次いで、労働者性が問題となる事案として、大阪から、INAX事件、ビクター事件についての報告がありました。さらに、テーマは、正規労働者の権利を守る闘いへと移行し、NTT事件、国鉄分割民営化事件の和解状況、教育公務員を巡る労働事件の状況等について発言があり、その後は、社会保険庁解体と分限免職問題の発言へと続きました。
最後に、鷲見幹事長から、労働者派遣法抜本改正に向けての行動提起がありました。
(3)貧困問題分科会 一一〇名
最初に滝沢香団員にパワーポイントを使って、貧困問題対策に対する日弁連の取組について説明をしてもらいました。
ついで、千葉、東京、岐阜、宮城、埼玉、神奈川、群馬などから、各地での派遣村活動や配食活動など反貧困の取組について報告と討論がなされました。その後、生存権裁判や追い出し屋などの「貧困ビジネス」問題についての報告・討論を行いました。また教育と貧困の観点からの取組の報告や今年一〇月に行われる日弁連人権大会の子どもと貧困分科会についての準備状況などが報告されました。さらに、法テラスの利用法について実践的な報告がなされました。
最後に、今後の貧困問題に対する取り組みの方向性についての問題提起がなされるとともに、団として貧困問題を扱う委員会を設置する必要性が訴えられました。
(4)弾圧・えん罪分科会 五九名
一日目に足利事件、布川事件、名張事件などのえん罪事件の成果の報告を受け、今後、えん罪をなくすための方策につき、特に取調べの問題点という観点から当事者である菅家さん、桜井さん、杉山さんを招いて議論しました。取調べ可視化の実現、誤判原因究明に向けた取り組みについても議論しました。
二日目は弾圧事件とビラの配布の自由について議論しました。特に、同じ国公法違反事件でありながら、高裁で判断が分かれた国公法堀越事件及び国公法世田谷事件の最高裁における闘いについて、議論を交わしました。
(5)刑事裁判分科会 七三名
「裁判員裁判実施一周年を経て、現状認識と改革への視点」と題して、事件処理状況、量刑傾向などの分析とともに、取調べの可視化など捜査構造の改革、裁判員の負担ではなく被告人の防御権の保障、選択権を認めることなど改革に向けた問題提起がなされた。二日間を通じ、一〇名の団員から、裁判員裁判を経験した報告を受け、質疑応答をしました。制度論については、問題提起に対応するテーマの他、裁判員の量刑への関与の是非、自白調書の扱いなどの議論がなされました。
(6)憲法・平和分科会 一三八名
前日の安保・米軍基地分科会の議論に引き続いて基地問題に関して二つの発言がありました。うち一つは米兵による強姦殺人事件の被害者遺族ご本人による米兵犯罪についての生々しいご報告をいただきました。引き続き、五月一四日に与党三党が強行提出した国会改革関連法案とマニフェストにうたわれている比例定数削減問題について集中討議が行われました。特に国会改革関連法案については、問題が広く知れ渡っている状況にはなく、アンケートにも今回の五月集会で初めて事の重大さに気がついたとのご感想も寄せられました。その後は、改憲手続法施行も含めた憲法情勢一般、各地の九条の会運動、東北における自衛隊による国民監視活動の実態とその差止め訴訟、開催中のNLP再検討会議、アジア太平洋法律家会議というように、短時間ながら盛りだくさんの発言がなされ充実した学習討論会となりました。
(7)環境・公害分科会 三一名
環境公害分科会では、長野支部の中島団員から、長野県浅川ダム問題について、民主党のダム政策見直しにもかかわらず国交省が浅川ダム建設にこだわるのは、治水専用の穴あきダムをダム生き残り対策と位置づけているためだとの基調報告がされました。また泉南アスベストの勝訴報告、B型肝炎訴訟の和解協議、ジュゴン訴訟の現状と課題、都市計画法・建築基準法改正問題等について各地から発言がなされ、活発な討論がなされました。
四 全体会(二日目)
分科会終了後、全体会が開催され、以下の一三名の方から発言がありました。なお、時間の関係上、「沖縄基地(普天間移設)問題から安保廃棄へ」(東京支部・神田高団員)、「軍事同盟のない北東アジアを展望する」(広島支部・井上正信団員)及び「第五回アジア太平洋法律家会議について」(東京支部・笹本潤団員)については発言要旨の紹介のみとさせていただきました。
全体会発言に引き続いて、次の七本の決議を採択しました。
五 プレ企画
五月集会前日の五月二二日に二つのプレ企画を行いました。
(1)新人学習会 八八名
まず、青森県の葛西聡団員から、弘前市の大規模施設建設計画を市民運動と連携した住民訴訟でストップさせた経験や過疎地の団員ライフがリアルに語られました。
次いで、若手団員リレートークでは、東京支部の土井香苗、中村晋輔、小林善亮の三団員がそれぞれの取り組みについて報告し、会場から、運動をどう広げるか、仕事とプライベートをどう両立させるのかなど多数の質問が飛び、笑いと熱気あふれる集会となりました。
また、五月集会一日目の午前中には、新人弁護士自らの企画による三沢基地見学が行われました。
(2)事務局員交流会 一〇四名
全体会では、松井繁明前団長から、裁判闘争における事務局の果たす役割について話をいただき、そしてベテラン事務局の森裕さんから、事務局員交流会の創設そして自身が関わってきた事件について話をいただきました。
分科会は、従来の形式を引継ぎ、憲法運動経験交流、私たちの「仕事」について考える、そして新人交流会という三つの分科会に分かれて熱心な討議が行われました。
六 最後に(お礼をかねて)
多数の参加と盛りだくさんな企画の中、内容の濃い、熱気ふれる集会にすることができたと思います。参加者の皆さんのご協力に心から感謝いたします。
また、地元青森県支部の団員と事務局の皆さん、友誼団体の皆さんには、準備段階から大変ご苦労をおかけしました。今回の五月集会の成功は、皆さんのご尽力があってのことです。本当にありがとうございます。
五月集会後、突然総理が交代したりしましたが、今後政治がどう動こうと、私たちが取るべき態度の基本は、今回の五月集会で確認されたとおりです。この集会の成果をもとに、これからも一層奮闘しましょう!
(原稿の最終的なまとめは事務局長の杉本朗が行いました)
三多摩法律事務所 鈴 木 麻 利 江
今年も団の五月集会に昨年に続き、参加させていただきました。昨年は、事務所に入所して五日目が五月集会という、まだほとんど何もわからない状況での参加だったのですが、この一年で事務所で取り組んでいる憲法を守る運動や、労働問題など様々な活動に私も関わらせていただいたこともあり、二回目となる今年は、昨年とは全く違った気持ちで参加することが出来ました。また、話を聞くところによると、他の事務所では事務局の五月集会の参加は、必ずしも希望制ではないところもあるようなので、二年連続で参加させてもらえたことを、事務所の皆さんに感謝したいと思います。
今年の事務局交流会では、まず全体会で前団長の松井繁明先生から、「自由法曹団の役割と事務局労働者との協働」というテーマでお話があり、まず自由法曹団が数々の運動の中で創立されたこと、また同時期に日弁連や日本共産党など、歴史ある団体が沢山結成され、その後の共産党に対する治安維持法弾圧事件で、団の弁護士がいっせいに逮捕されたことなど日本の近代史を交えて話されました。また今日の自由法曹団の役割について、今年は足利事件や布川事件など、団が関わっている事件で、多くの成果が出ていること、団の活動において、事務局労働者の力は不可欠であるとの話をいただきました。次に、信州しらかば法律事務所のベテラン事務局の森裕さんから団の事務局交流会が始まった当時のエピソードなどを話していただきました。お二人の話から、改めて自由法曹団の持つ力の大きさ、弁護士と事務局が一体となって様々な運動に取り組むことのできる環境が整った事務所で働くことのできる素晴らしさを感じました。
分科会では、初めて「わたしたちの仕事について考える」に参加しました。各地の事務局の方々から、業務体制についてや、地域での運動の取り組み、労働条件についてなど、積極的な情報交換が行われました。業務体制一つとっても、事務所によってやり方が多種多様で、苦労話なども多く聞かれました。運動については、各事務所で取り組んでいる様々な運動の報告がありましたが、中には弁護士と事務局の運動に対する意識の違いや、日々の業務と運動の両立に悩んでいるという声もありました。また労働条件については、賃上げ要求をしたかったけれど、事務所の経営状況をみて、今年は要求をしなかったという報告もありました。定年後の再雇用の話では、自分が働きたい年まで働ける職場をどう作っていくかが大事だという発言が印象に残りました。他の事務所の話を聞くことは、とても大事なことだと思うし、情報交換をして、横の繋がりを作ることも必要だと思うので、この分科会に参加してとてもよかったと思いました。
夜の懇親会では、ゲームで行ったビンゴ大会が大変盛り上がり、松井繁明先生の余興もあり、大変楽しい懇親会となりました。
これからも、団の事務所で働くということの意味を忘れずに、仕事と運動を頑張っていきたいと思います。
宮城県支部 木 山 悠
三沢出身の方には申し訳ないが、三沢は奇妙な印象を残す町である。五月集会の新人ツアーとして青森県の三沢基地およびその周辺地域の見学に参加したが、基地を取り巻く異様な光景に後味の悪さが残った。
閑散としたシャッター商店街を抜けてバスを降りると、基地のゲートのすぐ前に新築の商店の数々と、星条旗をイメージしたタイルが敷き詰められたアメリカ広場に出た。そこにある「MG(メーンゲート)プラザ」というショッピングセンター風の施設は、完成しているにもかかわらず、中はがらんどうのまま放置されている。聞けば、箱は作ったものの、出店業者数が伸び悩み、計画が頓挫しているとのこと。基地特需による町おこしを狙ったものの、現実にはシャッター商店街を拡大させることにしかならなかったようだ。
基地の中には、思いやり予算をつぎ込んだ基地内住宅が立ち並び、基地周辺には広々とした明るい色の基地外住宅が点々と続いていた。戦闘機を隠した民間と共用の飛行場、人気のない米兵専用プライベートビーチなどの不自然な施設郡にも、基地は小さな町の姿をすっかり変え、町を飲み込んでしまったことが感じられた。
そして、今回のツアーで最も衝撃を受けたのは、基地の騒音被害によって、町全体が移転した四川目という場所の跡地を訪れたことである。小高い丘に「四川目移転に記す」という碑が建っている。碑の向こう側には寒々とした野原が広がっているばかりで、町はあとかたもなく、碑だけが、かつてひとつの町があったこと、そこが、今はもう町の人々の記憶の中にしかない無念さを物語っていた。四川目の住人がそこに立つとき、思い出す生活はどんなものだろうか。基地が来る前、かつてそこにあった生活こそが、平和そのものだったのではないだろうか。
基地見学後の斉藤光政記者の講演会では、三沢が沖縄に継ぐ重要な基地、ミサイル防衛の最重要拠点であり、テロや戦争の際に最初に目標にされうる場所であること、それにもかかわらず、三沢では基地に対する反対運動が活発ではないということであった。三沢では、地元経済の基地への依存はそこまで進んでいる。最初に見たシャッター商店街が、すべてを物語っていると感じた。
東京支部 山 本 雄 一 朗
三日間にわたる五月集会の二日目の朝、新六二期の新入団員の中心として、三沢基地見学ツアーが行われた。仲の良い同期でわいわいと楽しくツアーをしてしまい、全てを真面目に見学したわけではないので、ところどころの感想を述べたい。
まずバスが停車したのは、人気のない路地の一端であった。基地と周辺住民との共存を祈念(?)して造られた、通称、「アメリカ村」。アメリカ村に至るまでのバスは、日本の地方都市にしばしばみられる、何の変哲もないシャッターストリートを通ってきたのにも関わらず、突然に西洋風の商店街が現れ、そこがアメリカ村だった。しかも、横文字が多いからアメリカ村、とはいえ、その横文字を読んでみると、日本語をローマ字で書いただけのものが多かった。やや無理やりに、アメリカ風の通りを作っていて、その周囲と全くマッチしていなかったのが、何とも残念であった。
その後ツアーバスは、三沢飛行場を経て、とある小さな神社に着いた。境内は見晴らしがよく、広大な農地や牧草地が広がっていた。ガイドさんの説明を聞いたところ、そこにはもともと多くの人が住んでいたが、基地の爆音がうるさ過ぎて耐えきれず、皆引っ越してしまった、とのこと。基地があることで、その場所で生活することができなくなった人がいる、というのを、まことに遺憾に思った。ツアーに行った日、午後の全体会の講演では、三沢市は日本の市町村で唯一、「基地との共存」を図る市だということを聞いた。三沢市の意図している「共存」が周辺住民とアメリカ軍の、形の上の共存でない限り、少なくとも思惑通りにいっていないことは明らかだと感じた。
大阪支部 楠 晋 一
五月二三日午前中、六二期有志が企画した三沢基地見学ツアーが、八戸市の教師である中屋敷先生と三沢市の奥本市会議員のガイドの下で行われました。
最初に町の振興策として建設されたアメリカ村に行きました。華やかな壁、広い道。どことなくハリウッド映画のセットを思わせるような町並みには正直違和感を覚えました。
メインの広場には二階建ての立派な建物があるのですが、入っているテナントはたった一つで、他はいまだに配管がむき出しという現状。基地交付金の返還を免れるためには、建物を最後まで作り上げる以外に選択の余地がなかったと聞き、アメとムチのアメさえも市民には有効活用されていない様子がうかがえました。
基地の入り口には保険代理店が立ち並んでいるのですが、その中の一つに看板にミサイルをあしらったものがありました。他にも、三沢には空港前、駅前から果ては郵便ポストに至るまで、様々なところで、飛行機のオブジェをみかけました。全体会の講師であった斉藤光政記者が、三沢には基地に反対する団体がないとおっしゃっていましたが、その実態がこのようなところにも現れているのでしょう。
三沢空港では、民間機の離陸の様子を見ることができました。離陸直後に駐機場と滑走路の間のゲートが閉じる様子は、米軍、空自、民間の共用空港というよりは、民間が軍に肩身を狭そうに居候しているといった印象を受けました。
次に向かったのは、海沿いの四川目地区にある金毘羅宮の碑文でした。四川目地区は、滑走路のちょうど真東にあり、戦闘機の爆音に耐えきれず集落全体が移転を余儀なくされたのでした。いまでは集落の面影は消え、原っぱの中にぽつんとお社がたたずんでいました。ジェット機など比べものにならない爆音と振動の中で生活せざるを得なかった住民の姿は想像するだけで胸が痛みます。
最後はいわゆる「ゾウの檻」をバスの中から遠巻きに見ることができました。モスクワの携帯電話の電波が拾えたという諜報活動用施設の存在感はやはり異様であり、このような施設が不要な時代を早く到来させる必要を改めて感じました。
短時間のツアーではありましたが、基地のある町の実態を垣間見ることができて勉強になりました。ツアーの企画を立てた黒沢団員や、前日に分かりやすい講義をしてくださった松井前団長、ガイドを務めてくださった中屋敷先生と奥本議員にこの場を借りてお礼を申し上げます。
東京支部 内 藤 功
五月集会第一分科会の第二日目(一〇年五月二四日)に、発言しました時のメモです。一試論としてご参考になれば幸甚です。
■安保条約廃棄に関する論議を本気でやるための問題提起
(1)わが方から論議を積極的持続的に起こす。
(2)当面、普天間、沖縄基地撤去問題を突破口として論議を起こし広げる。
(3)理論的解明を手抜きせず時間をかけてやる。
(4)沖縄戦の実相、占領下の基地拡張の暴挙、相次ぐ事故事件。本土における基地拡張の歴史を明らかにし、旧新安保条約はその継続追認であるという本質を明らかにする。
(5)安保条約条文とりわけ六、五、四、三、二条の従属的・侵略的性格を明らかにする。
(6)条文の文言だけではわからない日米同盟の実態の全貌を、密約群・合意議事録・地位協定・財政負担の特別協定・各レベルの日米合意から明らかにする。
(7)憲法を存分に使い違憲であることを論証する。その場合、一九五九年三月三〇日砂川事件の米軍駐留違憲判決(伊達判決)および二〇〇八年四月一七日名古屋高裁イラク訴訟の「平和的生存権」の 判示を充分活用し、さらにその論理を前進させる。
(8)沖縄、岩国、横須賀、横田、座間、三沢はじめ、「海兵隊を含む在日米軍全体」の侵略軍隊としての実態、日本政府の異常な支援態勢と日米両軍の一体化を明らかにする。この追求が徹底してお れば、「抑止力論」や「日米安保基軸(堅持)論」を破るのに余り 時間を要しない。最強の「攻め口」である。
(9)以上の学習討論の努力が持続されれば、対話・宣伝・組織の力が強化され、内外の情勢とあいまって、安保廃棄を日程に上げる時代は決して遠くない。その展望を持ち、安保条約一〇条二項によ る終了通告の条項の意義を徹底する。
(10)安保条約終了にともなう、対等平等の日米関係の構築(日米友好条約)、東北アジアの平和安全保障枠組みの骨格の展望を明らかにする。
(11)〇九年九月以降の連立政権の迷走逆走逆戻りの様相と対比して、志位和夫氏を団長とする代表団の米国における諸活動の意義を考える。今後の外交姿勢の基本を考える。
【付言】安保終了通告を身近に感じるための一案として、安保条約終了通告書の起案をおすすめしています。また進んで日米友好条約の起案など如何でしょうか。日中共同宣言(一九七二年)および日中平和友好条約(一九七九年)は参考になりましょう。
(一〇・六・一五記)
京都支部 塩 見 卓 也
青森五月集会の労働分科会に参加した感想がてら、松下PDP事件最高裁判決後における偽装請負・偽装出向・違法派遣事案のたたかいについて述べます。
私は、まだ松下PDP最高裁判決が出る前である、昨年の五月集会の労働分科会に参加した際に、実は大きな不満を感じていました。昨年の分科会では、各地から偽装請負等の事案につき提訴がなされている報告が沢山なされたのですが、私の聞いていた限りでは、それらの報告は「これこれこのような事案で、松下PDP事件の大阪高裁判決の判断枠組に従った主張で提訴しました」という内容にとどまるものが非常に多かったからです。
松下PDP事件の高裁判決は、たしかに全国の非正規労働者を勇気づけるものであり、素晴らしいものでした。そして、それに勇気づけられた人たちが全国で立ち上がったという報告は、それはそれでよい報告であると思います。しかし、あの高裁判決の衝撃があまりにも大きかった分、上告審がすんなりと終わるものではないことも簡単に予測できたことだと思います。弁護士として、あの高裁判決をふまえた更なる前進を勝ち取るためには、単に「あの判断枠組で提訴しました」というにとどまらず、「この事案はこういうものであり、この観点からすれば更なる前進を勝ち取れる」「こういう特殊性があるから、仮に松下PDP事件が最高裁でひっくり返されるようなことがあっても、この事案では勝てる」という事案分析と報告がもっとなされるべきだったのではないでしょうか。
実際、松下PDP事件最高裁判決後、偽装請負・違法派遣事案では、既に多くの下級審で敗訴判決が連続しています。かく言う私も、NTT三重偽装請負事件で京都地裁から不当判決をもらっております。労旬一七二一号では、特集で松下PDP事件最高裁判決後の下級審判決が四つ取り上げられております。これらはいずれも敗訴判決です。これらの事件を担当した先生方は(僭越ながら私も含め)、先に私が述べたような問題意識をもって取り組んできた方々だと思います。それでも、連続して負けているのです。今後のたたかいにおいては、理論構築においても更なる努力が必要ですし、さらに世論を盛り上げ裁判官に問題意識を持たせるための運動も重要になることは疑いないでしょう。
この点、今年の労働分科会は、このような困難な状況をいかにして突破するかという観点からの発言が多く、昨年に比べ勉強になったと実感できるものでした。特に、鷲見団員をはじめとする先生方からの今後の運動についての報告と、金子団員によるジェコー事件にて是正指導を行った労働局に対する文書提出命令を勝ち取ったことについての報告に勇気づけられたと思います。
五月集会後には、札幌の齋藤耕団員が、偽装出向事案である會澤高圧事件で出向先に対する黙示の労働契約の成立を認める判決を勝ち取ったとの報告を受けています。この事件にしても、ジェコーの事件にしても、この問題に取り組む者の日々の努力の成果が、松下PDP事件最高裁判決後の厳しい状況においても、着実に生まれてきております。私が代理人を務めるNTT三重偽装請負事件も、現在高裁に係属中です。この事件を含め、全てのたたかいで、違法状態で働かされる非正規労働者の権利を実現するために前進できるよう、決してあきらめることなく頑張り続けていかなければならないことを改めて感じた五月集会労働分科会でした。
福岡支部 金 敏 寛
二〇一〇年五月二三日と二四日にかけて青森県三沢市にて行われた自由法曹団五月集会に参加しました。青森の地を訪れるのは初めてでわくわくしていましたが、私のその気持ちを吹き飛ばすくらいの青森の五月下旬の寒さに驚きを隠せませんでした(二四日に集会が終了した後に昼食をとったお店の人に聞いた話によると集会のあった二日間はたまたま気温が低く寒い方だと仰っていましたが…)。どうでもいい話は置いておき、私は少し遅れて全体会に参加した後、宿泊先の古牧温泉青森屋で行われた貧困問題分科会に参加しました。
各支部で独自に取り組まれている活動の報告を聞きながら、それぞれいろんな活動をされていることに圧倒され、それぞれの地域の特色にあった活動をしているのだなと感心する一方でした。
弁護士になって初めて生活保護という制度を知った私は、貧困や生活保護という問題について自己責任という側面が大きいのではないかと思っていました。ところが、弁護士になってから生活保護に関連した事件に携わるようになり、私の誤った認識は瞬時に消去され、生活保護制度や貧困問題が、自己責任という単純な言葉では片づけられない大きな問題であるということに気付くことができました。
そのような認識を持っていても、各支部で取り組まれている活動報告を聞けば聞くほど、自分の認識がいかに浅いものであるかを気付かされました。
生活保護といえば、生存権裁判(老齢加算・母子加算の廃止処分の取消しを求める裁判)が全国各地で行われており、五月集会のときは、東京高裁と福岡高裁の判決期日が目前に迫っていました。
私も福岡で行われている裁判の状況について話をする機会をいただき、我々の臨む判決が出るであろうと報告しましたが、裁判が終結したときの様子からして、もしかすると勝つのではないかという思いを抱きながらも、負けるのではないかという不安が私だけでなく弁護団の中にありました(六月一四日に勝訴判決を勝ち取りました。初めての旗出しが生存権裁判の勝訴判決の旗であったことを一生忘れることはできません。生存権裁判の勝訴判決の報告については、後日、他の団員からあると思います。)。
貧困問題分科会に参加して、団員弁護士として裁判だけに力を注げばいいのではなく、裁判以外のより大きな問題に団員弁護士としてどのように取り組んでいくのかという姿勢を学べたと思います。私は在日コリアンです。日本で永住する我々外国人が住みやすい環境を作るためにも、まずはこの日本社会が住みやすい社会でなければならず、そのためにも貧困問題が「生きる」という最も尊重される権利と直結する重要な問題として、改善・解決されなければならないと考えています。
五月集会に参加して、たくさんの同期団員と話をすることで刺激を受けたこともたくさんありますが、長々となりましたのでその話は割愛させていただきます。
三沢空港から帰る青森の空気は冷たかったですが、五月集会に参加した私の気持ちは青森の寒さを吹き飛ばすくらい熱くなっていました。ただ、福岡についたときの福岡の空気は私の気持ち以上に暑かったです。
三重支部 木 村 夏 美
一 今年の五月集会分科会一日目は、憲法分科会と環境・公害分科会の合同で安保基地分科会が開催されました。
環境・公害委員会の西川研一団員から普天間基地爆音訴訟について発言があり、普天間基地周辺の爆音被害の実態について語られました。「心臓が押しつぶされ、はらわたがえぐり取られるような感じ」「いつまでも耳の奥に残る低い音で唸っているように聞こえる」等と紹介された被害者の具体的な訴えと、基地問題は人権問題である、問題の解決は被害に始まり被害に終わらなければならないという西川団員の訴えは、基地問題がすでに具体的で深刻な人権侵害をもたらしているということを多くの人に再認識させたのではないかと思います。
西川団員の報告に続いて、私も、「駐留外国軍地位協定における環境基準」について簡単に報告しました。ドイツと韓国における外国軍地位協定についてですが、これらの地位協定と比べても日米地位協定では日本が従属的な地位におかれていることがわかります。日米地位協定に環境基準を導入するべきという主張は、日米関係が決して対等ではないことを明らかにし、ひいては日米安保のあり方そのものを問い直すことにつながるのではないかとの意見を述べました。うまくしゃべれたとは思えませんが…。
さらに、籠橋隆明団員から、辺野古への新基地建設を環境保護(特にジュゴン保護)の点から、アメリカの裁判所において差止めを求めるという裁判について発言がありました。ジュゴンを原告に加える、アメリカで裁判をするという目新しさに加えて、ジュゴン側勝訴といえる中間判決を勝ち取っていることで注目を集めたと思います。この裁判は、もっと注目されるべきだと思います。
安保・基地の問題について、環境問題の観点から問題提起し、基地問題では公害として具体的で差し迫った被害がすでに生じていることを明らかにできたと思います。基地問題によって公害被害が生じていること、そしてその被害は基地周辺の住民のみが押しつけられている被害であり、その被害を日米安保のための不可欠な犠牲だといって無視することは、たとえ、米軍基地推進派、容認派であってもできないはずです。したがって、現実の被害の問題を大きく取り上げていくことは、基地問題解決の重要な一歩になると考えます。
二 二日目の分科会は、従来通り、環境・公害分科会として行われました。
長野県に建設が予定されている浅川ダムは、穴あきダムのテストケースである、穴あきダムは国交省が狙う今後のダム建設生き残り対策であるという指摘がなされ、民主党政府は不要な公共工事の中止を掲げ、八ツ場ダム中止を決める一方で、実は公共事業としてのダム建設をあきらめてはいないとの報告は、大型公共事業がまだまだ止まらないことを明らかにしました。
泉南アスベスト、B型肝炎訴訟については六〇期、六二期の若手団員から報告がなされ、その報告に対し、因果関係の立証はどのようにしたのか、強制執行は考えないのか等、ベテランの団員から質問や意見が活発に出され、四大公害訴訟から実績を積み重ねている自由法曹団の公害環境委員会の頼もしさを感じました。また、アスベストの問題については、泉南アスベストはアスベストの製造過程での被害が認められ、まさに上流の問題だが、今後は製品を使った人や解体作業に関わった人といった消費に関わる問題をどのように解決していくかが問題であるとの意見が出され、泉南アスベストの判決を経ても、アスベストの問題が今後深刻化していくことを予想させられました。
さらに、沖縄ジュゴン訴訟や、都市景観問題の最新の動向について報告がありました。
また、よみがえれ有明訴訟や、新内海ダム訴訟、地球温暖化問題についても資料が配られました。
今回の五月集会では、自由法曹団の団員が、各地で幅広く公害環境問題に取り組んでいることはもちろん、四大公害訴訟から積み重ねられてきた経験を活かし勝利に向かって連帯しようとする姿勢に留まらず、さらに新しい問題、新しい戦い方に積極的に挑んでいく行動力を改めて感じました。
神奈川支部 根 本 孔 衛
一 安保改定反対闘争の遺産
●連帯と協同のあり方の実践
安保改定反対闘争が自由法曹団のあり方と活動に大きな影響を残したことの一つは外の組織や違った考え方をもった人たちとの連帯のあり方ことである。
当時の最大の組織であった日本労働組合総評議会(総評)関係の事件には、私が所属していた第一法律事務所の弁護士は、佐藤義弥さんの昔の同僚であったことからする全農林、全林野労組との関係は別にして、かかわることがなかった。それが安保改定反対で私たちも色々な組織の人びとと一緒にたたかうようになったからは、総評系の運動でおきた事件についても弁護依頼がくるようになった。ただし、大量逮捕も予想しなければならない行動の場合の監視や、逮捕者が出て人手が足りない場合の地方出張などが主であった。それも被逮捕者の接見、拘留理由開示公判をやって、釈放なり保釈によって身柄が解放されるまでであり、本裁判になるとそれまでの関係事務所の弁護士が担当するというのが普通であった。
私はこれを「人足弁護士」と言っていた。それでもとにかくそのような組織の運動についても弁護活動をするということが大事だ、と思った。その後労働組合運動自体の変化があって、今日のように色々な組織との間につながりができ昔のような配慮をしなくてもすむことが多くなってきたのも安保改定反対の共同、統一の結果がもたらしたと言えるだろう。
もう一つは共同闘争にはつきものである考えの違った人たちとの関係についての考え方、あり方についてである。
この問題がおきた事例は、安保反対の大闘争の前の段階である一九五九年一一月二七日の国民会議の第八次統一行動で集団的国会請願がおこなわれた折りのことであった。この日の参加者八万人という大勢の力に警備側がおされたのか、学生の一部が門をのりこえ扉をあけ多数が国会の構内になだれこむ事態となった。これが建造物侵入罪ということで数名の学生が逮捕された。
その弁護には私たち新人弁護士があたった。それが起訴され公判の場になると、法廷でどのような主張をするかについて、被告人と弁護人との間で意見が分かれた。この日の行動について国民会議の方針では国家の構内への強行入場ということはなかったし、そこで指揮にあたっていた人たちは入門者たちに対して構外への退去を指示していたという。学生たち被告人はこれらを知っていたのであろうが、この入場強行が反対運動の盛上りになろうという戦術的考えをもっており、法廷においてもその方針の正当性を主張したい意向をもっていたようであった。私たち弁護士側は国民会議の立場から統一を進めるという方向で弁護活動にあたっていたので、これに反する被告人側の主張にそった弁護をすることができないという考えをもっていた。
このような場合、被告人としてはその考えを容認する弁護人を選任すればよいのだろうが、現実の問題としてそのような弁護士を見い出すことができなかったようだった。私たちとしても自らの考えと違った弁護活動をする義務がなかったから被告人たちの身柄が自由になった段階で辞任してもよかったのだが、しかしそうなれば彼らが弁護人なしの「はだか」で法廷に立たなければならないことになるであろうし、権力にて裁かれようとしている彼らを法的無防備な状態におきたくないと言うのが私たちの気持ちだった。この問題について両者の間で幾度か意見がかわされたが、双方の立場を考え合わせて、被告人たちは法廷内の言動において国民会議の方針を批判したり、自ら信じている戦術的正当性の主張をしないという合意に達した。この合意のもと判決言渡の日まで法廷活動が続けられた。
同じような問題は、翌年一月一六日、岸首相、藤山外相が改定安保条約の調印のための渡米での羽田空港出発の際にもおきた。国民会議の幹事団体会議は統一行動の発展という観点から羽田動員はしないという決定をした。しかし全学連所属の学生たちは前夜から空港ロビーを占拠して渡米阻止行動に出た。これを排除しようとする警官との間で乱闘となり、学生七八人が逮捕された。
私たちはこの逮捕についてもそれまでになされていた合意の趣旨に立って逮捕者の釈放までの弁護にあたった。それが公判に附される段階になり、このたびの被告人たちには弁護士たちと向き合って真面目に意見をかわそうという姿勢が見られなかった。それにこの日の行動自体、国民会議の方針とは異なることを敢えておこなったということであったので、私を含め弁護士たちは辞任した。
●安保改定反対闘争の教訓と団規約
改定安保条約はますます高まっていく反対運動によって参議院での審議は全く行われず、結局、六月一八日自然承認によって成立ということになった。それによってこの闘争は終結に向かったが、それが残した日本の平和と民主主義の発展へと残した遺産は大きいものがあった。
それによって行動共同の範囲はひろがり、統一の考え方も深まり、そのかたちも多様となっていった。したがってそれにしたがう自由法曹団の活動も多面にわたるとともにそれだけ複雑さを加えてゆき、違った考えをもった人びとの交流と共同行動のあり方がことあるごとにたえず問題になってきた。そのような時には団内でも論争がおこり、それらの解決の必要性にせまられた。
そのための努力の成果が一九六九年一〇月高野山での総会によって採択された現行規約第二条の団の目的であり、第三条の団員資格の定めであった。今後も統一と団結の広がりと深まりにしたがって、おのおの問題についてこれらをいかに解釈し、適用すべきかの問題はたえず生ずるであろう。これを裏から見れば、問題毎の対処の方針をきめるにあたって、この規約に定められた自由法曹団結成の根本精神に立ち帰って考えてみることの必要性である。「自由法曹団物語戦後編」の「はじめに」にこの問題にふれたところがあるが、せめてそれを一章として、この高野山総会の席でたたかわされた諸意見の集約とそれらの背景となした諸事件への対処においておきた問題の論点がとりまとめておかれなかったことがまことに心残りなことになっている。
安保改定は一九五七年六月に訪米した岸信介首相がアイゼンハワー大統領と共同声明をおこなったことから本格的な始まりとなった。この年の四月に私は司法研修所に入所したから、私の法律家としての人生は改定安保と丁度重なり合うことになる。日本の法制には日本国憲法と日米安保条約という二つの法体系があるといわれている。いわば、二つの法系間の相克と依存の相互関係が日本の国連を左右してきたことになる。私の公人としての一生は、大げさにいえばこの渦の中にまきこまれるままに、その後の基地反対、沖縄問題とのかかわり、被爆者援護など戦争被害補償、レッド・パージ回復、残存した天皇制問題等々日米安保条約とのたたかいであったといえる。
【註】自由法曹団規約
二条(目的) 自由法曹団は、基本的人権をまもり民主主義をつよめ、平和で独立した民主日本の実現に寄与することを目的とする。
団は、あらゆる悪法とたたかい、人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう。
三条(団員) 進歩と自由をねがい、人民の権利をまもることを志す弁護士で、前条の目的達成に協力する者は、団員となることができる。(以下略)
大阪支部 西 晃
(日米安保と私・・そして沖縄)
私のまことに身勝手な見通しでは、この原稿は団通信一三四八号(六月二一日付)に掲載され、改訂安保発効五〇年にあたる六月二三日前後頃に皆さんの手元に届いている(はず)である。
改訂安保条約が発効した直後の昭和三五年一一月に誕生した私は、従って安保条約の存在を当然の前提としてこの半世紀を生きてきた。あたかも憲法九条と日米安保が平和的に共存しているかのように。自分自身にとっては、一九九五年九月、あの沖縄少女集団レイプ事件が起こるまでは、安保条約は空気のような存在であった。野獣と化した三人の海兵隊員が僅か一二歳の少女に牙を剥いたこの事件は、浮ついた私を覚醒させる痛烈な一撃となった。以来一五年、大阪に住みながら私は沖縄と安保にこだわり続けている。これからも沖縄から米軍基地がなくなるまで、最後の米軍機が沖縄を後にするまでそれは続く(勿論私自身の存在が大前提なわけであるが・・)。
(鳩山から菅へ―沖縄を巡る情勢)
六月二日、鳩山総理が退陣表明をした。「最低でも県外」「(辺野古への基地建設は)自然への冒涜」とまで言い切っていた鳩山氏、最後はアメリカに屈服し、更なる沖縄への負担強要を置きみやげにして辞めた。
一国の総理としての言葉の軽さ、言動の不一致、民意無視の施策・・・非難されるべき点は多岐に及ぶ。また、この間の大手マスコミ報道は目に余るものがあった。一部を除き、ひたすら普天間移設先をどこにするのかの繰り返しであった。
しかしながら他方で、鳩山政権の迷走ぶりは、嫌でも、安保条約って一体何のためにあるのか、日本の「脅威」とは何か、「抑止力」って何のことなのか、そもそも何故日本はアメリカの意向に一方的に従わなければならないのか?と言ったこの問題の本質を多くの国民が考えるきっかけにもなった。
二〇〇〇億を超える思いやり予算を含む年間六五〇〇億の在日米軍駐留経費負担、七〇〇〇億ものグアム移転費用の負担、米軍がどんな迷惑を日本にかけようがその尻ぬぐいは日本負担(二〇〇四年沖縄国際大学ヘリ墜落事故で大学や周辺住宅への補償費約二億五〇〇〇万も全額日本負担)、刑事事件においても米兵は数々の特権に守られる。その一方で基地の街周辺では騒音被害・墜落の恐怖、数々の生活妨害、米兵犯罪の恐怖、今日も現実の被害が地元に突き刺さる。こんな隷属状態、一体いつまで続けるつもりなのか?
六月八日、鳩山氏を引き継いだ菅総理は、辺野古移設を明記した日米合意を遵守すると言い切った。鳩山氏の残した問題は、そっくりそのまま新しい政権に引き継がれた。
(従属から自立へ)
今年五月一日のメーデー大阪会場。きづがわ共同法律事務所が作成した横断幕は、日本国民一同からアメリカ軍への手紙という内容だった。何の説明も要らないくらい本質を見事に表現していた。きづがわ共同さんの了解を得て引用させて頂く。
拝啓 アメリカ軍のみなさま、 私たちの税金を使っての世界各国での 戦争お疲れさまです。 私たちは平和を願っています。 あなたたちの戦争に協力したくありません。 私たちの国のことは私たちが考えます。 日本に軍事基地はいりません。 どうぞご心配なくお引き取りください。 これからは対等な関係でおつきあいのほどよろしく おねがいします。 敬具 日本国民一同 (追伸) 基地の明け渡しは早急にお願いいたします。 |
あと少しで参院選である。隷属の思考に安住する政治から、自主・自立の日本へ、これを託せる政党と政治家を選ぶこと。それは何よりも私達の崇高な権利であり、そして主権者としての責務でもある。勇気を持って前に進もう。
広島支部 井 上 正 信
「抑止力」に負けたぁ〜、いえ 世論に負けたぁ〜 永田町を追われた、いっそきれいに辞めよう(議員の引退まで決意した鳩山総理大臣へ 「昭和かれすすきの」替え歌です)。
鳩山総理の転落は、彼が日米同盟の抑止力の呪縛に囚われ、自ら選択肢をなくしたことです。鳩山総理は五月二三日に沖縄を訪問し、沖縄県知事に対して、抑止力についてのそれまでの自分の認識不足を詫びました。ところが、鳩山総理は日米安保改訂五〇年に当たり、一月一九日談話を発表し、日米安保体制に基づく米軍の抑止力が日本の平和と安全に大きな役割を果たしており、日本の防衛だけではなくアジア太平洋地域全体の平和と繁栄に不可欠として、日米安保体制を深化すると述べたのです。五月二三日沖縄で、抑止力について認識不足であったと述べたということは、この談話の時にはもっと理解が浅かったとでもいうのでしょうか。
いったん日米同盟の抑止力を認めてしまうと、自縄自縛に陥ることは、鳩山総理に限らず、一部の政党を除き、日本の政界共通の体質になっているようです。
では、抑止力とは何でしょうか。簡単にいえば、相手国がこちらを攻撃した場合、攻撃による利益よりももっと大きい打撃をこちらから受けると相手国が認識して、こちらを攻撃しないであろうとこちらが考えることが出来る場合、抑止力が働いているといいます。つまり、抑止力とは優れて心理的な概念であるということです。抑止力が成り立つためには、いくつかの前提があります。まず、自分たちが考えるように相手も考えるであろう、その考え方は理性的だということです(金正日は何を考えるか分からないという北朝鮮脅威論者の議論は、北朝鮮には抑止力が効かないと主張していることになります)。相手の力を正確に認識できるということも前提になります。しかし、抑止しようとする相手の力には「透明性」がないことがしばしばあります。又、相手の意図など計ることはなかなか出来ません。結局推測するしかないのです。ましてや、相手がこちらの力を正確に認識していることなどできっこありません。このように、抑止力は心理的な概念であるため、客観的な定量化は出来ません。戦略論や安全保障論が、さも客観的で精密な議論をしていると思うと、期待は裏切られます。
一例を挙げましょう。最も洗練された抑止理論といわれた「相互確証破壊戦略」は、六〇年代以降の米ソ冷戦時代の核戦略です。どちらかが核先制攻撃(第一撃)を掛けても、攻撃された側に生き残った核戦力(報復戦力)で、相手側に壊滅的な破壊をもたらすことで、相互に抑止されて平和が保たれるというものでした。しかし、ICBMの多弾頭化と、精密攻撃能力から、先制攻撃により報復戦力までも破壊されるという不安、何時相手が先制攻撃をするかもしれないという不安から、行き着いた先は、警報発射態勢となりました。警報発射態勢とは、相手のICBM発射を早期警戒衛星が探知したら、直ちにこちらもICBMを発射するという態勢です。そのため、核攻撃する戦略爆撃機の半数は、常時滞空していました。滑走路上では第一撃で破壊されるからです。その結果、人類はいつ核戦争の破局を迎えるか、常に不安におびえながら暮らすことになりました。一本の細い髪毛でつるされたダモクレス剣が地球の上にぶら下がっていたのです。
私たちの間でも、普天間基地や海兵隊の抑止力があるのかないのか議論をします。むろん私たちは抑止力を否定しますし、普天間基地を撤去しても抑止力には影響ないと主張するでしょう。しかし、私はこのような議論は「禅問答」だと思います。何を議論しているか結局よく分からないのです。「抑止力」はつかみ所がありません。存在証明は不可能なのです。戦争にならない限り抑止力が存在するという乱暴な証明では、証明したことになりません。抑止が破れたときには抑止論はもはや機能しません。抑止論は、抑止が破れたときにはどのような結果になるのか語ってくれません。
安保条約のもとで日本は平和であった、という意見もそうです。安保条約は確かに存在し続けました。又、日本が武力攻撃を受けることもありませんでした。だからといって、この二つを因果関係で結び付けることは、論理的には出来ないはずです。
冷戦時代の日米安保条約で日本防衛とは、米ソ世界戦争の極東戦線の一局面で、ソ連軍が北海道へ進行した場合、自衛隊が防戦しながら米軍の来援を待つというものでした。
冷戦時代には、確かに米ソの世界戦争はありませんでした。これは安保条約があったからではなく、複雑な国際関係の中で、「幸いにも」起きなかったのです。六二年秋のキューバ危機では、本当に破局の瀬戸際でした。米ソ、キューバ三カ国に、危機への認識不足、情報の誤り、誤算などがあったことが、一九八九年キューバ危機に関する「モスクワ再検討会議」で明らかにされています(キューバミサイル危機一九六二 八木勇著 新日本出版社)。安保条約により、日本は米ソ世界戦争に巻き込まれる恐怖が続いたのです。
安保条約があったから日本は平和であったという議論に、私は大いに異論があります。ベトナム戦争では、日本が全面的に協力しています。戦争の加害国になっておきながら平和であったと主張する神経は理解できません。安保条約はむしろ日本を戦争に荷担させたのです。ポスト冷戦期では、日本へ本格的な武力侵攻はないというのが防衛政策の前提です。そのかわり、安保体制はアジア・太平洋に、さらにはグローバルに拡大されました。自衛隊が海外に派兵されるようになりました。しかし、これまで自衛隊員は誰一人武力紛争で殺されもせず、他国市民を殺していません。安保条約のおかげではなく、憲法九条の効果でした。
私は、このような怪しげな議論に囚われるのではなく、そもそも抑止力に頼らない安全保障を考えるべきだと思っています。
抑止力を考える際、冷戦時代のものとポスト冷戦時代のものでは、その内容や考え方が大きく違ってきていることも見ておかなければなりません。冷戦時代の抑止論は、相互確証破壊戦略で説明したように、米ソの相互抑止でした。相互に相手の先制攻撃を防ぐというものでした。ところがポスト冷戦時代の抑止論では、抑止の対象は反米的地域大国(といってもイラク、イラン、北朝鮮、シリアなどの中小国)です。これらの国から米国が抑止をされているわけではありません。むろん日本が北朝鮮に抑止されているとは誰も思わないでしょう。ポスト冷戦期の抑止論は、米国や同盟国の国益を脅かす場合、圧倒的な核・通常戦力により、場合によっては先制的にでも、これらの国を完膚無きまでに破壊するというものです。一方的抑止です。武力紛争を防ぐための抑止論というよりも、武力紛争への敷居が低くなり、国際関係を不安定にし、緊張を高めるものといえるでしょう。
日米安保条約五〇年に当たり、私たちの発想を根本から切り替える必要があると思います。私も含めほとんどの日本人は、安保条約の下で生きてきました。その時々の国際情勢の中で、目先の変わった脅威が私たちに示されました。ソ連、北朝鮮、中国、ならず者国家、テロリスト、大量破壊兵器と弾道ミサイルの拡散、果ては海賊や麻薬取引などの国際犯罪、大規模自然災害です。私たちは長年にわたり、脅威に対しては軍事的抑止力により対処する、という考え方に凝り固まってしまいました。北朝鮮脅威論はその典型です。冷戦時代の発想を未だ引きずっているとも言えます。このことが、北東アジアの国際関係を不安定で緊張をはらんだものにしています。ところが、憲法九条や前文が想定している安全保障政策は、「脅威と抑止」という考え方を根本から否定しているはずです。私たちが、「抑止力」に頼らない平和の仕組みを真剣に求め、政府にも政策選択を迫れば、日本と北東アジアは大きく変わるのではないかと思います。NPJ通信「憲法九条と日本の平和を考える」コーナーへ、二〇〇九年一二月九日にアップした「私たちがめざすもの(実憲のすすめ)」をお読みください。
普天間基地問題は、その試金石であり突破口です。普天間基地は無条件に撤去を求めればよいのです。沖縄の基地問題を解決し、日米同盟のあり方を根本から問い直す、今がチャンスです。
この原稿は、NPJ通信「憲法九条と日本の平和を考える」へアップされたものに、若干の修正を加えたものです。NPJ通信も是非お読みください。
http://www.news-pj.net/npj/9jo-anzen/index.html
東京支部 林 治
一 労働者派遣法改正案の問題点
民主党中心の政権が二〇一〇年三月に閣議決定し、四月から審議入りした労働者派遣法の改正案は、今まで規制緩和一辺倒であったところに、規制強化をする点では一定評価されるものである。
ところが、「登録型派遣の禁止」「製造業派遣の禁止」には例外が多く、禁止の対象となる派遣労働者の数の方が少ないことや、直接雇用された場合にも従前と同じ労働条件で雇われるため短期間に「雇止め」されることになるなど、実際に「派遣切り」された元派遣労働者の多くは「この改正案では救われない」などの声が聞かれ、このままの法律案を成立させることは認めるわけにはいかないものである。
昨年六月には当時の野党三党である民主党・社民党・国民新党は労働者保護にあつい改正案を示していたが、今回の政府案はこの三党案から大きく後退したものであった。
二 予定変更
もともとこの日は午後一時からホンダの期間工切り裁判の弁護団会議を予定していたが、与党が強行採決をする可能性が高いという国会の情勢を受けて、弁護団の鷲見弁護士と今村弁護士が集会に参加することになったため、時間を早めて弁護団会議を行うことになった。
そして、会議が終わったら「もともと、今の時間は会議を入れていたんだから何もないだろう」ということから、午後二時からの議面集会と議員要請に参加することを断ることもできずに参加することになった。
さらに大きな予定変更があったのは、前日の二日に鳩山首相が突然辞任し、国会の審議がすべてストップしてしまったので、「強行採決か!?」と考えられていた事態がなくなったことである。
そのため、「強行採決」という緊迫した状況はなくなり、安堵感が漂う雰囲気での集会になった。
三 集会で
集会には日本共産党の高橋千鶴子議員が参加し国会の報告をしたのに続いて、各労働組合や地方から参加の団員などが報告を行った。また、自由法曹団が行った院内集会も取り上げた東京新聞の労働者派遣法についての連載記事がなされていることも報告された。
いずれの報告も「強行採決を阻止した」という思いが伝わってくる内容のものであった。
四 議員要請
集会後の議員要請行動は、各党の厚生労働委員と三役クラスの議員を回った。
私が担当したのは、党三役クラスの議員であった。
最初に訪れたのは、鳩山首相(この時はまだ総辞職していなかったので首相だった)。辞任表明したばかりだったので議員会館の部屋はマスコミが多く取材に来ており、私が訪れた時も、秘書がマスコミ対応に迫られていたのでしばらく待たされた。一応、話を聞いてもらうために秘書には「今回の改正案は労働法制の規制強化の方向を向いた点は評価しています」と言って持ち上げておいた上で、「ただ、不十分な点が多くこのまま成立させたのでは労働者保護ははかれません」などと訴えた。「こんな今までの公約や労働者を裏切る様な法案を出しているから国民の支持を失って辞任に追い込まれたんだ」と言いたかったが、そういうことは言わずにおいた。秘書はこちらの話をしっかりと聞いていた様子で(営業用の対応かもしれないが)、「いただいた資料を検討させていただきます」と言い深く頭を下げていた。次に訪れたのは、自民党の大島幹事長。ここでの秘書の対応は露骨にいやな顔をされた。挨拶を済ませたら「そちらから何度も同じ要請をいただいてますよ」といきなり言われた。しかし、「今回はこの間連載された東京新聞の記事なども持ってきましたので、改めてお受け取りください。自民党さんとは立場は違うかもしれないが、与党だけで強行採決させるべきでないという点は一致していると思う」と言うと、「それはそうです」となり、狭い一致点ではあるが共感できる点を見出して終わった。
さらに、訪れたのは自民党の谷垣総裁。ここにも何度も同じ要請に言っていると思われるが、大島幹事長のときとは大きく異なり「ご苦労さまです」と迎えてもらった。こちらも気を良くして「派遣村のような事態をまた起こしていいとは自民党さんも考えていないと思います。今回の改正案では救われないという労働者もいるので、実際に派遣切りに遭った労働者の声なども聴きながらじっくりと議論をしていただきたい。少なくとも与党の強行採決は許してはいけないと思います」と訴えると「そうですね」とうなずきながら聞いていた。「派遣村」という言葉を出したら、すぐにわかってもらえたので派遣村が貧困を可視化した功績は大きいと改めて感じた。
そして、たちあがれ日本の園田幹事長のところへ。たちあがれ日本は自民党からわかれたところだし、全然相手にされないだろうなと思いながらも、挨拶を終えてから「たちあがれ日本としては派遣法についてどのようなお考えですか?派遣村のような事態を起こしてはいけないと思いますので、抜本改正が必要と思いますが」と聞いてみた。対応した秘書はやはり「派遣村」の言葉に反応して、「そう思います。今参議院選挙に向けて党の見解をまとめているところです」などと述べていた。重要法案に対する見解もないのか、って思いながらも「ぜひ、その資料を参考に労働者保護のための政策を実現してください」と言って資料を手渡した。
議員要請は、今までもいろんな問題で行ってきたが、企業側からも労働者側からも批判されている法律案について、首相が退陣表明した直後に行った点で、今までとは違った反応があった。
労働者派遣法改正案は、臨時国会への継続審議になりそうなので、秋の臨時国会でさらに運動を広げ、真に労働者保護のための抜本改正を求めていきたい。
東京支部 酒 井 健 雄
六月二日に新宿駅南口で行われた街頭宣伝行動、翌六月三日に行われた衆議院議員面会所集会・議員要請行動に参加したので、その感想を投稿します。
もともと、これらの行動は、青森県三沢市で五月二二日から二四日にかけて行われた五月集会の労働分科会のなかで、違法派遣で「みなし雇用」された労働者が一回こっきりの直接雇用で雇い止めされるおそれが高いなど問題点の多い政府案が強行採決される可能性が高い情勢だ、五月下旬から六月初旬にかけて運動を強め、なんとしても派遣法抜本改正に向けて世論を盛り上げる必要がある、との提起がなされ、急遽決まったものでした。
六月二日の街頭宣伝は、鳩山首相の突然の辞任表明の衝撃の中で行われました。新宿駅南口にあるパルコ前の雑踏の中で、団・全労連からの参加者計二四名が、団の「実現しよう!派遣法抜本改正」、「国際基準に遠く及ばない政府案」のリーフレット七〇〇部をまききりました。発言をしているときに、聴衆から「頑張れ!」の声を頂くという初めての経験もし、派遣という働き方のひどい実態と派遣法の抜本改正を求める世論が根強く広がっていることを感じました。
連日の行動であるにもかかわらず、六月三日の議面集会・議員要請行動には、団・全労連から二七名が参加しました。議面集会には高橋千鶴子共産党衆議院議員が駆けつけ、流動的な国会情勢について生々と語っていただきました。新たな組閣や参院選に向けて各政党が世論をにらんでおり、運動によって派遣法の抜本改正を実現できるチャンスであるという思いを強くしました。
私は、衆議院厚生労働委員に対する議員要請の班になりましたが、自由法曹団は「連日のように要請行動に来る」とたいへん名を上げているようでした(!)。国会の混迷状況を示すかのように、今後の見通しについて慎重な言い回ししかしない方ばかりでしたが、自民から民主への政権交代の原動力となった国民の思いは何かという原点に立ち返れば、派遣法の抜本改正によって貧困と格差を押しとどめることの国民生活の安定こそが最大の政策であることは明らかです。
派遣法や基地問題などで公約違反を重ねた鳩山内閣は、史上まれに見る支持率の急落という世論の力によって対人を余儀なくされました。運動と世論の力によって派遣法抜本改正を勝ち取れる可能性は広がっており、運動のさらなる強化が必要です。今後の行動への結集を呼びかけて本稿を終えさせていただきます。
愛知支部 森 弘 典
一 心臓機能に障がいのある労働者の労災が認められたマツヤデンキ過労死事件
「原判決を取り消す」、二〇一〇年四月一六日、名古屋高等裁判所(民事第三部高田健一裁判長)は、原告(控訴人)の小池友子さんが敗訴した一審判決を取消し、夫の小池勝則さんが亡くなったのは労災によるものだと認めた。
小池勝則さん(以下「被災者」という)は「心臓機能障害」として「身体障害者手帳」(三級)の交付を受けていた。一九九九年、「障害者職業能力開発校」を卒業し、設計会社に勤めた後、二〇〇〇年一一月一〇日、マツヤデンキ豊川店に身体障がい者枠で採用された。しかし、同年一二月二四日午後一一時三〇分ころ、慢性心不全を基礎疾患として、致死性不整脈およびこれによる心停止を発症し、死亡した(享年三七歳)。
被災者は就職してわずか一か月半後に亡くなってしまった。被災者は主治医から「事務的な仕事しか無理」と言われており、心臓機能に障がいのある被災者にとって、クリスマス前で家庭電化製品の販売がピークに達する時期の仕事(時間外労働)は量的にも質的にも過重であり、周囲の理解が得られない中、障がいを持ちながら立ち仕事を行うことは身体的にも精神的にもストレスがあった。被災者の妻(控訴人)は〇五年一〇月、名古屋地裁に遺族補償年金等不支給決定の取消訴訟を提起した。
二 「平均人」を基準に業務の過重性を判断した第一審判決
第一審判決(二〇〇八年三月二六日名古屋地裁)は、「本件の事案に鑑み」「業務による負荷が過重なものであるかの判断基準につき、被災者本人を基準として検討することとする」としながら、「平均人」を基準とした厚生労働省の脳・心臓疾患の認定基準に基づき、被災者の本件災害前一か月間の時間外労働時間数三三時間は「業務と心停止発症との関連性が弱いと判断される時間外労働時間数である四五時間」を「大きく下回っている」「被災者に時間外労働をさせること自体が過重な業務であるとの指摘は採用できない」として、業務外決定の取消を認めなかった。
三 本人基準に道を開く控訴審判決
控訴審判決は、「労働に従事する労働者は必ずしも平均的な労働能力を有しているわけではなく、身体障害者である労働者が遭遇する災害についての業務起因性の判断の基準においても、常に平均的労働者が基準となるという主張は相当とは言えない」として、憲法にまで遡り、「憲法二七条一項が『すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負う。』と定め、国が身体障害者雇用促進法等により身体障害者の就労を積極的に援助し、企業もその協力を求められている時代にあっては一層明らかというべきである」とした。そして、「少なくとも」「身体障害者であることを前提として業務に従事させた場合に、その障害とされている基礎疾患が悪化して災害が発生した場合には、その業務起因性の判断基準は、当該労働者が基準となるというべきである」と判示し、被災者本人を基準として、立ち仕事、時間外労働の過重性を認めた。障がいの有無を問わず、被災者本人を基準に業務の過重性を判断することに道を開く判決である。
四 障がいのある人もない人も安心して働ける社会に!
「障害者権利条約」(二〇〇七年九月二八日、日本署名)、労働安全衛生法、「障害者雇用促進法」、これを受けた「障害者雇用対策基本方針」で定められているとおり、被災者本人を基準として労働災害の予防がなされるべきである。そして、労働災害が発生した場合には、被災者本人を基準として業務が過重であれば、労災認定がなされるべきである。これは極めて当然のことである。
国の従来の姿勢では労働災害の予防は実現できない。これは本件のような障がいのある労働者だけの問題ではなく、全ての労働者に関わる問題であり、国の労働安全衛生に対する姿勢そのものに関わる問題である。
今後、国には、法令に従い、当該労働者本人を基準とした労働災害の予防、補償を実現させ、使用者に対して周知徹底していくことが求められる。
しかしながら、上告期限の二〇一〇年四月三〇日、国は最高裁判所に上告受理を申し立て、労働環境の改善を先延ばしにした。
北海道支部 亀 田 成 春
同 齋 藤 耕
一 二〇一〇年六月三日、札幌地方裁判所民事第一部一係(竹田光広裁判官)は、會澤高圧事件に関して、原告である諏訪部延允さんと會澤高圧コンクリート株式会社の子会社の株式会社ウップスとの雇用契約上の地位の確認を認め、一〇〇〇万円を超える未払い賃金の支払いを命じる判決を言い渡しました。
二 會澤高圧事件の事案は以下のとおりです。
二〇〇〇年三月頃、諏訪部さんは、會澤高圧が新たに設立する新会社であるウップスで勤務するため、面接試験を受け、採用されました。
採用後、諏訪部さんは面接を担当した上司の指揮の下、ウップスでミキシングオペレーターとして、勤務を開始しました。
諏訪部さんの希望で、四月から一二月の季節雇用でした。
勤務開始後、会社が交付した給与明細書には、雇用主は、會澤グループの別会社の有限会社静興運輸と記載されていましたが、諏訪部さんは、特に気にすることなく、勤務し続けました。
その後、二〇〇四年までは、毎年、契約を更新し続け、二〇〇五年からは、諏訪部さんが希望したことから、季節雇用から常用雇用へと変わりました。
以上の契約の更新、季節雇用から常用雇用への変更手続は、全てウップスの上司との間で行われ、静興運輸の関係者は一切関与しませんでした。
二〇〇七年三月、ウップスの上司から、交付された契約書には、諏訪部さんとの雇用契約を一年間とし、給与を一万円減額する内容が記載されており、これに不服の諏訪部さんは、直ちに、ローカルユニオンに加入し、団体交渉を申し入れました。
これに対し、会社側は、同年四月に、諏訪部さんに懲戒解雇を言い渡しました(第一次解雇)。
ウップスで開催されていたミーティングでの態度などを理由としたものであり、組合加入に対する不当解雇であることは明らかでした。
その後、団交を数回経た後、会社側(静興運輸)が、諏訪部さんとの雇用契約不存在確認の労働審判を申し立て、同申立書で、第一次解雇と同一の理由による普通解雇(第二次解雇)を通告しました。
諏訪部さんが、直ちに地位保全等の仮処分を申し立てることを約束して、上記労働審判は、取り下げられました。
その後、同年一一月までに、静興運輸を相手とした地位保全の仮処分が認められましたため、諏訪部さんと私達弁護団は、静興運輸を出向元、ウップスを出向先とする地位確認の本訴の提起を進め、翌二〇〇八年二月、提訴(第一次提訴)しました(ほぼ同時期に労働委員会への不当労働行為救済の申立もしました)。
その後、静興運輸は、債務超過を理由に同年三月三一日をもって、解散し、それ理由に、諏訪部さんに第三次解雇を通告しました(諏訪部さんの同僚は全員、新たに設立された会社に採用され、諏訪部さん一人が採用されませんでした)。
これに対し、弁護団は、親会社の會澤高圧に対し、法人格否認を理由とする出向元としての地位確認、ウップスへの出向先としての地位確認を求めて提訴し(第二次提訴)、その後、諏訪部さんの勤務実態に着目し、ウップスに対し、黙示の労働契約の成立による雇用上の地位確認を求めて提訴しました(第三次提訴)。
その後、二〇〇九年夏頃から、労働委員会での審問が先行しました。
三度の審問の結果、静興運輸の形骸化の実態、諏訪部さんの採用、賃金額(さらに、静興運輸・ウップス間の業務委託契約により諏訪部さん等の賃金はウップスが負担することになっていた事実)、雇用条件の変更、解雇の決定に静興運輸が関与せず、ウップスないし會澤高圧において決定していた事実が判明しました。
三 このような経過の中、今回言い渡された判決では、諏訪部さんとウップスとの間に黙示の労働契約の成立を認めたのでした。
判決文では、「静興運輸から被告ウップスへの出向は、あくまで形式的なものといわざるを得ず、静興運輸は、少なくとも原告らMOとの関係においては、給与の支払と明細書の発行、社会保険事務、雇用保険事務等を行う代行機関にすぎなかったものと評価しうる」として、諏訪部さんとウップスの間に黙示の労働契約の成立を認め、第一次から第三次の解雇を無効と判断しました。
四 昨年六月に発足した非正規労働研究会(仮称)での議論を大いに参考にさせていただきました。
今回の判決は、昨年一二月に言い渡された松下PDP事件最高裁決定との関係について言及していませんので、事例判決であると思われますが、同最高裁決定後、黙示の労働契約の肯定する裁判例を勝ち取ったという点でご報告させていただきました。
北海道支部 齋 藤 耕
一 二〇一〇年六月四日、最高裁判所第二小法廷(千葉勝美裁判長)は、原告ら五名及び会社側双方からの上告を棄却し、上告を受理しない決定を下した。
これにより、北海道NTTリストラ訴訟は、二〇〇九年三月二六日言い渡しの札幌高裁判決(五名の原告のうち、唯一道外配転された原告石黒について一五〇万円の慰謝料を認めた)が確定し、終結した。
二 NTT東西は、二〇〇二年以降、人件費削減のために、五一歳以上の労働者を対象にNTT東日本を一旦退職させ、新設子会社に約三〇%の賃金カットで再雇用するという大リストラ計画を進めた。九割強の労働者を退職に追い込み、退職再雇用を拒否した者らには、本人の健康や家庭の事情を無視した「見せしめ・報復」の全国配転を強行し、「事実上の五〇歳定年制」の貫徹を企図した。
退職再雇用を拒否したことで異職種・遠隔地配転を命じられた通信労組組合員が、配転無効確認と慰謝料を請求した裁判がNTTリストラ訴訟であり(全国七か所四九名が提訴)、北海道では二〇〇二年秋に五名の組合員が提訴した。
二〇〇六年九月、全国で最初の判決が札幌地裁で言い渡され、原告全員について、業務上の必要性がない(四名)か、あるいは配転障害事由がある(原告石黒)として、慰謝料の支払いを命じた(原告石黒一〇〇万円、他五〇万円)。
その後、控訴審判決は、五名全員について配転の必要性を認め、原告石黒についてのみ配転障害事由があるとして慰謝料を一五〇万円に増額、他の四名については、請求を棄却した。
三 原告石黒には、配転当時、八六歳の父、八一歳の母(両親とも身体障害、要介護の認定を受けていた)が近くに住んでおり、原告石黒夫妻が介護をしていた(ちなみに、本訴前の配転差止仮処分の際、会社は社員に両親を盗撮させ、補助車に掴まって歩く母親の写真を出して、介護の必要性がない等と主張した)。
原審判決は、原告石黒への配転命令が「当該労働者の家族の介護の状況に配慮しなければならない旨定める育児介護休業法二六条にもとるものといわざるを得ない。」と判示し、これが確定したのである。
これにより、退職拒否者に対する全国配転が、家庭事情を無視した非人間的なやり方であり、それを見せしめとしてリストラ貫徹を図ったことが、裁判で明らかになり確定したことに大きな意義がある。
今後、配転障害事由の判断として、両親らの介護の必要性を考慮されるべきことを認めた高裁・最高裁判例としての意義も大きい。
四 私たち弁護団は、東亜ペイント最高裁判決が、ワーク・ライフ・バランスが問題となっている現在においても維持されるべきなのか、最高裁に問うた。
その結果が、上記棄却判決であり、結果において門前払いに終わった。
先行する東京訴訟、大阪訴訟での最高裁決定から予想されたものではあるが、大きな課題が引き続き残された。
五 北海道においてNTTグループは、昨年一〇月以降、NTT東日本―北海道に在籍した約七〇〇名の契約社員に対して、グループ内の派遣会社への転籍を強要する暴挙に出た(詳細は、今年の特別報告集の報告を参考されたい)。
本件判決から一週間後の六月一一日、転籍強要の派遣社員三名が、NTT東日本―北海道を相手に、雇用契約上の地位確認の訴えを札幌地裁に提起した。
同提訴については、別に報告される予定であるが、北海道では、NTTを相手にした新たな闘いが始まった。
(北海道NTTリストラ弁護団 佐藤哲之、佐藤博文、奥泉尚洋、竹中雅史、渡辺達生、竹之内洋人、齋藤耕各団員)
東京支部 萩 尾 健 太
一 政府による解決案とその受諾
一九八七年の国鉄分割民営化から二四年目の本年四月九日、JR採用差別事件に関して与党三党と公明党がまとめた政治解決の具体案をうけ、政府が解決案を提示した。
解決案の対象は係争中の国労、全動労組合員(遺族を含む)原告の九一〇世帯である。当事者が求めてきた「雇用・年金・解決金」のうち、年金・解決金については、和解金として昨年三月の高裁認容額+訴訟費用分の各人一五六三万三七五〇円、団体加算金として五八億円(五七二万円×動労千葉、他組合を抜いた一〇二九人)を、国鉄を継承した鉄道建設・運輸施設整備支援機構が支払う。機構の支払いは計約二〇〇億円になり、旧国鉄職員の年金支払いなどに充てている剰余金から支出する。
また、雇用対策として政府がJR各社に約二〇〇人を雇うよう要請するとされた。
しかし、政府は必ずしも全員採用は保証できないとの条件が付された。
同日、この問題で訴訟を闘っている国労・全動労組合員らの原告団と組合・支援団体で構成する四者四団体(国労闘争団全国連絡会議・鉄建公団訴訟原告団・鉄道運輸機構訴訟原告団・全動労鉄道運輸機構訴訟原告団・国鉄労働組合・全日本建設交通一般労働組合、国鉄闘争支援中央共闘会議、国鉄闘争に勝利する共闘会議)は、「JRは雇用を受け入れてほしい」としつつ、政府案を一二日に受諾した。
さらに、二〇一〇年五月一七日に、政治解決案受け入れについて、対象の九一〇世帯中九〇四世帯の原告が、前原国交大臣に承諾書を提出し、前原国交大臣は一八日、鉄道運輸機構に和解を指示した。
六人の原告は裁判闘争を継続するが、九〇四世帯については、六月末までに、最高裁判所で和解がなされ、裁判に限っては終結する予定である。
二 雇用実現なくして解決はない
この事態を受けて、世間では「JR採用差別事件が解決した」との誤解が蔓延している。しかし、雇用の実現がなければ国鉄闘争は終結しない。
(1)被解雇者らの苦難
被解雇者らは、長年にわたる差別・偏見をはねのけての闘争の継続のなかで、塗炭の苦しみを味わってきた。離婚したり、子どもと別れたりという不幸を味わってきた者もいる。解決を見ることなく他界した被解雇者は六一名を数え、病床に臥せっている闘争団員・争議団員も多数いる。それは、この闘争が精神的にも肉体的にも過酷なものであることを示している。
この二三年の間に、死別した親や祖父母の墓前に、勝利解決を報告したい、それが被解雇者らの思いであった。しかし、これで終わるわけにはいかない。
(2)被解雇者らの雇用の要求
被解雇者らの要求は、従来から、鉄道の職場に戻ること、すなわち「解雇撤回・JR復帰」である。国労闘争団員の平均年齢は五六歳、全動労争議団員の平均年齢は六三歳であり、すでに退職になった者にとっては、JR復帰は不可能だが、特に国労闘争団員は、一九八六年当時、組合の方針の正しさを確信して組合脱退に応じなかった純粋な青年労働者が多く、現在も四〇代の者が少なくない。
四者四団体は、政府与党と公明党に対して、以下の雇用の要求を提出していた。
そして、政府も「保証はできない」としつつも、JRへの二〇〇名程度の雇用、その他の雇用については、政府としても努力する、との四党案を受け入れたのである。
(3)被解雇者らの生活と国家的不当労働行為論からの雇用実現の必要性
上記の一人平均二二〇〇万円との金額は、二三年にならせば一〇〇万円に満たない。解雇された当時は、多くの被解雇者が子育ての最中だった。それから二四年たち、今は親の介護が問題となってきている。その間、闘争団にアルバイトなどの収入を入れて、そこから必要に応じて一〇数万円程度の分配を受ける苦しい生活をしてきた。現在の困窮した状況で、上記金額を得ても、原告らは再び路頭に迷ってしまう。
しかも、JR採用差別事件は、当時の中曽根首相が「国鉄改革は、国労を潰し、総評を崩壊させて、社会党を崩壊させるために行った」と、テレビや雑誌誌上で誇らしげに豪語している国家的不当労働行為・国家的陰謀である。政府は、この国鉄改革法式にならって、郵政民営化・社会保険庁解体を推し進め、現在、さらに「公務員の業務をゼロベースで見直す」とする「道州制」を実現しようとしている。そのことからしても、JR復帰を実現して一矢報いることなしに、闘争を終了することはできない。
なんとしても雇用の実現を果たさなければ、真の解決にはならないのである。
三 雇用実現の取り組みへのお願い
四月二六日の国労臨時大会で、高橋伸二委員長は「政治解決は新たな出発点であり雇用問題に全力を挙げる」と発言した。国鉄闘争に勝利する共闘会議は、五月二九日に開催した総会で、雇用の実現へ向け闘争体制を継続し、今年二三日のJR各社の株主総会にも、少数株主による議案提案権行使などにより取り組むことを決めた。
雇用実現の取り組みはすでに始まっている。鹿児島県弁護士会では、井之脇寿一団員の尽力で「一〇四七名問題の解決に関する会長声明」を採択し、政府に対してJRへの雇用を実現するめの働きかけ強化を求めた。全国各地で、このような声明を挙げるなどの雇用の実現に向けた取り組みをお願いいたします。
秋田県支部 虻 川 高 範
一 連続勝訴判決
本年(二〇一〇年)四月二一日、秋田地裁(鈴木陽一裁判長)は、秋田県北秋田市に対し、原告の国民健康保険税減免申請を却下した同市の処分を違法として取り消すとともに、同却下処分などをした同市職員の行為を違法として、慰謝料等六万円の支払を命ずる「原告完全勝訴」判決を言い渡した。
また、同月三〇日、同地裁(同裁判長)は、秋田県仙北市に対して、原告の国民健康保険法四四条に基づく一部負担金減免申請を不承認とした同市の処分を違法として取り消す旨の判決を言い渡した。
いずれも生活困窮のため国民健康保険税や一部負担金(窓口での医療費一部負担)の減免を求めた願いを、真正面から受けとめた連続勝訴判決であった。
二 セーフテイネットとしての減免制度
生活保護が最後のセーフティネットと言われているが、それに至までのセーフティネットが不十分だという指摘も多い。
一方、収入が少ない人たちが加入せざるを得ない国民健康保険制度(国保)でも、高い保険料(税)が払えないとか、医療費(窓口負担)が払えないため治療を控えてしまうとかの問題が指摘されている。国保税を払ったら生活保護基準以下の生活を強いられるとしたら、生存権保障が実現されているとは言い難い。
このような場合、国保税の減免(地方税法七一七条、国保条例)とか、一部負担金減免(国保法四四条)とかの減免規定が活用できれば、セーフテイネットとなりうるはずだった。ところが、それら減免規定が十分に適用されてきたとは言い難い。自治体によって、ほとんど減免が認められないところも少なからずある。実際に申請しようとしても、なかなか受理しようとしないところもある。生活保護の現場で指摘された「水際作戦」がここでも行われていたのである。
秋田県生活と健康を守る会(県生連)は、このような減免制度の実態がセーフテイネットという本来の法の趣旨に反しているとして、県内の複数の自治体を被告とする一連の減免訴訟を提起した。今回の二判決は、その緒戦の成果である。
三 判決の概要(1)(北秋田市事件)
北秋田市は、国保税の減免申請者に対し、本人及び家族の資産調査に同意するとの書面(いわゆる「一括同意書」)の添付を求めていたが、原告はその提出を拒んだ。そのため、原告の申請を受理しようとせず、二時間も窓口で押し問答を繰り返した。また、家族の預金通帳の提出等を求めたのに対しても、原告は家族の預金額の概要を示したが、通帳の提示はしなかった。
これに対し、北秋田市は、原告が 同居家族の預貯金額を裏付ける書類 (同居家族の預貯金通帳の写しなど) を提出しないから、減免の判断ができないとして、申請を「却下」した。もともと、本件原告世帯の収入は生活保護基準以下で、原告本人の保有預金もわずかであったし、同居家族の預金もわずかであることが窺えたから、本来、減免申請は承認されるべきであったが、被告は、家族の通帳等を提出されないことを理由として却下したのである。
判決は、「地方税法七〇七条一項において、納税義務者以外の関係者に対しては質問のみができると定められて」おり、「納税義務者とされていない同居家族の預貯金通帳の写しなどの提出・提示を求めることは」「許されず、また、同居家族の預貯金通帳の写しなどを任意に提出・提示しないことのみを理由として減免申講を却下又は不承認とすることは、実質的にこれらの提出を強制する結果となるから、これもまた許されない」という判断を示した。裁判所は、裁量権逸脱濫用の判断枠組みを使い、「考慮すべきでない事項」(地方税法七〇七条一項で提出を強制できない書類が提出されないこと)を考慮に入れたとして、本件却下処分を違法と判断したのである。
そして、右の通り原告の減免申請が承認されるべきであったのに、被告職員が調査を尽くさず申請を却下し、また、同意書の提出等に固執して二時間も受理しなかったことなどは、原告に軽視できない精神的苦痛を与えた違法な行為であるとして、慰謝料等六万円の支払を命じた。
家族の資産調査の「同意書」を執拗に求めて減免申請をさせないという「水際作戦」が横行する中、その提出要求を違法と認めた判断の影響は大きいと思われる。
また、国保税減免処分には広い自由裁量が認められるとの被告の主張を排斥し、踏み込んだ判断をしていることが注目される。
四 判決の概要(2)(仙北市事件)
仙北市の千葉さんは、実母らと桜皮細工(かばざいく)製造業をしていたが、実母の入院で収入が激減するとして、治療費(国保の自己負担分)十数万円の減免を仙北市に申請したところ、同市は、仙北市の基準(要領)にあたらないとして、同申請を不承認とした。
国保法四四条は、「特別の理由」がある被保険者で「一部負担金を支払うことが困難」であると認められる者に対し、一部負担金を減免することができる旨定めている。
仙北市は、この「特別の理由」について、基準(要領)を定め、「収入が著しく減少したとき」という要件を掲げ、その具体的基準として、「収入の減少割合が二分の一以上の場合」としているが、原告の収入は年収一七五万円から一四〇万円に減少がこれに該当しないとして不承認とした。
判決は、このような「半分以下の減収」という要件に該当しない場合に形式的に「特別の理由」に該当しないというような、総合的な判断を入れる余地のない基準は、不合理であり、原告世帯の収入が生活保護基準の七〇・一%まで落ち込んでいる事実を全く考慮に入れずに、基準を形式的に当てはめ、それに該当しないことのみを理由として本件申請を不承認とすることは、明らかに合理性を欠くと判断した。
いわば形式的、硬直的判断は、国保法四四条の趣旨にそぐわいとして、原告世帯の実態に即した判断を求めたのである。
五 今後
両事件について、両市とも控訴し、仙台高裁秋田支部での審理が九月以降に始まろうとしている。一方、地裁では、他の争点(一部預金があるというだけで不承認とか、大学生を世帯に含めず生活保護基準以上として不承認とか)による一連の減免裁判が続いており、今年中に判決が出される見通しである。
貧困が広がる中、厚労省も、遅まきながら、失業者への国保税減免の要件緩和や、国保法四四条の積極活用を通知したというが、生存権があらゆるところで保障されるため、減免制度の実効ある活用が求められている。
(弁護団は、沼田敏明、虻川、狩野節子、三浦広久、西野大輔各団員の五人で、事件(1)の主任は虻川、同(2)の主任は三浦広)
大阪支部 半 田 み ど り
二〇一〇年五月一九日、大阪地方裁判所は、アスベスト被害に対する国の不作為責任を追及した大阪・泉南アスベスト国家賠償訴訟において、原告ら二六名に計四億三五〇五万円の支払いを命じる画期的な勝訴判決を下した。
大阪南部の泉南地域は、古くから石綿紡織業が栄えた。大型工場は数えるほどで、ほとんどが中小零細企業である。工業地帯があったわけではなく、民家や農地や幼稚園・学校などと並んで、いくつもの石綿工場があった。
このたび原告として立ち上がったのは、石綿工場で働いた労働者(一時期経営者だった者もいる)やその家族、死亡した労働者の遺族、石綿工場の近隣住民の遺族である。
判決は、石綿肺の医学的又は疫学的知見が昭和三四年におおむね集積され、石綿肺の被害の防止策を総合的に講ずる必要性を認識していたと言うことができるため、昭和三五年において、局所排気装置の設置を義務づけなかったこと、および、昭和四七年に、石綿粉じん濃度の測定結果の報告および改善措置を義務づけなかったことを挙げ、国の省令制定権限不行使の違法性を認定した。
また、国は、国に賠償義務があるとしても、使用者等のそれに比べて相対的に低い割合に限定されるべきと主張したが、判決はこの主張を排斥し、国の責任は使用者との共同不法行為であると認定し、国に一次責任があると判示した。
そして、損害および賠償額の認定において、判決は、「全人格的被害」である深刻な被害の事実を正面から受け止めた。
石綿関連疾患がもたらすのは、息苦しさや咳などの肉体的な苦痛ばかりではない。石綿関連疾患は治療法もなく、進行性のものであり、患者の将来への不安は計り知れない。
患者原告らは、みな、家族や元同僚など周囲の患者が次々と悲惨な最期を遂げる姿を目の当たりにし、「明日は我が身」と恐怖している。現に、提訴してから、三名の原告が亡くなった。
患者は仕事も続けられなくなり、入浴や着替えなど日常生活上必要な動作も出来なくなり、家族の援助を要することになり、家族への深い負い目にさいなまれている。家族は、日に日に悪化していく患者の介護に忙殺され心身ともに疲弊する。石綿肺に苦しむ老父を一三年にわたり介護した原告の女性は、底なし沼のごとき介護に絶望的になり、つい「早よ死に!」と父に口走った。彼女は何年経っても深い後悔から逃れられずにいる。
原告らは、まさしく、人生そのものを破壊されたのである。判決は、この被害の深刻さを受け止め、被害を償うに相当な損害賠償を命じた。
石綿肺の管理区分が二で合併症のない患者原告についても、石綿関連疾患全体の進行性、不可逆性と言った特質に照らせば、将来の不安自体も軽度のものと言えないとして、相応の慰謝料を認めた。残念ながら、昭和三四年以降石綿労働に従事しなかった原告・労働者の家族・近隣住民の遺族については、敗訴となった。
しかし、労働者の家族・近隣住民の遺族は原告団代表として運動の先頭に立った原告であり、前向きに全体としての勝利を喜び、判決後の運動も引っ張ってくれた。
判決翌日から、原告団・弁護団・支援者は、厚労省前で一三〇〇人の集会を開き「国は控訴を断念し早期解決をせよ。」と訴えた。これに続く連日の訴えの中、一時、国が控訴断念を表明していると報道された。
しかし、結局、鳩山政権末期のどさくさの中で、国は控訴し、執行停止も決定された。
国は、司法判断も、原告らの懸命の訴えも踏みにじったのである。原告らの命を軽視し、救済の責任を放棄した、極めて不当な控訴である。
私が担当した二名の患者原告は、いずれも七〇歳代であり、裁判を戦う中で目に見えて症状が悪化してきた。
自らは多くを語ったり、訴えようとはしない(あるいは苦しくてできない)患者原告に、「『私たちには時間がありません。どうか一刻も早く解決して下さい。』と訴えて下さい。」と、尋問や意見陳述の打ち合わせの中で繰り返し頼んできた。
公害・薬害などの裁判では、このような訴えは一種の「決まり文句」なのかも知れない。
しかし、患者本人を目の前に、「時間がない。」と言う言葉を口にするのは辛かった。何て酷いことを言っているのだろうと言う自己嫌悪も感じた。
もう、原告に「時間がありません。」とは言わせたくない。国は被害者らを見殺しにすることはやめ、一刻も早い全面解決と謝罪を行うべきである。
事務局長 杉 本 朗
先日、団通信一三四五号(五月二一日号)でお知らせしたとおり、本年九月四日に、『上田誠吉さんをしのぶ会』が開かれますが、それにあわせて上田さんの思い出などを集めた文集を発行します。
上田さんを直接知る人もそうでない人も、次の要領で、ぜひ原稿をお寄せ下さい。原稿は、FAXまたはメールで、東京合同法律事務所までお送り下さい。
テーマ 上田さんの思い出、上田さんの人となり、上田さんの活動、上田さんの本を読んでなどなど、上田さんにまつわるものであれば何でも可
字 数 一〇〇〇字〜一五〇〇字
〆 切 二〇一〇年七月一二日(月)
集約先 東京合同法律事務所
FAX 〇三―三五〇五―三九七六
なお、『上田誠吉さんをしのぶ会』は、九月四日(土)午後二時から七時までの日程で、学士会館で行われる予定です。参加される団員の方は、大至急、団通信一三四六号(六月一日号)に同封した「しのぶ会へのいざない」にご記入の上、団本部までFAXでお送り下さい。(団本部FAX・〇三―三八一四―二六二三)